9/30 先日、東京の武鹿野氏から絵葉書が届いた。好天の剱岳・立山を楽しんだが五色ヶ原に着いたら雨になり、小屋で停滞中に私へのメッセージになったらしい。 連絡を受けても行けないくせに、富山に来たのなら、一声掛けてくれたならなどと思うのは何故だろう。武鹿野氏とは、4年前「針ノ木岳」で、それこそシャッターをお互いに切り合っただけの間柄なのに、年賀状はもとより、時々山の便りを交換している。彼は私より若いはずだが、PCにはあまり興味がないらしく、いつも得意の写真を活用した手製のハガキに山の空気を送ってくれる。北アのあちこちもあれば、外国の山もある。今夏は北海道であった。私は、返信を怠る事もあるが、時々「とやまの山」の良さを伝えているつもりである。もうお互い顔など忘れてしまったかもしれないが、こんな便りがずーっと続く事を願うものであり、出来れば劇的な再会を夢見るのである。



9/29 熊との遭遇を何としようか迷った挙げく庄川町役場に情報提供したら、意外とその対処が早く、林道入口と三段の滝・二本杉の3ヶ所に、その状況と熊との対処法が書かれた看板を、設置するという内容の返事が添付メールとして送られて来た。
 その中に、「万が一、クマに出会ったときは、静かに持ち物や衣類を地面に置き、それらにクマの注意をそらして静かに逃げましょう。  突然クマと出会った場合は、急に大声を出したり走ったりすると、向かってきたり、追いかけてきたりします。むしろクマが逃げる機会を与えるように冷静に振舞うように心がけてください。」とあったが、持ち物を置いて逃げるなどとは、貧乏人の考えからして思っても見なかった。なるほど、熊の注意をそらす効力があるやもしれない。
 クマが音に敏感である習性を利用して、大声を出して歩いたり、ラジオ、鈴などにより音を出して、人の接近をクマに知らせのは言うまでもないが、出会ってからは、大声を出したり、走ったりするといけないとあるが、そーっとしか対応策がないのであろうか?「熊」の話題がしきりで、今秋の山行にかなりの支障が出る事は間違いないであろう。 p.m.11:00



9/28 昨日の熊出没には本当に驚いた。2~3年程前雪の牛岳で高岡カラコルムクラブの岡田三郎氏に出会った時、“ 牛岳には熊が一頭いる。” と言われたが、どうも信じがたかった。「熊出没」「や「熊に注意」などは、“ 山菜を採るな!” の予防線くらいにしか思えず、知人にも“ 牛岳には熊はいないよ。” “ 少なくとも登山道には出ないよ!” などと豪語していた。しかし、4~5日前の新聞紙上に庄川町湯谷近くの「落シ集落」で熊を見掛けたという記事を見ていただけに、今回はやっぱりとなってしまった。考えてみれば、以前庄川や国道を挟んだ対岸の八乙女山で、熊に襲われたニュースや、知人が熊を見掛けたと聞いていた事があっただけに、牛岳に現れても決して不思議ではなかったのであろう。
 さて、熊への対処法となると、てんで知識はない。過日の事故でも、死んだふりもダメのようだし・・・昨日の私は、そうっと後ずさりしたが、気持ち的には、まず身体を大きく見せようと思った。(何かの本で読んだ気がする。でも、その対象動物が熊だったか他の動物であったかよく覚えていない。)撃退スプレーなるものがあると聞くが、とっさに取り出せるように、腰にでもぶら下げておかなければならないから・・・出来るのだろうか? 近付かない近付いてもらわないために、凛やホイッスル・ラジオなどはどの程度効力があるのか推測でしかない。そんな所に出掛けなければよいのかになってしまったら、やはり寂しくてならない。 p.m.2:20



9/27 「百歳までかもしれないし、明日までの命かもしれない。今日も一日めくれた事に感謝し、頑張るのではなく努力しなさい。」上手く伝えられないが、昨夜友人O君の通夜に参列した時の住職が語られた法話の一部である。今朝暗がりに牛岳に向かった。葬儀のため山行中止になった事もあるが、O君の無念を何かにぶつけたかったからかもしれない。「山」には興味のなかったO君に、わかってもらおうとも思わないが、自分流の彼への追悼の意味を込めて一目散に駆け上がった。ハーハー息を切らしながら、O君との些細な事も想い出となって脳裏に浮かび上がって来た。今夏に下草刈が行われたのであろうが、伸びた草木の露がズボンを濡らし、ぬかるみこそないが、道も濡れ決して早駈けには適してはいなかったが一生懸命歩いた。そうしなければならないように思った。いや自分の身体を、何故かいじめたいように思ったのかもしれない。もちろん葬儀開始のⅠ時間半前くらいに会場に入りお手伝いをしなければならない思いもあったが・・・・。
 霧雨の中、三脚を立て一枚だけデジカメで写真を撮った。それは牛岳86回目の証拠写真でもあるからである。今日は長居する事もなく、お茶を飲んで早々に下りにかかったが、8合目付近に差しかかった頃、風もないのにガサガサ音がした。よく見ると、左(山側)前方の樹木から熊が降りて来るではないか? かなり近距離。最近熊の事故が多いし、やっぱりひるんでしまった。鈴をメチャメチャに降り後ずさりし、陰になったところで、ザックからホイッスルを出し吹きまくった。何十秒なのか何分なのかわからないが、今度は、のそりのそりデジカメを持って近付いたが、もう熊はいなかった。霧雨のためカメラをザックの中に仕舞い込んでいたのが悔やまれるが、そんな事より何もなくて良かったのだ。人間(自分)は本当に欲張りである。でも、不思議なもので、その熊がO君の代わりとなって私に忠告しに来たのではないかと思ってしまった。熊との遭遇は5/4の大平山以来今年2回目である。 p.m.6:50



9/26 先月までは全休日、山に出掛けていたが、今月からそのスタイルが崩れてきた。上旬は娘との旅行、今回は友人の不幸、来月の連休(10/4~10/5)は、忘れていた会合がある。もっともその会合は夜で、泊り掛けでなければ山には行けるのであるが、計画が破綻になりそうである。人との付き合いは大事で、我ままを通せば、必ずしっぺ返しが来るようである。ライフスタイルを壊さず、周りの人との融和を図るのも難しい。我を出さず、「忍耐と寛容」などと、そのように生きていければ素晴らしいのであるが・・・・・。 p.m.5:40



9/25 同業のO君が亡くなった。“ また山へ行くが”“ 山しか行かんが・・・”などと言葉少なめの一つ年下の男。有志の会合で月に一度しか会わなかったけれど、帰路の車の中で、会では言えない小さな事を語りあえた。明日は通夜、明後日は葬儀で彼を弔わなければならないが、丁度葬儀の日は、久し振りに北ちゃん、F女史と、山ノ神とで赤谷山に行く事になっていたのだが、事情を説明してキャンセルにさせてもらった。お互い楽しみにしていただけに、とても残念でならない。しかし、不幸と言うものは、前触れもなく突然やって来るものらしく、各々の人生をひっくり返してしまう。必死に流れに逆らう人生、流れに流される人生もあるが何が良いかわからない。只、悔いを残さぬようやるしかないのであるが、どの道を歩んでも必ず悔いるし、えらぶる事もなければ、悲観する事もないように思うのであるが如何なものだろうか? p.m.11:59



9/24 「掲示板」の有無を問われ、“あったら、ちょっと書き込まれるのに!” と言われる事が何度もある。しかし、いろいろなHPの「掲示板」を見るに付け、管理人の思いと全く異質のものが書き込まれたり、酷い中傷なるものもあって、とても小心者の私には似合わないと拒み続けている。中には、一方的に管理人だけが綴る「掲示板」もあり、あれはなかなか良いのではないかと思ったりもする。好きな事を書き綴り続けている当欄も考えてみればそのようなものかもしれない。朝日小屋の掲示板もこの度閉じられる事になった。本来の目的から越脱始めた頃から、拝見するものとして憂慮していたが、太っ腹であろう管理人の忍耐を感じていた。私には「小屋番日記」で充分朝日岳の雰囲気が伝わって来る。



9/23 未だお会いした事がないが、忘れた頃に励ましのメールを下さる「しずか様」から、9/20槍平でお見かけしたのは、もしかしたら「シュンちゃん」と「堀シェフ」?と問い掛けられた。当日「シュンちゃん」と「堀シェフ」は、槍を往復して午前9時半過ぎ、槍平でティータイム中であったそうな。その時、奥丸山に向かうスレンダーな貴婦人にお会いした事は確かであったが、その方が「しずか様」である事はわかるよしもない。そんな話を知り、その場面を想像し私はホットな気持ちになった。何処の山にも出没する「シュンちゃん」、また私のHP以外にも登場しているから、知らぬものがいないくらいではなかろうか? その双方の「何処で誰と出会うかわからないから、ちょっぴりオシャレしておかなくては・・・・。」のコメントに、では、髪の毛が薄くなって、お腹がちょっぴり出た以外、何年も同じ小汚いスタイルの私は、恥ずかしくて早々に立ち去らねばならないのかと、「服装改革」の出来ない私には辛いものである。もう「バンカラ」などは、死語なってしまったのだろうか?



9/22 イマイチ女史が朝日岳(大朝日岳)で日本百名山完踏なったという報告を頂いた。私の山の友人としては初めての快挙である。同世代の彼女は、忙しい合間を縫っての山行の積み重ねであり、相当のエネルギーが必要であったと思う。時間・気力・体力など何が抜けても実現出来なかっただろうし、きっと「運」も味方してくれたに違いない。そして、一味違うのは、“ 何が何でも百名山!” でないところがいい。初雪山・黒菱山・猫又山・戸田峰などへ、ご一緒頂いた事があるが、最近はその機会も無い。 p.m.11:15

 

9/21 山から戻ってすぐメールを開いてみると、「シュンちゃん」が、堀シェフと槍ヶ岳へ出掛けていたという事がわかり何となく安堵した。一緒しようと言いながら、天候でキャンセルになったのだから、それが彼の足かせになっていたら申し訳ないと思っていたからである。シュンちゃん達は本家本物の「槍」と、私は鹿島の付いた「槍」だったが、何となくその事だけでも心が和らいだ。
雨だ!雪だ!台風だ!と言いながら、結果的には何処かへ必ずのように出掛けているはずなのに、直近での交渉?ではその事を忘れていたような気がする。
 槍や剱の名が付いていると、そのような山に登れないと思っていた「山ノ神」は、鹿島槍ヶ岳に登っただけでも、昨夜から有頂天である。でも、“ 剱岳や槍ヶ岳には登れないよ!” などと私は聖域を守るのに必死である。甘い発言をすると何処へでも付いてくるし、それが私への重い負担になるからである。“ あそこもダメだ! ここもダメだ!” と言っていたのにだんだんと狭まれていく。剱岳(剱沢)や薬師岳(薬師峠)と、今回の鹿島槍ヶ岳(冷池)にテントを張れた事が、自信に満ちた発言となり、大いに繰り返している「山ノ神」であるが、リックの中味の事も、もう少し言って欲しいものだ。 p.m.1:00



9/20 星が出ているものの何だか雲行きが怪しい。何事も早めにとテントを飛び出したが、何んやかんやで、時間を要してしまい、日の出は布引岳になってしまった。しかし、鹿島槍ヶ岳山頂では、小さなブロッケンにも出合い、「山ノ神」にしては「北峰」への岩場?も貴重な経験となったようだ。また日の当たる所の紅葉は素晴らしいく稜線漫歩を益々楽しいものにしてくれた。復路の爺ヶ岳で、コーヒーや昼食のために、びっしり水を補給させられ、またまた重荷を担いでの歩行となったが、見飽きぬ景色に只々感激するだけであった。種池では、「山ノ神様」が、またまたジョッキービールに手を伸ばされるのを横目で羨みながら、運転を考えるとおこぼれをすがるわけにもいかず、我一人湯を沸かしコーヒータイムとした。登山口着は午後5時であったが、今日も長い長~い一日であった。



9/19 夕方から晴れるの予報を信じ、雨の中を車を走らせた。柏原新道と爺ヶ岳が前々から気になっていた事もあり「山ノ神」との同行を考慮しテント泊とした。何処に行くかも決まらないながらも、ちょっと用意していた食料に、清酒・ワイン・どさくさまぎれに詰め込まれたビールなど、私の荷は結構重いものであった。
 不思議な事に白馬あたりから雨が上がり、登り始めには青空が見えて来た。その余勢を買って、「冷池」にテントを張ったが、日中のお天気は何処へ行ったのかと思う程、夕方にはどんよりとした雲が漂いポツリポツリと小さな雨まで降り出したが、こんなはずがないと頑固に外で傘を差しながら、夕食を作り、夕暮れの中で美酒を嗜んだ。しかし、夜中はテントをパタパタさせる小風が吹いて結露が雨かとテントの中から顔を出してみたら、満天とはいかないまでも、星が輝いていた。



9/18 迷わせるお天気は、せっかく同行の機会がめぐって来た「シュンちゃん」と別行動をする事になった。また一緒する事もあるだろうと潔しとした途端に、空が明るくなったのは気のせいだろうか? 具合が悪い事に、「山ノ神」の山姥山行も中止となり、「何処か行こうぜ!」となる。どうしたものか・・・・。 p.m.11:50



9/17 “ 本当に降るのか?” と機会ある毎に空を見上げ、何度も今度の連休(9/19~9/20)の天気予報を見たが、あまり好ましくは無い。雨に慣れているというものの、始めから雨のテン泊はイヤだなあ~。せっかく「シュンちゃん」が、声を掛けてくれても雨の中の宴会は窮屈である。かすかな望みを掛けて、アルプス越えを決行するかである。しかし、「山ノ神」の同行が気になる。山姥山行(五竜岳小遠見まで)は、予報が良くないとすぐ中止になる。身を持て余しての「拘束」が怖い!



9/16 「山と渓谷」の年間購読契約が切れて3ヶ月になろうとしている。契約は書店へ買いに行くより、確実にそして1~3日程度早く読めるという利点があった。それよりも私の山への士気高揚のために、いわゆる雰囲気作りに貢献していたように思われる。しかし、書店で内容を見て購入していた時は、隅から隅まで読んでいたが、最近はパラパラと見るだけで必ずしも満足な購読とは思えなかった。不景気で真っ先に削られたのが、この「山と渓谷」であったわけだが、1~2ヶ月は何とも無く過ごしたが、やっぱりモチベーションが下がり気味である。『山だけ、山ばかり』の雰囲気から一つ一つ欠落していくような感じにさえとれるようになってきた。普通の人になっていくのかもしれない。そんな中、「シュンちゃん」から山行の話題が寄せられた。飛び上がるように喜んだが、またまた雨の予想である。 p.m.11:59



9/15 若い頃は、下るだけの山がないものかと思ったが、今は登るだけの山はないものかと思うようになっている。登りは特別危険がなく、下りは土だけの登山道なら問題はないのだが、岩や木の根が這うような登山道は、体力の無さからどうしても慎重になってしまう。それでも、滑ったり、転んだりするするから情けない。下りの時間を計算に入れなくてもよかった往年の時代が懐かしく、今や登りも下りも同じ時間を要するに至っている。こんな事からしても、我々が登れる雪の山の下りはルンルン気分である。しかし、登りは荷の負担も多く、やはり苦楽は同じなのかもしれない。走ったり、飛ぶように歩いている人もいるが、あれは本当に人なのか、それとも天狗なのか、歳を重ねた私には、次元が違うと割り切らなくてはいけないのである。 p.m.3:10



9/14 昨夜の帰宅も午前0時を回った。風呂に入り冷た~いビールを飲んでいたら、またまた午前2時になってしまった。こんな事をしているからドンドン瘠せていく。目だけがギョロッとしているから、何だかつりあいのとれないへんな顔である。こんな強行な山行は止めようと思っていたのだが、ついつい出来心・・・・・(こんな時に使う言葉ではないのだが・・・)
 こうでもしないと、なかなかいろんな所に行けないから仕方がない面もある。でも、もったいない! あのまま槍でも常念でも行けば良いのに! しかし、そんな日が私には本当に来るのだろうか?
 今日はちょっと太腿が痛い。黙っているが「山ノ神」も痛いに違いない。下りの最後の1時間は、私の顔を睨み付けていた。何で私が・・などと思わざるを得ない。でも我慢なのである。言ってしまえば、また1週間ダンマリの生活が始まるからである。
 今度の日曜日は、「山ノ神」所属の恒例の山姥山行が予定されている。だから私に自由をやると言う。翌日の月曜日も使って、思いのまま山行を楽しんできても良いと言う。何だか気味が悪い。しかし、日曜日にはまたまた傘マークがある。 p.m.8:50



9/13 お天気が好転したので、2週間前に企画した「燕岳・大天井岳」行きとした。中房温泉への林道が、夜間の道路工事のため午前5時まで通行止の標識にはちょっと参ったが、工事が1時間ばかり早く終わったようでラッキーだった。私は「大天井岳」、「山ノ神」が「燕岳」で、始めから別行動と言うのが条件であった。しかし、そうは言ったものの「第一ベンチ」ぐらいまでは、一緒に歩くのも良いのかなと思っていたら、隣の車が、魚津から来ている「山ノ神」の同期生の神谷夫妻ではないか? ご迷惑かどうかはわからなかったが、やはり第一ベンチまでご一緒させてもらった。
 合戦小屋から上部は紅葉が始まりかけていた。燕山荘から大天井岳までの稜線は、正しく槍ヶ岳を右手に見ながらの稜線漫歩である。また同じ画像ばかりと言われそうなくらい200枚近く撮ってしまった。しかし、山頂に辿り着いたら、意地悪く一時的にも槍は姿を隠してしまったのである。帰りの事を思うと長居にも限度があり、往路に辿ったルートは踏跡はあったものの、どうも正式なルートではないらしく、復路は大天荘経由で山腹を巻いた。燕山荘に向かう途中、「本間さんですか?」と話し掛けられた。「何で?」・・・・・山ノ神の陰謀か?“「大下りの頭」で、遅いとお待ちかねですよ!” はるか遠くのピークに「山ノ神」らしき姿をみて、“ 何でまた、帰りが遅くなるのに!” と思わずにはいられなかった。それで止めておけばいいのに、更に一人で燕岳を往復してしまった。「山ノ神」のジョッキーのビールを飲む時間を与えるものでもあったが、戻って来ると飲まずにベンチで寝入ってしまっていた。暗くならない内に、車まで戻る事が出来たものの、コーヒーを飲んだりしていると、またしても暗くなってからの出発となってしまった。往路も目がチョロチョロ、復路も眠たい眠たいと危ない運転で家に戻ったが、今回も24時間の山旅になってしまった。



9/12 昨夜は、ヒョンな事からRespirar坂本宅を訪ねる事になった。夫妻は自宅を「元ちゃん山荘」と称して、私に何時でも訪れるように優しい言葉を掛けてくれる。5月の有事の時も、「大丈夫か?」の一言以外何も尋ねず優しい心遣いをしてもらった。今回はチョット周期が早く一ヶ月ぶりの訪問となったが、私の大好きな発泡酒を飲みながら大いに盛り上がった。最近、山には縁遠くなった夫妻だが、私の話をよく聞いてくれて気分がいい。最後には坂本氏の親友? 名古屋方面にいる「ホラちゃん」の話題が出てくる。彼も山に行きたいらしいが、なかなか決断がつかないらしい。ついこの間までは、木曽駒ヶ岳と貧乏神神社の企画をしていたのだが、その意気は衰えてしまったのだろうか? p.m.7:40



9/11 明日、「シュンちゃん」と筏井氏が早月尾根に臨むようである。明後日は福井のM女史(3日前の話)が入るようで皆元気であり実に羨ましい。私は我家の高いハードルを越えてまでの闘志が湧かないが、挑戦する有志の方々に、お天気になれと願うしかない。
 私ほどの年齢では、山頂で1時間の滞在時間を含めて、往復12時間程度が一般的であると思うが、中にはとてつもない猛者がいて話しにならない。「へぇ~、へぇ~」を繰り返すだけである。私の早月尾根初挑戦は、まだ早月小屋(旧伝蔵小屋)がない時で、アルバイト先の剣山荘から下山ルートとして取ったものであった。当時は未だ横幅のあるキスリングが主流の時代で、20キロ超の荷を担いで4時間半弱で馬場島までよく辿りついたものである。当時の馬場島山荘の女将さんに、冷たいソーメンをご馳走して頂いたのが今でも忘れられない。真っ黒に日焼けした丸刈り頭のバスを待つ少年が、きっと可愛かったのだろうと自分勝手に回想しているのだが、私には美しい一つの想い出である。何度かその女将さんの事を尋ねたのであるが、「クレオパトラ」と言った人もあるが、消息はわからなかった。来年で40年になる。 a.m.9:50



9/10 お天気が相変わらずコロコロと変わる。明日・明後日に少しだけど「お日様マーク」が入って来たが、私の休日は依然曇りに「傘マーク」が乗っかっている。お天気も変わるが、私の心もクルクル変わる。しかし、それは私の許された範囲中での山行の考え方がである。山旅気分で時々遠くへ行くのも良いかと思っていたし、歳を重ねるに連れ、その頻度を多くして行きたいと思っていた。また、「とやまの山」や北アの素晴らしさの再認識するためにも、それは効果的だと思っていた。しかしながら、諸事情が許さず、北陸のお天気の悪い時に、太平洋側に行けるかどうかぐらいで、その数が少なくなるのは必死であろう。しかし、それはそれでいい。富山や富山近郊には私の登りたい山がいっぱいあり、何度登っても良い山も数多くある。10回ぐらい登らないとその良さがわからないと言っていたが、せめて全ての山を複数回登りたいものである。 p.m.9:45



9/9 関西旅行のため今年初めて山行を断念した事に、“たまには山から外れるのも良いでしょう!” とか、“ 水入らずの旅行も良いものではないですか。”と、慰めともとれるメールを頂いたが、欲には切りがないもので、これが山旅なら、それこそ、天にでも飛んで行きそうなものになったのに・・・・・・・・。
 次ぎ行く「山」に心は奪われているのだが、本当に今年は、お天気の巡り会わせが今一つで、気勢をそがれる事が多い。自分自身の決断がつかないのに、なかなか友人達を誘う気になれない。“ 必ず何処かに行くくせに!” と思われがちなのだが、ギリギリまで悩んでいる事の方が多い。楽しいはずなのに、これではまるで「修行」のようだ。 p.m.8:05



9/8 3番目のサンダーバード(11号=9時42分発)で、大阪を離れたのであるが、「山ノ神」の友人から、店のシャターが破損しているとのメールがあった。車内を走っても仕方がないし、只時間の経つのを待つだけであった。高岡に帰って唖然としたが、三人で力を合わせて直し、業者の人の手を借りるには及ばなかった。しかし、こんな機会を作ってくれた娘に感謝しながら、この先こんな幸せな日々が、何度あるのかと思わずにはいられなかった。 p.m.11:59



9/7 船で「渡月橋」に戻り、「天竜寺」の後、「野宮神社」から「大覚寺」まで、重い荷物を持ちながら、蒸し暑い中を歩かされたのには、皆参ったようであった。台風接近で、傘を用意して来たのに、降りそうで降らない空を眺めながら大阪に行き、初めて最上階(11階)にある息子の部屋を覗く。3~4時間一緒に過ごす予定をしていたが、やはり台風の事が気になり、大阪駅に情報を得に出掛けたが、情報が錯綜していて「らち」が開かない。最終便に望みを掛けて、近くの「焼き鳥屋」で、台風そっちのけでミニ宴となった。構内に戻ったら、最終「サンダーバード」も「きたぐに」も運休が決まり愕然とする。仕事ある息子抜きにして、新大阪の狭い部屋に戻って「ビバーク」となる。未明地震に飛び起きて、棚の荷物を押さえるというアクシデントのおまけまであった。



9/6 ゆっくりと言っても、高岡午前6時半発。20歳前後に1年ほど京都で暮らしたものの、今回は何年ぶりなるのか、分からないくらいに久し振りであった。メジャーな神社仏閣は相変わらず団体さんが多く、外国人の多いのにも驚いた。閉門間近の「仁和寺」で風情を楽しんだ後、嵐山の宿に向かった。「渡月橋」から右岸の遊歩道を20分ぐらい歩いた所にある「嵐峡館」は、予約した娘の予想を、はるかに超える山奥にあったが、私好みの静かな宿であった。(この宿まで専用船の送迎がある。)就寝時には、カギをかけないと、猿が侵入するかもしれないと脅かされもしたが、その静寂さが、私には京料理以上のご馳走であった。



9/5 依然台風の進路が気にかかるところであるが、娘の招待旅行で京都に行く事になった。お天気が悪いから、「山」にはある程度諦めもつくが、出掛ける京都・大阪も、曇りや雨に間違いない。取ってくれた宿が「嵐山」にあり、「山」と言う名に甘んじて、久し振りにと言っても初めてであるが、ゆっくり過ごしたいと思っている。ついでに、これも訪ねた事のない大阪の息子の住まいを、見に行くスケジュールも入っているらしい。「有難う!」とスムーズに言えるかどうか分からないが、子供達の持て成しに全てを任せてみようと思っている。 p.m.8:35



9/4 「花じい」は今日から朝日岳、F女史は週始めから笠ヶ岳だそうである。どうもお天気が良くない。私は何と言ったら良いのか分からないが・・・。
 過日、東京の娘から、今度の私達の休日(9/6~9/7)を利用して、一緒に韓国旅行の打診があったが、私は首を立てに振らなかった。経済的な事もあるが、仕事を休まなければならない他に、山に行けなくなるからでもあった。その後は、「山ノ神」を通じて非公式に「屋久島」行きのアクションがあったらしい。宮之浦岳もあり、少しは心を動かされたが、私には見分不相応を思って返事をしなかった。その娘が、私達の休日を一緒に過ごすため、今夜遅く帰って来る。どんな企画を持ってくるか分からないが、今度ばかりは、山行きを諦めて、娘の言う通りにしようと内心思っている。娘がどんな所に住んでいるのかも見に行かない、いい加減なオヤジのせめてもの罪滅ぼしにもならないであろうが・・・・ p.m.10:55



9/3 もう3週間もすれば、高所で紅葉が始まり、その頃には必ずというほど初雪が舞う。紅葉を楽しむ期間は1ヶ月余、低山の落ち葉を踏み締める頃を含めても精々5~6週間、休日にして普通の人ならば8~9日間であろう。それが全部お天気となれば問題ないのであるが、なかなかそうはいかないから厄介である。あの山もこの山もと、心が弾むのであるが、欲張りであるため、なかなか予定が決まらない。若い頃は、夏よりも秋、秋よりも春、春よりも冬などと一過性の感傷に浸かっていたが、今は秋が良い。でも、年を越えればまた冬が良いと言うに決まっている。“ 一年中良いんだもん!” お天気や自分の体調にも影響するのであるが、一緒に感動してくれる仲間がいるのも大切な条件かもしれない。 p.m.11:55



9/2 宮村氏から北駒ヶ岳北尾根(尾の沼谷コース=宮村さんお気に入りの呼名)のルート図と、その概要をお手紙として頂いた。ブナクラ修復グループが2年半掛かって、このお盆に僧ヶ岳と駒ヶ岳の稜線(1900m)に届いたというものであった。取付点の宇奈月温泉「トチの湯」が標高400mであるから標高差1500mだそうだ。標高400~1700mまでは樹林の中で、1700mを超すと僧ヶ岳と駒ヶ岳の稜線が目前に迫り、後立山の景色も素晴らしいようです。足元のクッションも快適で、稜線から北駒ヶ岳山頂までは10~15分程だそうです。同コースにはブナクラ方面と同じで、標柱がなく、所々に布切れが下がっているだけだそうですが、まず間違える事はないようです。まだ細かい仕事が残っているので、9月いっぱい入山すると言っておられる宮村さんとは、7年前早乙女岳登頂後、大熊山に登った時、大熊谷から登って来られた宮村さんと偶然お会いし、大熊谷下山を勧められ、後小又川出合まで送って頂いた想い出がある。その後雪の低山で偶然の再会も1~2度あるのであるが、他には年1回の賀状を取り交わすだけである。ネットやらぬ宮村氏であるから、賀状や今回の書状には、多くのロマンが詰め込まれている。私より幾つ年上の同氏なのか分からないが、私の事を覚えていただけるだけでも、私はとてもハッピーである。 p.m.11:30



9/1 8/30の大日岳をUPしたが依然滞っている。現在、鳳凰山を手掛けているが何時になるか分からない。さっさと片付けて、今春の白金ノ頭・高杉山・大明神山・駒ヶ岳を完成しなければ、記憶が遠のいてしまう不安がある。後手後手に回ればニュース性もなくなってしまうから、画像だけを貼り付けて、回転を良くする方法もあるのではと悩むのであるが、あくまでも自分自身の記録のHPに徹してみたい。でも、目の前に笠ヶ岳・焼岳・猫又山・雪倉岳・白馬岳があり気が遠くなってしまう。やっぱり全山行を紀行文にするのは難しいかもしれない・・・・・・。
 浅間山が噴火したニュースが飛び込んで来た。一昨年6月、浅間山頂上から2キロ離れた黒班山までしか行けなかったのが、500m離れた前掛山まで登れるようになったので、出掛けてみたのだが、その時禁止ロープを越えて、本当の頂上まで行ってしまった経緯がある。(すぐ反省しましたが!) 自分が登った事のある山だけに何だか感慨深いものがある。 p.m.11:55