9/30 秋たけなわ! たくさんの山行報告が届く。そして、お誘いも受ける。(休日が違うのに。) でも、最近は“ 歩けない!”事ばかり考えている。しかし、10/10(体育の日)まで計画を立てた。出来れば10月末までなどと、自分の心で格闘している。(何の事か分からないでしょうが・・・)まだ遜色なく歩けるのだが・・・・・・



9/29 宮ちゃんから、ずーっと絵手紙を頂いている。しかし、五月末の犬ヶ岳山行で「山ノ神」が滑落して以来、何故かその絵手紙の宛名が「山ノ神」に代わってしまった。あの滑落事故以降何かに付け、「山ノ神」への心配・配慮をして頂いたが、福井の「山ヤ」宮ちゃんの真髄といったところなのかもしれない。
 私は、「元さんの山歩き」超ミニミニ版を携帯サイトとして発信している。(http://wwww.k3.dion.ne.jp/~gensan2)しかし、携帯用のHP作りを勉強したわけでもないし、容量を小さくして、何となく携帯から見られるHPだけの事かもしれない。その証拠に、私がアクセスしても、カウンターはヒットしない。でもそれはそれでいい。その「宮ちゃん」や「金沢の豆ちゃん」等とのコミュニケーションになっているだけでも、私は嬉しいし、その意義はあると思っている。内容は、直近の山行記録・コラム5日間・山行予定・画像一枚・お知らせ(情報)なる簡単なものである。それも、途切れ途切れで、必ずしも楽しんでもらえるHPとは言い切れないものである。 p.m.10:30



9/28 「とやま山歩き118座」を踏破してから、やがて3年になる。今年も複数回を意識して登ったのであるが、数えてみたら一度しか登った事のない山が、まだ33座あった。好きな山への偏りや、“ どうしても行かなきゃいけないのか!” などと思ったり、“ そこまでして?” などと思ったりもする。しかし、不思議なもので、ある程度の数をこなすと、“どうせなら!” とか、“ もうちょっと!”など、変に色気が湧いて来るものである。一度登った山だけにそう難敵ない。しかし、自分が好む山の適期というものがあり、それを如何に我慢するかにかかってくる。「一度や二度登ったくらいでは、その山の事は語れない。」などと言い続けているのだから、“ やっぱりチョットくらい我慢して登ってみようか?” “ いやいやそんなに慌てなくても生涯かけて登れば良いのでは?” その点からも、15座を残す「越中の百山123座」などは、到底無理などと、私の耳元で囁かれているような気がしてならない。



9/27 昨日の奥丸山は、午前5時50分発・午後6時30分着、先週の塩見岳は午前4時40分発・午後7時20分着、いずれも駐車場発着時刻である。宴会・休憩などを含んだ時間とはいえ、山中に12時間以上いる事になり、その上自宅からの往復の時間もいる。「一日中遊んだ。」充実感は明日への活力になる? 槍や穂高また剱を日帰りする人からみれば、「何で?」になるかもしれないが、それはそれで結構楽しいのである。早駈けは他の所で楽しんでもらって、私(達)と一緒の時は、「もっと遅く!」などと提案する事も考えなくてはと思っている。
 雨が降っても行くくせに、昨日のように晴れてしまうと、上昇気流に閉ざされてしまった展望に無念残念となってしまう。でも、多くの友人達と、このように楽しく歩ける事に、当り前などと思わず常に感謝しなければいけないのであるが、欲は深く、前泊した彼らの宴に付き合えたらなどと・・・・・・でも、今の私にはそんな時間と体力はもうない。 p.m.8:00



9/26 霧雨の中を午前3時発。笹津の41号線に出るまでは、どうなっているのかと思うほど、ワイパーは全開であった。西部婦負地方に大雨注意報が出ていたのが、当たっていたのかもしれない。全員が揃って、新穂高を出発する頃には、「雨は、もう降らない。」から「青空が広がる。」状態となってきた。
 穂高平小屋付近で、妖怪大猫氏が槍に向かって歩いているとの情報を得、全員が「お話がしたい。」「一緒にカメラの中に」などとの思いから全速力で後を追った。やっと握手を交わしたのが「チビ谷」。山仲間の世間を騒がすようなニヒルな風貌は全くなく、至ってまじめな男に、同行の女官達は、サインまではねだれなかった。
 まだ紅葉には早く、下山者達は、一応に「360度の展望。」「素晴らしかった。」などと励ましとも取れる言葉を残していったが、我々が奥丸山の頂きに立った時は、全く展望を味わせてくれない雲中の人になってしまった。時折、雲を裂くように現れる青空に歓声をあげながら、相変わらず次から次へと出て来る料理に舌鼓を打った。最後まで、槍穂高や笠を眺められなかったが、それでも、「奥丸山」は良いところなどと言いながら、新穂高に戻った頃は、またまた真っ暗になってしまった。



9/25 怪しい空模様ながら、明日の飛騨地方の予報を信じて「奥丸山」に出掛ける事にした。「北ちゃん」は、他の予定で外れるが、6名で出かける。風来的な我「好山病友の会」は新穂高が集合場所である。今夜の内に出かけた橋本・長勢君は、もう前夜祭と称して、今頃は祝杯をあげているかもしれない。紅葉はチョット早いようであるが、寝そべった槍、青空に映る穂高の稜線、また滝谷の岩場など、カメラを構えるに至るお天気になって欲しいものである。 p.m.10:15



9/24 就寝時は、まだ暑さは残るものの、朝方は寒さに目を覚ましたり、無意識に蹴飛ばしていた毛布にしがみ付いている。「暑さ寒さも彼岸まで・・・」とはよく言ったもの。例年よりは、まだ暑いと言いたげでも、9月末には必ずと言っていいほど、立山・剱岳の稜線では雨に雪が混じる。それが多いか少ないか、積もるか積もらないかは別にして、心して登らなければならない。どれだけ経験を積んでいても、大自然の脅威にはかなわない。しかし、最善の準備だけは怠るわけにはいかない。 p.m.8:50



9/23 スーッと、何かが抜け去った気がする。これが“ 虚脱感” というのだろうか? 山行く者に対して、妬み・羨みなども小さくなった。今更可笑しいが「大人になった。」「 丸くなった。」のだろうか? いや下方修正して「自分の山歩きを見つけた。」とでも言った方が良いかもしれない。でも、でもでもである。闘争心というのか、チャレンジ精神と言えばいいのか、それがなくなれば、何だか寂しくてならない。自分の「域」で、何か新しく挑戦出来るものを見つけなければならないのか? 若かりし頃、「成功への道は目標設定である。」と掲げて騒いでいた頃が懐かしいが、何事にも、何時でも、その事は忘れてはいけないのかもしれない。



9/22 私の名山歩きは、餓鬼岳(二百名山)・南木曾岳(三百名山)・塩見岳(百名山)と、今年はまだ3座しか登っていない。願わくば、年に5~10座登れれば、とてもハッピーと言いたいところである。特別百名山や三百名山などを目指しているわけでもないが、何となく気に掛かる山々などである。それは、多くの方々が目指しておられる共通の話題にもなるし、富山の山の素晴らしさを再認識するためでもあるかもしれない。表現が可笑しいかもしれないが、非日常の山並みの楽しみに、心を躍らすためにかもしれない。「たかが、○○。されど○○。」なのである。あまり多くを望まないが、「今秋に新潟・岐阜の名山を2~3座登れたらいい。」などと、 小さな願いは、全て天候と健康に掛かっている。



9/21 私にとって「遠くの山」はもう二度と来れない山だと思って、惜しみなくシャッターを切っているハズなのであるが、帰宅して画像を覗くとそうでもない。「もっと撮っておけば良かった。」が常である。刻々と代わる塩見岳を撮ったのであるが、それも他の人からみれば、何もかも同じものに見えるであろうが・・・・。名山めぐりは私の小旅行であるはずが、何もかもカットし、暗い夜道を只管に走るだけであって、余裕など全く感じられるところなどないものである。しかし、不思議なもので、その地名やルートは結構覚えているものであって、それなりに満足感がある。美味しい名物、ステキな風景、心を癒す温泉など、現在の私には夢の夢である。只、動ける事、行ける事に感謝し、他の方々を羨むものではない。私なりの山歩きが、ずーっと続けれたら、それ以上は何も望まない。 p.m.11:59



9/20 「眠たくなったら、車を止めてもいい。明日の朝までに家に戻ればいい。」と思って走り始めたのであるが、「午前2時まで家に戻れば、ちょっとぐらいなら、ビールが飲める!」などと懸命に走った。それならば、高速を使えばいいのであるが、全休日山行日である我々には、ケチれるところは、全てケチらなければならない事情がある。何度も交代しながら運転をしたが、肝心な所に来ると代わらなければならない。しかし、「山ノ神」の運転に慣れたのか、それとも睡魔に負けるような体力になってしまったのか分からないが、助手席で眠れるようになったのが、最近の収穫である。
 思いが通じたのか家に戻ったのが、午前2時に1分前であった。風呂に入って、冷たいもので乾杯をしてから、どっと疲れが出てしまった。ちょっとPCを覗いた頃には朝刊が配達される時間になっていた。
 2時間半~3時間程眠ってから、PCの更新と思ったのであるが、タイミングが悪くなかなか思うようにならなかった。でも、ちょっとくらい遅れてもいいのではないかと思えるようになったのも、もしかしたら私自身の収穫かもしれない。



9/19 目が覚めたのは午前1時で、3時間半ほど眠った事になる。空には星が輝いているし、これで山頂まで登れると確信した。後は少しうつらうつらと時間をやり過ごし、午前3時半から準備に掛かった。しかし、「山ノ神」が少し手間取り、予定より20分遅い午前4時50分発となって、夜明け前の林道歩きとなった。食事用の水などアルコールなしでも4リットル、ガス・コンロにふんだんの果物、パン・ピザに餅・おはぎ、ヘッドランプに雨具などなど私の大きいザックはみるみるうちに一杯になってしまった。したがって、「山ノ神」もコッヘルや麺類などを担がざるを得なくなった。“こんなに食べれないし、減らしたらどうか?” と提案したが、“ 食べれば減るし・・・” などの言葉に負けて、山小屋泊まりの人達よりも、はるかに大きい荷を背負う事になってしまった。分県ガイドではコースタイムが12時間弱、昭文社の高原地図では13時間を超える。それも30~40分ほどの林道歩きが含まれているのかどうかはわからないのである。“ 南アのコースタイムは、ちょっと甘い!” の希望的期待を持ってのスタートとなった。
 三伏峠までは、急登はないものの我慢の歩行であったが、コースタイムは左程縮まらなかった。三伏山からは大きな塩見岳が見えた。その左後に間ノ岳と北岳が見え、ずーっと左に甲斐駒ヶ岳と仙丈岳、振り返ると烏帽子岳の右側に富士山が薄っすらと見えた。本谷山を過ぎてからの枯れ木地帯や権右衛門山を巻く樹林帯は、アップダウンはあるものの高度を殆ど稼いでいなかった。本谷山を経過する時に、「遅い!」「時間がない!」の言葉が気に障ったのか、私がカメラのシャッターを切っている間に、「山ノ神」がどんどん先に進んで行き、20分間も追い付けなかった。怒らせば早くなるのかと思ったが、塩見小屋への登りに差し掛かった時には、もう体力を使い果たしたのか、4~5歩登っては止まるという状態になってしまっていた。サポートしながら塩見小屋(営業終了で解体作業中!)に着いたのが午前11時35分になり、正午を一応の区切りと考えていただけに、山頂までたっぷり往復2時間を要する状態では、「あんただけ、行って来たら・・・・」の言葉を待った。「12時まで」の答えに承服せず、「午後1時まで時間をくれよ!」とガスで覆われかかった山頂に、不本意であるが空身で登る事となった。
 「やっぱり三伏峠でキャンプすれば良かったのか?」 「 南木曽岳は余分であったか?」と自問を繰り返しながら標高差300mに挑んだ。でも、ここまで来たのだから何としても山頂を踏みたかった。ガレ場を通過するにあたって、やはり「山ノ神」を連れて来なくて良かったと思った。それこそ何時間掛かるかわからないと思ったからである。山頂を踏んで一速に下るというわけに行かなかった。やはり岩場では慎重になり、必要以上に時間を費やしてしまった。塩見小屋付近のリックデボ地点に戻り、ぐーぐー鳴るお腹に、何かを詰め込もうと思ったが、なかなか喉を通らない。やはり水気のものだけになってしまった。
 後は、暗さ(日没)との勝負になった。本谷山の緩い登りでも「山ノ神」が遅れだした。先に登ってコーヒータイムをセットしようとしたが、肝心のコッヘルが、「山ノ神」のリックの中なのに気付き、取りに戻るハプニングを伴った。ここまできたら、暗闇の中を歩くのを覚悟して充分に休んだ。ガスの掛かり始めた三伏峠の通過は午後4時半を少し回り、登山口までの2/3にを越えた付近で、完全に日が落ちてしまった。ヘッドラップがあるものの、ペースダウンを強いられてしまうが歩かなければならない。何処が登山道か分からなくなるし、幻覚というのか、木の根や岩が何か、他のものに見えたりするのが私はイヤなのである。でも、今日は心もたないが、「山ノ神」という相棒がいたから少しは気が紛れた。林道に出てからも40分の道程を歩かなければならなかったが、足を先にさえ出せば前に進むのであるから、気はもう楽になっていた。歩き始めから14時間半、そして、「山ノ神」を山頂まで導かれなかった事に、ちょっぴり反省(残念!)。そして確実に体力の衰えを感じさせた一日であった。
 そして、長い林道を20キロ、尚且つ10数キロ湖畔道路を走って始めて、国道に出るのである。駒ヶ根・塩尻・松本を経由(下道)して上高地公園線に通じるのであるが、今回は安房峠越えを止めて、安房トンネルを通らして欲しいと「山ノ神」にねだった。



9/18 高山・下呂・付知・坂下を通り、妻籠・馬篭の近くの南木曽岳に向かった。南木曽岳は三百名山であるが、それほど執着していた山でもなかった。以前に“ ちょっと遠いが、わりかし簡単に登れる名山。” と思っていた事と、今回の塩見岳山行のおまけとして考えた。地理不案内のため、塩見岳の登山口の特定にも時間が掛かるのではないかという事が頭を過ぎり、南木曽岳を早々に片付けたいの思いが始めから強かった。しかし、どの山にも特徴があり、また地元の方々の山への熱意も伝わってくるものである。何時も述べさせてもらっているが、名山と呼ばれているからには、それぞれに特徴があり、また、登ってみなければ分からないのが本当のところである。また1回くらい早駈けで登ったぐらいでは、その山の事など述べる資格はないかもしれない。登山道には、これでもかと思うほどに、樹木で作られた階段と言うのか橋と言えばいいのか分からないが、よく整備されていた。(それが登りやすいか、どうかは、各人意見の分かれるところであろう。)山頂は展望が開けていないが、避難小屋付近の見晴らし台からは、中アの山々(木曽駒ヶ岳~摺古木山)が手に取るようにわかった。クマザサに覆われていて分かり辛いが、結構岩があり、到るところに鎖が施されているし、何故か坂田金時の伝説がある南木曽岳(木曽の山では、御嶽山・木曽駒ヶ岳に次いで登られている山のようである。)を後にして、塩見岳に向かった。
 カーナビを持たない私でも、松川村「上新井」から小渋湖畔を通り大鹿村「落合」まで行く事は分かっていた。塩河から塩川ルート、そして最近整備された鳥倉林道のどちらから入ればいいのかよく分かっていなかったし、直接塩見小屋付近に通ずる新塩川ルートなる情報も得て、日帰りするのにどちらがいいのか分からなかった。その不安材料を煽ぐのに、「鳥倉登山口」とか「豊口登山口」とか一致していないし、その「鳥倉」を「島倉」と読み違いをしているくらいであったから尚更だったのかもしれない。どちらにしても、明るいうちに、その登山口に着きたいのが本音であった。しかし、以外にも20キロもある鳥倉林道は、きれいに舗装されていて、駐車地点には、小さいながらも水洗トイレまで設置されていた。三連休を利用した登山者の車は、その駐車場からはみ出し、林道の膨らんだところに多く止められていた。我々は、幸い連休2日目の夕方であったため、所々に空きがあり、難なく車を止める事が出来た。もう一つ心配であったのは、我々の車は狭く車中泊など出来ないため、そ~っとテントを張る場所を求める事であった。夕暮れから、星や月を眺めながら、車横で二人でささやかな宴会を始め、もう多くの車が上がって来ないだろうと思ってから、小さなテントを張って眠りに着いた。



9/17 「南木曽岳」「塩見岳」行きに決まった。2座とも登れるかどうか分からないが行く事にした。もしかしたら、19日夜に帰れないかもしれない。山歩きもそうであるが、車で遭難しないようにしなければならない。体調の事も考えて無理をしないでチャレンジしてみようと思っている。まずは晴れていて欲しい。 p.m.7:55



9/16 先般の北海道の際支笏湖を眺めるために樽前山に登った。帰高してからその樽前山が二百名山だったと知り、山頂まで登ってこればよかったと後悔しきり。
 9/18~9/19の連休に、霞沢岳か塩見岳を「山ノ神」に提案しているが応答がない。多くは言わないが、赤谷山での疲れが取れておらず、足の痛みがあるらしい。ならば、我が身を自由にしてくれれば、もっと違った山行が楽しめるのであるが、ほんわかと交渉しなければならない。でも、二日間も私に「翼」を戻してくれるはずがないし、「山ノ神」も目一杯楽しめる究極の提案をしているわけである。霞沢岳なら、徳本峠でキャンプ、塩見岳なら三度目の提案となるが、南木曽岳をこなして、翌早朝からの日帰りである。眠れぬ夜を二晩も過ごしての13時間コースの日帰りは、ちょっと自信がないらしい。「荷を全部私が担ぐから・・・」などと言っても、まだ決断がつかないようである。p.m.4:25



9/15 ある同窓会の話を、ずーっと先延ばしていた感じがあったが、ここに来てそうもいかず、昨夜我家でその世話人会を行った。「山に行けなくなるから・・・」を悟られている友人達に、一日捧げる事にした。それでも、心配してくれる友人達に、「早起きして牛岳でも行って来るよ!」と笑いながら、差しつ差されつしている間に、男4人で、ビール(発泡酒)500ml缶12本、350ml缶6本、日本酒一升を飲み干してしまった。そんなわけで、11/28は、また山に行けない日になってしまった。 p.m.11:40



9/14 今夏、剱岳/早月尾根上部で、83歳の男性の滑落?(墜落?)事故があった。「何でそんな歳で、単独行など・・」とか、「本望ではないか!」などのいろいろなコメントがあった。私は、その歳までお元気で、また、剱岳に登れる体力がある事に驚いたし、羨ましいと思ってしまった。「死」はいけないが、いつかは死ななくてはいけない。その男性の生き様など知るわけもないし、不謹慎かもしれないが、他人に迷惑を掛けた以外、素晴らしい人生のような気がしてならない。
 熱中出来るものがある事は素晴らしい。“ 趣味は?” “ 好きな事は?” と問われて「山」と答えられる我々「山バカ」は、何も答えられない人からみれば、何倍も幸せである。山へ行くために他の事にも頑張れるし、一日中非日常の世界に、どっぷり浸かれるのである。充実感・達成感は、後日に快い疲れとなって余韻も楽しむ事も出来る。山の間口は広く、いろんな楽しみ方があるし、全てがゲレンデである。 p.m.4:40



9/13 二週間ぶりの歩きは太腿が少し痛い。ある意味では、昨日の赤谷山行きは、今後の私の山行を占うものであった。山仲間には、どのように映ったかわからないが、足になるべく負担が掛からないような歩き方になってしまった。その庇いが太腿にもたらされたのかもしれない。歩けるなら、それくらいの痛みなどは甘んじて受けてもいい。只同行の志に迷惑を掛けるようでは、もうグループから離れなくてはいけない。「まだまだが・・・」歳を重ねるに連れ、何時まで持ちこたえられるかわからない。気力に限界がある事も承知しているのだが・・・・。
 「あんたが登れる山ではない!」と、「山ノ神」に言い続けて来たのが、大猫山に次いで、赤谷山も「山ノ神」に開放した形になり、「聖域」が益々狭められてしまった。後は雪(残雪期)に、その歯止めを期待するしかないようである。最も、また行きたいとは言わないであろうし、我まま充分の二人だけでは、とても登りきれるとは思えない。それもこれも、山の仲間との掛け合いなど、励ましがあったからに他ならない。人気の赤谷山故か、山行後にかなりの問い合わせがあった。やはり剱岳が見える山。剱岳に近い山。少々時間を要しても、山やる者にしたら魅力いっぱいの山である事に間違いない。 p.m.11:59



9/12 お天気に恵まれた赤谷山行きは、橋本君・eiko女史・「山ノ神」そして、ゲストの「ねぎちゃん」と私の5名という珍しいメンバー構成となった。ところが、「北ちゃん」と北ちゃんの盟友である田村氏が、我々の事が心配になって来てくれたものか、それとも、何かを嗅ぎつけて来たのかわからないが、一服していたブナクラ峠に現れた。また、猫又山に行くという昨春の大倉山でお会いした事のある「チョウカさん」とも遭遇。その彼を見送って我々のパーティーは7名となり、「まだかまだか」と言いながら、弱き者はフォローを受けながら赤谷山の山頂に立った。後立山の山々はもちろん、お目当ての剱岳が、その山容を隠さず我々を待っててくれた。その間シャッターを切り続けた人は幸運で、白萩山へなどとか、宴会の準備に追われた人は、僅かな「剱岳劇場」が閉幕になってから、盛んに悔しがっていた。「ネギちゃん」と途中から加わられた田村氏の2名のゲストと共に、赤谷山頂は盛り上がった。素晴らしき剱岳、長い道程、終いには槍/北鎌尾根に出掛けた長勢君の事までが肴になった。「私と同年代の女性が現れると聞き、私よりステキな方だったらどうしよう。」となかなか眠れなかった。「集合場所にスポーツカーで乗り付けた、ネギちゃんの姿を見てドキッ~とした。」とeiko女史の究極の一言で、益々盛り上がってしまった。そんな愉快な一日を終えた頃は、夕闇が迫っていた。橋本君が密かに川の流れに冷やしてくれていたコーラを口にして、皆一様に「これは美味い。」と車に乗り込んだ。



9/11 どうなるのだろうと思った雨も上がった。そして明日の予報も良い。赤谷山に行くだけに、この後、降らない事を願うだけである。「好山病友の会」のメンバーの全員ではないが、久し振りに会えるのも楽しみである。そして、ゲストにも喜んでもらえる山行であって欲しいのだが、それも皆お天気に掛かっている。私の足も何事も起こらなければ(怒るかもしれない!)いいのだが・・・。 p.m.7:25



9/10 今日も暑い日であった。しかし、秋は確実に近付いているらしく、朝晩は随分過ごし易くなって来た。明日の予報は良くない。多くの友人・知人達がブナクラ・赤木沢・槍/北鎌尾根などに出掛けたり、計画をしている。予定内の雨や風ならいいが、突如として襲って来る自然の脅威には、どんな強靭な体力の持ち主でも太刀打ち出来ない。そ~っと、去って行ってくれるのを待つしかない。明後日は、「晴れマーク」であるが、お天気の回復が遅れるのが常である。二週間ぶりの山行になるだけに、天は私に味方してくれないであろうか? ゆっくり歩くためにも・・・・・。私は最近良い事もしていないが、悪い事もしていない。  だから・・・・。



9/9 同欄に体調の悪さを綴れば「どうしたの?」などと、尋ねられ、尚更可笑しくなる。「日記」だから、仕方がないのであるが、自分としては「山の日記」的に思いを綴っている。身体の事は、その山に登るためには、どうしても切り離せないのである。「行きたいくせに!」「行くに決まっているくせに!」と思われるし、言われ続けている。また、そうでなければ、私ももうお終いだ。こんな頼りない男に、「山仲間」は付き合ってくれるのであろうか? そのためにも、「うそ~っ、何処も悪そうで、ないじゃないの?」と言われるようでなければいけない。



9/8 午後からの頭痛と喉の違和感は北海道では全くなかった。富山に戻って、それを意識したからか、少しだけ頭が重くなった。理由はわからないが、もしかしたら高い所(高度・緯度)に適応しているのかもしれない。しかし、反対の症状も表れた。あまりその事には触れたくないのであるが、脹脛が可笑しいのである。多分運動量が少なかったからに違いないが、厄介な病である。次ぎ行く山の選定にも影響してくるし、私の胸中は暗くなってしまう。でも山に行かないわけがない。



9/7 台風接近の小樽の朝は、小雨から始まった。観光客となって、運河や倉庫群から、ガラス館などがある観光のメーンストリートを歩いた。そこでは、何故か関西地方の修学旅行生と、チャイニーズの軍団だけが目立った。歩くのは苦にならないのだが、お店屋の中で見て歩くのだけは、すぐに疲れてしまう。その中で、パイプオルガンの演奏を腰掛けて聞き入った時だけは、異国へ来たような感じになった。どうしても、飛行機の事が心配で、早めに千歳空港に入ったのであるが、台風の関係で混乱していた。搭乗手続き時でも、富山空港に着陸出来ない時は、羽田に行く事の条件付きになった。しかし、空港を飛び立つ時は、強風でかなり心配したものの、高度を上げてからは、見事な雲海の上の飛行となり、夕日がその雲海に沈むというステキな光景を見る事が出来た。緊張して富山空港に着陸したが、思ったほどの気象でもなくホット胸を撫で下ろした。でも36~7℃の高温であったらしく、「まるで東南アジアに来たような気がする。」との見知らぬ人が言い放った言葉にその通りだと思った。幸い家に戻っても、被害がなく、思い切って出掛けた北海道旅行は、上手く台風を避けた幸運な旅行となったようである。



9/6 富良野・美瑛を満喫した。広大な平野を車で走っては、メロンやアイスクリームなどを食べ、山歩きでは考えられない贅沢をした。いろいろな施設などから離れた「哲学の木」なるものを発見した時は、ホットしたが、畑の中に何の変哲もない只一本の木を眺める時間が、もっともっと必要であった。車に乗りながらも、「十勝岳は何処?」「大雪山系はどの方向?」などと、次は何時来れるかわからないのに、今度来た時のためになどと思ってしまった。旭川でラーメンを食べて、レンターカーを返す小樽に高速を突っ走った。小樽では、庭が二万坪もある「宏楽園」という和風の宿。台風の影響で、明日の団体客90名のキャンセルがあったと従業員の方が話され、我々の明日の飛行機は飛ぶのかと、心配しながら床に入った。



9/5 依然台風の勢いは衰えていないようである。昨年の関西旅行もそうであったが、10/20の台風は、もっと恐ろしかった。我家の外壁のトタンが次から次へと捲れていったのである。こんな時に?であるが、行かなければならない。道中の交通機関もそうであるが、我家が何ともなければいいと願って出掛けるしかないであろう。 a.m.7:00

 初飛行機・初北海道、何もかもが初めてで、子供達にお任せの旅である。「老いては、子に従い・・・」には、未だ早い気もするが、こんな機会を作ってくれた事に感謝をしたかった。子供達が大きくなっても、あるいは所帯をもっても、一年に一度くらいは、スキー場のロッジで、または、山行く機会をと思っていたが、三人の子供達の趣向は、親の思いとかけ離れたものとなっていっている今日、一時でも同じ目的・方向を、共有する事が出来ただけでも喜ばなくてはなるまい。

 千歳空港からは、レンターカーが用意されていた。支笏湖に向かい「苔の洞門」を歩いた後、湖の対岸から何故か気になって見えた樽前山(1,041m)への林道に向かう事になった。オヤジの喜びそうな顔を見たかったのか、皆合意の上である。砂礫に作られた登山道を少し登るだけで、森林限界を越え真下に支笏湖が見えた。山肌にはリンドウが咲き、秋の訪れを待っているかのようであった。札幌郊外の定山渓温泉グランドホテルで宿泊し、美味しい料理に舌鼓を打ち、三度も湯に浸かった。



9/4 娘からの誕生日プレゼントが、明日からの私の休日に合わせた北海道旅行である。「山に行けなくなるから・・・」などと今回は言わなかった。喉から出そうな「行くのなら北海道の山へ・・」も言わず、彼女のプラニングに乗る事にした。今回は他の兄弟にも声を掛けたらしいが、二男は余裕(全ての事に)がなく、長男が同行するようである。今夜、高岡に集合で、明朝千歳に向かう事になるが、昨年同様台風が心配になる。昨年は、最終サンダーバードが運休し、大阪泊まりになった上、帰宅したらシャッターが壊れていたという惨事に見舞われた。折角離れ離れになっている家族が一同に介するのであるから、「何とかお天気になってくれ!」などの贅沢は言わないが、何とか平穏に過ごさせて欲しいと願うものである。
 今回の旅行で山行機会を失うため、それを何とか取り戻そうと、今週自宅4時発の牛岳行きを、何度も企画したのであるが、ちょっと元気のない体調のため、起きる事が出来なかった。ならば来週にと思っているのだが、思う通りに事が運ぶであろうか? p.m.5:50



9/3 一度行った山にも、いろいろな思いや考え方がある。「素晴らしかったから、もう一度行ってみたい。」「お天気が悪かったから、本当の良さを見に行きたい。」「一度行った所にはあまり魅力がない。」 どの考え方が良いとかいう問題ではない。それは、どの方もその方なりに時間的制限があり、一様に片付けるわけにはいかないからである。とにかく、「いろんな山に登ってみたい。」 というのが本音であろうし、それが良いと思う。行ってみなければ、登ってみなければ、良いも悪いもわからない事は確かである。でも、登ってみると、「こんな山にもう来ない。」などと思っても、それは想い出になり、心の中に留まる財産(実際は、画像も記録も残る。)となるから不思議である。私の事で、あまり参考にならないと思うが、そのうち、一年に一度は登って見たい山。雨の時や時間のない時に登る山、人を誘う時の山、特定の人と行く山など、いろいろなパターンが出来てくる。しかし、何度通っても、その山の事をよく覚えていないし、よくわからない。したがって一度や二度で、その山の事を多くは語れない。



9/2 「元気をもらっているのに、元気がなくなったらしょうがないじゃない。」手厳しいメールを頂いた。でも、その通りである。特別の情報があるわけでなし、また面白い事を綴るわけでもない。飽きもせず毎日の更新と、元気を売るだけが、私の取り得だと思っているから、それがなくなれば、「ハイ、それまでよ!」である。常に「山の話」、そしてお酒を飲む。こうでなければ、「元さん」にならない。昨夜、氷見の中山君から、こずくら(富山では、こずくら→ふくらぎ→がんど→ぶり)もらい、今日は、昼・夜とも刺身にして美味しく頂いた。空元気であろうが、明日からやっぱり山の話を綴り続けたい。 p.m.11:20



9/1 昨夜のNHK「その時歴史は動いた。」は、関ヶ原の敗者・石田三成側から見たもので、三成を久々に良いように描かれていて、三成ファンの私は気分が良かった。因みに、私の長女の名・佐和子は、必ずしもそうではないが、「佐和山」から取ったものだと思われているし、長男・兼継(兼続)は上杉景勝の家老の名を頂いたものである。(次男の名は未だ伏せておきます。)
 それほど、気分の優れない日が続いている事になる。電話を掛けて来た人などは、その声に私だとは思わないし、お話した人などは、必ず「どうしたの?」と尋ねる。それに対して、一々言い訳をしている自分がもどかしい。嘗っての黄金の足?の陰りも、いつプツリといくのかと、その不安が頭から離れない。したがって、次行く山の名もなかなか出て来ない。