11/30 あの方は、この時期になると、地元富山の山より、山越えして雪のない山に行きたがる。それも富士山が見える山であるから、山梨県が中心となる。山自体は我々が登る山であるから、そう難しい山ではない。それよりも道中の方が大変である。あの方は、“ ちょっとでも遠い所へ行くのが大好き!” と来ているから、ルンルン気分であるが、こちらは、夜半もしくは未明に高岡を出発しての日帰り登山は、この歳ではだんだんときつくなって来ている。いかに「好山病」と言えでも、高速を使わず下道では、現在の私の体力では持たないような気がする。になると、あちらは、どうも機嫌が悪くなる。“ 名山は、もっと歳取っても登れる。” と言っても、聞こえないようである。雪マークが付くと、白馬経由でも、平湯経由でも時間が掛かるのだが、トリカブトやコバイケイソウなどよりも、私の寿命を縮めるのには効果的かもしれない。 (イヤ~だあ。) p.m.11:59



11/29 私が参加出来なかった 「小佐波御前山」行きに際して、 「お酒も程々に・・・」 の助言が利いたのであろうか、それともリーダーの「北ちゃん」の調整が上手かったのか、事前に 「たくさん飲まないから・・・」 また、報告の 「程々でした。」 のユニークなメールが届いた。それにしても、相変わらず楽しく、1~2回不参加だと、何だか仲間外れになって行く錯覚に陥る。
 今生津から、外れた薮道は、「北川新道」になるかもしれないとの報告。これは、「好山病友の会」始まって以来の貴重な宝になる可能性がある。満更でもないのでは・・・・・・。いずれ「北ちゃん」や長勢君のHPに、トラック(軌跡)が紹介されるであろうから楽しみである。

 また山頂では、不思議な事に、何処からともなく、女性(にょしょう)が現れたらしい。何処かの尊 (みこと)と思ってか、お神酒を差し出したら、飲んでも飲んでも切りがなかったとか! 会則もなく、何処までが会員か分からぬファージーな「我好山病友の会」のメンバーとなって、またまた何処かに現れるのではないかと心配をしている。 「これが目に入らぬか!」 などと大嫌いなお神酒を差し出されたら、皆はどうするのであろうか?・・・・。 p.m.10:00



11/28 夜中に降っていた雨に、どうなるのかと思っていたけれど、目が覚めると星が出ていた。後にその星が雲に隠されてしまったが、やっぱり行かなくてはならないと「牛岳」に向かった。午後の同窓会の関係から、午前10時半過ぎには、家に戻らなくてはならないので、午前5時半発は良い時間であった。
 重たい荷物を持ち上げたり、階段を降りる時に一抹の不安を感じるだけに、今日のトレーニングは、来月からの自分の山行を左右する試金石のようなものであった。「山ノ神」同行の牛岳登山の所要時間は、80分程だけに、それを目標に歩いたが、カメラを携行しながらも、おうよそ、その位の時間で登る事が出来た。下りは、二本のストックを使用しながら、滑らない事を重視した歩きになり、登り時間より少し短かったに過ぎなかった。
 来月からの仲間との山行に、少しは自信が付いたような気持ちでいるが、長い距離、また速さには、まだまだ迷惑を掛けそうである。しかし、一応のメドがつき、「あと一週間」が現実のものになりつつあるから胸がワクワクしている。

 「好山病友の会」の仲間達7名は、予定通り「小佐波御前山」を歩いたようであるが、今生津コースを、途中から、ワザワザ薮の中に入り3時間を要したそうである。「山ノ神談」
 そんな中、私は富山のカナルパークで、同窓会の楽しい一日を過ごした。それこそ非日常で、山の中から、街へ出て来た「熊」のようなものであったが、旧友達は、私を優しく迎えてくれた。いい気になって飲み続け、家に戻ったのが午前1時になってしまった。世の中は変わってしまって、最後まで女性達の方が多かった。



11/27 明日は、ある同窓会のため、午後から富山に出掛けなければならない。これでもチョッピリ世話役の一人なのである。「山ノ神」は、「好山病友の会」の面々と小佐波御前山である。行きたくてもしょうがなく、もう一週間我慢のところである。
 そんな私でも、午前10時半前に家に戻れば、同窓会の準備にも支障をきたす事もないから、その範囲内で、何処かの低山に出掛けられないだろうかと模索している。お天気次第であるが、我ホームグランドの「牛岳」、または、一度しか登っていない我高岡にある超低山であるが「三千坊山」へと思っている。どちらにしても未だ完全な足とは言えないから、明朝のお天気と相談して決めたいと思っている。12/5は、本格再デビューが出来るのであろうか、チョッと心配である。 p.m.10:25



11/26 Respirar坂本宅(元ちゃん山荘)から、私の快気祝と称して、またまた招待を受けた。そして、忘年会の名称は、別枠で来月に予定しているという。お互い子達を都会に送り出し、二人暮しの環境で気も合うのであるが、「宴」の間隔が、だんだんと短くなって来ているようである。大根や菜っ葉、そして、納豆や豆腐しか食べていない我々は、その宴に誘われるや、日頃のカロリー不足を、一気に解消するどころか、痩せた顔が丸々とさせて家に戻るのである。
 私の最近の山行も徒党を組む事が多く、割かしハードな行程ながら、ここでも「宴」の時間が長く、「痩せる」などとは、程遠いものになって来ている。食料を担ぎながら、食べる間も惜しく、また荷を降ろす事が面倒で、只歩くだけの単独行時は、一日に5キロも体重減となった事もあったが、家に戻り食べちぎれば、同じ事であったような・・・・・



11/25 今日もお酒を2合くらい飲んだかもしれない。食事後、PCの前に行くが、何する事無く、只、ボーっとしている事が多い。何か書かなければと思いながら、何もしていないのである。考え方次第では、その時が一番心休まる時なのかもしれない。山に行けない時は、中途半端になっている紀行文を綴らなければと思うのだが、いわゆる「乗らない!」のである。「何かしなくては?」は焦りなのであろうか? 
 私が何かに夢中になると、「山ノ神」は、“ ろうそくが消える前に、ボーっと燃えるその様を連想するという。” “ 燃え尽きてしまうのではないか!” と思うそうである。年間10回程しか行っていなかった山へ、毎週のように通い始めた頃(平成8年)にも、そう言われた記憶がある。



11/24 私が西鐘釣山に出掛けた同日に、「山ノ神」は魚津のN女史らと3人で南保富士に出掛けた。その時の画像をPCに取り込んだら、何と南保富士の山頂には10~15cmの積雪があるではないか? 西鐘釣山(740m)よりも、20mくらい低いのにである。やはり地形によっては、かなり違いがあると改めて感じた。
 同じような高さの山に出掛け、私の方は黒部峡谷鉄道のトロッコ電車に乗ったし、露天風呂に入ったりしているから、当然私の帰宅の方が遅いと思っていたのに、「山ノ神」の方が遅かった。あまり気に留めていなかったのであるが、画像を見てそれが分かった。珍しくアルコールなしの山頂で、それなりの時間を過ごしたようであるが、歩き足らないという事で、下山後親不知に出掛け、栂海新道の入道山方面に歩いて来たようである。時間切れで、入道山まで達せなかったようであるが、充実した一日を送ったかのように、頗る満足の話ぶりであった。



11/23 人間いつかは定年を迎える。それは自営業であっても同じ事である。なお仕事を続ける人、もう一度勉強をし直したい人、興味のある分野にのめり込む人など人様々である。「甲斐性がないから仕事を続けなければならない。」 などと日頃から友人・知人に嘆いているが、経済的有無よりも、自分に与えられた時間を大切に使えばいいのかもしれない。“「毎日が日曜日」なんて素晴らしい!” と羨んでいるが、“ 中には何をしようかと困っている!” という人もあるようである。
 頼りにされる事、認めてもらえる事などが、案外生甲斐なのかもしれない。偉そうな事を言える立場ではないが、人生目標を持つという事は、人生に張り合いがあっていいのかもしれない。我々山好きも自分なりの目標を持っているから、それなりの人生を歩めるような気もするが・・・
 人は独りでは生きていけない。ずーっと自分を認めてくれる友人・知人に囲まれて生きていきたい。“ 相手を認めて、自分が謙虚になれば、大概上手く行く。” しかし、“ 自分を誉め、他人を貶してしまう。” そういう面では、完全に私は修行の身である。



11/22 いつの間にか私の病は、静脈瘤から好山病になってしまったが、合併症というところか? 昨日の西鐘釣山は、距離は短いが急登の山、「術後2週間の症状は如何に?」 というところであるが、「山歩きをしたからどうだ!」 とかいう感じではない。脹脛に傷があるから仕方がない事で、特別疲労は覚えていない。大腿部には関係ないかもしれないが、うっ血と少し違和感がある。しかし、それは全部想定内のものである。
 今日も所用で車から降りて、駆け出してしまいそうになったが、まさか、傷口が開いたり、血管がプツリと切れる事もあるまい。しかし、長~く歩きたいから、念には念を入れなければいけない。後は、持久力を試さなければならないが、これからの時期、そんなに慌てなくてもよいような気もする。近年正座・胡座が出来ない。医師は静脈瘤と関係ないと言うけれど、私はこの機会に自分なりに治してみたい。でなければ、元気な若いメンバーのお荷物になりかねないではないか? p.m.8:15



11/21 「好山病友の会」の若きメンバー長勢・橋本の両君は、私の病を治そうと黒部峡谷の山へ誘ってくれた。チョッピリ怖い思いをさせなければ、持病の好山病が治らないと思ったのであろうか、重い荷を担ぎながら、私の前後を固め、屏風がそそり立つような山へ、私の足取りを気にしながら誘ってくれたのである。その山は越中の百山の一座「西鐘釣山」である。
 最高のお天気に恵まれ、低山なれど、岩峰の頂上からは、サンナビキ山や奥鐘山が望まれ、兄弟分である東鐘釣山も対岸に向き合っていた。「あの山は?」 「毛勝山・赤谷山・池平山」などと意見が分かれ、山座同定は出来なかったけれど、そんな事はどうでもよかった。
 大きな岩の間で、二人は美味しいご馳走をしてくれた。「早く治ってよ!」或いは、「もう大丈夫と・・」 どのように思ってくれたかは分からないが、実に嬉しく思った。今年は登れないと思っていた私にしての新たな「越中の百山」の一座、「西鐘釣山」に、この時期になって登れた事が実に嬉しかった。登ってみれば簡単かもしれないが、なかなか機会がなければ登れない山である事は間違いない。登山口が何処であるかなど表示していないのであるから・・・
 下山後、河原の露天風呂に入れるサービス付きであった。術後完治途中の私には、素晴らしい晩秋のプレゼントであった。 p.m.8:30



11/20 「いつものように何もない。」 が、今日は28回目私達の結婚記念日であった。「山ノ神」は 「何か・・」 を期待しているが、気の利かない私は、いつも悪者である。
 「好山病」に利く薬が黒部にあると言う。私はその誘いに乗って、明日は出掛ける事にする。術後の傷もきっと癒されるような気がする。 p.m.10:00



11/19 私には、「上総の哲ちゃん」という山の友人がいる。二百・三百名山どころか、分県登山ガイド(山と渓谷社)を全部登ってしまいそうな勢いの人である。普通なら「山」だけなのに、「上総の哲ちゃん」は、 海釣・サーフィン・スキー・スノボー・マラソン、そして、旅・温泉・城・読書など、正しくオールマイティーの人である。
 「哲ちゃん」は、朝日小屋を愛する人達との交流を重ねておられると窺っている。今春、その関係で、ハレルヤ早乙女岳行きにゲストとして参加くだされたが、それが初対面で、数多くを話した事もない。また、「上総の哲ちゃん ホームページ」http://homepage3.nifty.com/kazusa-tetutyan/ を通じて、いろいろなジャンルのやり取りを拝見しているものの、元々掲示板の投稿が苦手な私は、書き込みなるものも、1~2度しかした事がない。当然年賀状も出した事もない。
 そんな私達に、「山ノ神」犬ヶ岳滑落事故の時は、千葉名産のマスクメロンを、今度は私の入院見舞いとして、有田の無農薬で金箱に入ったミカンを送ってくださった。私のように一度しかお会いした事がない者にまで、お見舞いと称して贈物をくださり案じてくれる「哲ちゃん」は、まるで神様のような人である。そんな応援にこたえて、早く元気にならなければと思っている。 p.m.10:50



11/18 「山の画像」が送られて来る度にクシュンとなる。「あと、3週間!」 「半月、経てば!」と呪文のように繰り返している。私の症状を知った人達は、口を揃えたように、「しばらくは我慢しなさい!」 「慌てる事はない。」 「後々の事を考えて行動しなさい。」 などと、慰めにはならない助言をしていく。「や~、もう歩いても大丈夫なのですよ!」 「急登には自信がないが、なだらかな山なら・・・・」 などと自己援護しているから可笑しい!
 昨夜は、冷たい足をお風呂で温めたからか、ぐっすり眠れた。でも、サポーターのようなきついストッキングのために、、水泡が出来たり、赤く腫れ上がったりして、ちょっと苦しい。でも筋力が落ちないように頑張らなくては・・・・。 p.m.7:00



11/17 時間が経てば良くなるんだと思いつつも、何だか身体中が変な感じだ。締め付けているからだろうか、足が冷たくてしょうがない。昨夜なんかは全然眠れなかった。立ち上がると脹脛が壊れるのではないかと思うような、ビビッビと電気が走った。足の手術だったのに、あちこちが痒い。「もっと元気になるんだ!」と言う自分が信じられない。悪い方に悪い方に考えてしまう。アルコールの自重や当然運動不足による異変が身体・精神にも影響しているのかもしれない。やはり歩くしかないのだろうか? p.m.11:00



11/16 今日から包帯を外して、キュッキュ(窮屈)なストッキングの使用である。サポーター的包帯のかぶれで、足全体が赤く、また血が固まった傷口、うっ血、見るも無残な足から解放されると思っていたが、ストッキングにもそれなりの辛いものがある。でも、手術の道は、自分が選択したものであるから、そう嘆かず希望をもっていかなければ・・・・こうして書けば、憂さが晴れるような気もする。申し訳ない。

 少し足は引き摺るが、もう山に行けるような気がする。もちろん、まだ仲間達に付いて行けるようなハードな山行は出来ない。三週間後(12月上旬)に標準を合わせる事にしている。待ちどうしい。

 日中の気温が上がらないと思っていたら、牛岳にも雪が来たらしい。どの辺まで降ったのか知らないが、庄川町の友人が「牛岳が白くなった。」と知らせてくれた。「好山病友の会」が出掛けた一昨日の人形山でも、宮屋敷跡より上は、雪がちらついたと聞いたが、週間天気予報を見る限りでは、今週は高い所では結構積もるかもしれない。初冬の雪は、樹木が雪の重みで、登山道に覆い被さり、まるでヤブの中を行くようにしなければならず、結構厄介である。一年中、山行く者にしてみれば、それはそれであり、非日常には当たらないかもしれない。 p.m.11:00



11/15 今日は抜糸の日であった。足の付根の部分は、糸が肉に食い込んでいたからか、チョッピリ痛かったが、後の10数箇所はそれ程でもなかった。今日はその傷口の消毒もあって、包帯は明日から外す事は出来るが、この先半年も強力なストッキングを履き続けなければいけないらしい。
 静脈瘤にはいろいろあって、日帰り入院の人もあれば、私の症状など問題にならないくらい酷い人もあるらしく、相当個人差がある事を医師から教えられた。私の左足は、極度の屈折をすると、悲鳴をあげなければならないほど、膝に激痛を伴うが、その事は、今回の手術と関係はないと医師は言うが、私は密かにその期待を膨らませている。(膨らんだ血管を屈折する事によって圧迫していたと私は素人診断をしているからである。) p.m.11:30



11/14 山仲間達が人形山を登るため、五箇山上梨に集合するのは午前6時。同時刻頃、そ~っと、寝床から這い出そうとした時、またまたズボンの裾を「山ノ神」に掴まれ、冷たくとも、睨んだとも取れる眼差しで、「出し抜いて、何処へ行くのか?」 と、鋭い尋問を受けた。平生の「山ノ神」なら、まだこの時間 “ 白河夜船 ” なのであるが、抜け駆けと察するのであろうか、良からぬ事をするとでも思うのであろうか、鈍感が→ 敏感になるのである。(困ったものである。)
 五箇山の高坪山なら、林道を車で上がる事が出来れば、 「標高差も200m弱であるから、こんな足の私でも30~40分、1時間は掛からないであろう。」 と言うと、「私も行くと言う。」  昨日の午後から、仕事をせず臥せっており、増してや歯痛で、柔らかいパンでさえ喉を通さないという身体で、 「歩けるものか! 寝ていなさい。」 と諭したが、 「寝ていても、背中や腰が痛く、歩いた方がまだ気が楽だ!」 と食い下がる。終いには、 「未だ抜糸もしていないその足で・・」 などと言われ続け、仕方なくまたしても同行の人となる。

 紅葉の名残を楽しむという雰囲気の林道は、相倉の合掌集落を見下ろす格別のアングル。5キロ進むと土砂崩れとなっていたが、丁度登山口の手前50~60m付近。落ち葉を踏みしめながら、それなりの情緒を感じるが、こんな身体故、ゆっくり歩くからであろう。大きなホウノキの葉の次に、踏む葉がブナの葉になると反射板のある高坪山の頂上は近い。

 ここまで来たのだから、「山ノ神」に、誘われた人形山行きを勧めた。物を食べていないのと、やはり一人歩きだけに、チョット心配であったが、人形山登山口から送り出したのは午前11時半を回っていた。車が降りるに従い雨となった。高岡に戻ると、それが大粒となったが、これくらいにやらないと「好山病」の認定が難しい。さて、帰宅してからの「山ノ神」のコメントが楽しみである。p.m.5:20



11/13 昨晩から歯痛を訴えていた「山ノ神」が、今朝になってから、「食べれないのに、山行が出来るであろうか?」と言い出した。それが午後になってから、とうとう臥せってしまったのである。「私の入院中に無理をしたのであろうか?」 「 それとも、昨日来高した姉夫婦の対応に、疲れたのであろうか?」 とにかく、元気がなくなったのに間違いない。帰還した一昨日の夜、「飲まない人と一緒にいても、お酒が美味しくない!」と可笑しい事をいっていた。せっかく、入院の3日前から禁酒にし、退院してからも、抜糸までは、なるべく飲まないでおこうなどと思っているのに、変な「山ノ神」のコメントであった。「好山病友の会」の人形山行きに、また違った楽しみもあったであろうに、可哀想な形になってしまった。まさか・・・・私の行動に疑問を・・でもあの症状で、仮病は想像しにくい。
 今日の好天に、大平山から濁谷山に登った筏井夫妻から携帯が掛かった。「あなたの知っている方にお会いしたから電話口に出る」 というものであった。電話口に出られた方は、以前大猫山の件で、メールを頂いた事のある金沢ハイキングクラブのN女史であった。ひょんな事から、お声を窺う事が出来たというハプニングに、あのステキな声の持ち主は、どのような方なのだろうと思わずにはおられなかった。「山の世界」は、本当に不思議なところである。 p.m.11:59



11/12 2年前の鼠形ヘルニアで入院した時は、退院4日目で城ヶ平山に出掛けた。ハンドルを切ると下腹が痛むので、「山ノ神」の運転で出掛けたのであるが、段差の度に「痛っ~。」と言っていたようであった。荷も「山ノ神」に預け、2本のストックでゆっくり歩いたのであった。そこまでやらなければ「好山病」と言えないのである。
 退院4日目と言えども、その時は術後10日、今回11/14を山行日と想定して術後6日である。今夕、埼玉から姉夫婦が来高の予定で、スケジュール的には合わないのであるが、あわよくばその間隙を縫ってなどと、良からぬ事が脳裏を掠めている。最も、1時間も歩けないから、散歩程度であるが、雨が降ったりして、滑るような事は避けなければならず、その可能性は極薄いのである。それでも、そんな事を考えない日が、一日でもあるという事は私としては考えられない。
 同日に「好山病友の会」は、人形山を予定しているので、「山ノ神」に、私の事は気にせずに 「行って来い。」 と言っているのであるが・・・・ p.m.6:30



11/11 左足は、包帯のぐるぐる巻き状態で帰った。手術の翌日から階段(1階から5階)の登り降りを始めた。「おいおい・・」「若いの~。」「やはり鍛えてあるからか・・」などと、周りの患者や私より若い医師からも言われ、いい気になって繰り返していた事もあって、まあ~、まあ~大丈夫である。しかし、包帯は強く巻かれていて、まるでロボットのようであるし、その包帯による擦れ、カブレで所々が痛い。また股の部分の傷口が少々痛い。“ 抜糸までおとなしく!” などは、あまり頭にない。傷口に異常があれば、それこそ入院中に、また外来としての通院時に診てもらえばいいではないか!
 「4日程度留守にします。」のお知らせしていたし、これほどまでにカウンターが進むと思っていなかった。「もしかしたら・・」 「それでも・・」などと毎日のように見て頂いている方、時々「あいつは何しているのやら・・」 「何処の山に登っているのやら・・」などと覗いていただける方々、山にも登らないのに、「何となく毎日ブツブツ何か綴り続けているから・・・」 などという方もあるらしい。自惚れでも何でもなく、実に嬉しい! 特別な山に登っているわけでもなく、記録になるような物もない。最近はその紀行たるものでさえ滞っている。只、毎日ズラズラ綴っているのだけが特徴として認めてもらえるのかもしれない。今回の事で、しばらくは山に登れないのではないかと、11月は、山以外のスケジュールをぎっしり嵌め込んでしまった。山がなくても、「元さんの山歩き」は認められるのだろうか・・・・・・・?



11/10 昨日は、立山・室堂で40cmの積雪があり、弥陀ヶ原⇔室堂間は、吹き溜まりの発生や視界不良のため通行止だったようである。高岡も病院のガラス越しから見る限りでは、風が強くかなり荒れているように感じられた。今日は打って変わっての好天で、山にと心は動いたが致し方ない。また、「山ノ神」には申し訳ないが、入院予定を4日から5日に延ばし、万全を期す事にした。

 この度の入院に当たっては誰にも話さなかった。しかし、雨の日も、風の日も山行く「好山病友の会」のメンバーにだけは伝えないわけにはいかなかった。私の休日に合わせてくれるからでもある。
 しかし、これまた不思議なもので、匂い(臭い)と言えばいいのか、上手く何処からともなく嗅ぎ付けて来るヤツもいる。「山の話」がしたくなってと、「よっちん君」が、やって来てくれた。

 同部屋の患者の奥さんが山好き! 目が合って知らないふりをするような方であったが、ちょっと「好山病」で入院しているのだと言いかけると、「どの山に登ったか?」「何時行ったか?」などと矢継ぎ早に話しかけて来られた。今度はダンナに申し訳ないような感じになってしまった。でも、一緒に登るわけでもないし、その時だけだったから許してもらえたと思う。必ず何処の会などと尋ねられるが、今では恥ずかしがる事もなく、「好山病友の会」「ハレルヤ」などと告げる事にしている。知られなくても良いし、有名でなくてもいい、自分達は自信を持って「山を楽しんでいる。」と言えるからである。



11/9 傷口を医師に見てもらい歩く事を許可されたのであるが、第一歩が出なかった。こんなのでは、山どころか仕事も出来ないのではないかと不安になったが、ベットに戻り、その繰り返しを行うに従い、足は引き摺るものの少しずつ歩けるようになっていった。同室の患者さん達に、明日退院の予定だと告げると「へ~っ、そんなので・・・」と呆れていたが、それは、予定通りのスケジュールであったのであるが・・・



11/8 全身麻酔・硬膜麻酔であった。午後0時55分に手術室に入り、病室に戻ったのが午後4時頃であった。その後、麻酔がなかなか解けず、両足が自分の足のように感じたのは午前0時頃であった。この間、触っても、つねっても、全く感じず、このまま麻酔が解けないのではないかと不安になってしまった。この体験で、下半身麻痺の方の辛さが、少し分かるような気がした。
 休日は殆ど未明か早朝に自宅を発ち、夜遅くまで戻らない事が日常的であるだけに、一日中ベットの上では、傷口よりも臥せる事により背中が痛くてしょうがなかった。



11/7 2年余り前から下肢静脈瘤を患っていたのですが、思い切って手術をする事にし、高岡市民病院に入院する事にしました。と言っても山行には特別の支障なく、術後自分の思い通りにならなかったらどうしようかと悩みました。「見てくれ」だけは今より良くなるようだし、今はそう感じない「疲労蓄積の軽減」をより所にしたのですが、  しかし、1年前から違和感を覚えていた膝に関してと、「血栓が飛ぶのを回避」には繋がらないとの医師の発言に、全身麻酔までしてのリスクを負って良いものかと、最後まで決断が鈍りました。重い病の大手術から見れば、私の手術など簡単な?ものらしく、こんな事で負けるようでは、これからの我人生に先がないと悟り、乗りかかった舟ではないが、決断した次第でした。

 午前9時に入院したのに、麻酔科の診断とCT撮影以外何もする事がなく、ベットの上での時間が長くなるに連れて、だんだん病人になっていくような感じになった。
 2~3週間前、「山ノ神」に手術をする事を告げたら、勝手に決めて来て、しかも何処をどうするかもよく分からないような手術に、「いい加減だ!」と少々立腹であった。今日改めて手術の内容を聞いて納得のようであったが、股間から足首上までの血管(静脈)と、その他の小さい所の血管切除と知ると、黙り込んでしまった。それよりも私の驚いた事は、CTを撮ったのは、肺がんの心配があったからなどと言われ、何もなかったようだけど、そのような心配が、胸部の関節撮影で写ったのかと、ぞ~っとしてしまった。(念のため → 全く心配なかった。)



11/6 風が強く雨になってしまいましたが、そんなに寒くなく、まだ良かったような気がしています。でも、週半ばには、少し冷え込む予報も出ています。こんな中、夢空間旅行に行くとでも言いましょうか、ちょっとだけ留守にします。 p.m.7:25



11/5 以前、ガスに覆われた赤谷山頂で独り食事をしていた時、後続の男性が上がって来たが、開口一番「この山の何処がいいのか?」と呟いて、5分も滞在しないうちに、サッサと降りていってしまったのと出くわした事がある。どっかり腰を降ろして、何とか剱岳が顔を出さないものかと思っているのに、その一言が、まるで自分の恋焦がれている人がけなされているようで、あまり気分が良くなかった。「一度や二度来て、そんな良い目に合うものか!」などと思いながら、「イヤければ来なければいいし、こちらは尚更良い。」などと慰めた。その男性から見れば、「何が良くて・・・」なのだろうが、「山はこんなもんなのだよ!」と言い返してやりたかったが、大人気ない事を言わなくて良かったと思っている。
 私(達)の山頂滞在時間は長すぎるかもしれないが、山の雰囲気を味わうには最も適した所だと思っている。さ~っと記念写真を撮って帰って行く人達を見ては、もったいないと思ってしまう。
 早駈けの人もお山のてっぺんには、長くいなくっちゃ!良さが半減しちゃいます。名山(百名山から三百名山、都道府県の名山もある。)もゆっくり登るか、山頂でゆっくりしなくては・・・・などと思うのは足の弱くなった私の「ひがみ」だろうか! p.m.6:40



11/4 「僕は、ず~っと山に登りたいから、ケガをしないようにゆっくり歩きます。」私が大平君に初めて出会った時の彼のポリーシーみたいな言葉が印象的で、今でもはっきりと覚えている。若き故、人先に登りたくなる年齢なのに、なかなかの方だと思った。
 どんなに過去の栄光があっても、現在が元気でなければ、「昔は・・昔は・・・」と繰り返すしかない。少しずつ衰えるのは仕方ないにしても、ケガや病気で歩けなくなるのは、無念と言うしかない。
 その後の彼は、妖怪大猫と名乗って「山にメロメロ」のHPを綴り、多くの隠れファンを魅了し続けている。そして、痺れる言葉を残すと共に、難度の高い山行へと路線変更している。これも若く脂が乗り切っているから出来るのかもしれない。おっさん(元さん)は、口に指を入れて唖然とするしかない。 p.m.11:15



11/3 昨日の午後から、PCのHDDの増強(80GB→240GBのアップグレード)そのコピーや高度なシステムの変更などを、近所のPCのS大先生にお願いをしたところ、トラブルも重なり、長い時間を要してしまった。S大先生に不眠不休の大変なご苦労をお掛けしてしまった。そんなわけで24時間全くPCを触る事が出来ず、やっぱり寂しかった。「病気ですか?」「遭難?」などのメールが届かないうちに、HP更新をしなければ・・・と、ちょっと焦ってしまったが、「山」とPC(HP)は、もう私のライフスタイルに完全に溶け込んでいるのである。 p.m.7:00



11/2 明日の「文化の日」は、晴れの特異日であるが、今年はそうでもないらしい。以前は、この祝日を納会山行として、一年の区切りにしている方や「山の会」が多かった。最近は暖冬の影響もあるかもしれないが、その時期は延びているようである。山の魅力が増すにしたがって、雪山に縁のなかった方も、ちょっと雪が降っても、また春には、少しぐらい残雪があってもの気持ちになっていくものである。お天気の良い時に出掛けてみると、それが超低山であろうと、「こんなに素晴らしいとは思わなかった。」になる。
 しかしである。それがどんな山であろうと、「不徳の事態をいつも考えていなければならない。」事を忘れてはいけない。



11/1 昨日の黒姫山の登山道から林道に通じる広場に出たのが、午後4時40分(50分発)であった。雨が上がり黄昏の日本海を眺めながら、また、田圃の中を歩いて来たのではないかと思うくらいの凄く汚れた姿をお互い批評しつつ、大声で笑いながら記念の写真を撮った。工場群の夜景をカメラに収めたりしながら、鉱山事務所に着いた時は、真っ暗な午後5時半であった。午前7時に備え付けのノートに必要事項を記入して出発したのであるが、そのノートを読み返していた職員の方が、私達の「遅くなりまして!」の挨拶を受けて、捜索を出そうと思っていたなどと言われた矢継ぎ早に、隣の会議室(他の会議だと思うが・・)の戸を開けて「帰って来ました。」と報告するあたりは、まんざら脅しでもなく、かなり緊張が走っていたように感じられた。
 雨で滑りやすい登山道!コースタイムからして、時間の掛かり過ぎ、気温の低下などを総合して心配されていたのだろうが、明るいうちに林道に出、しかも登山口に着いたのが5時半だった事から、許容範囲内と思っていたのが、工場の敷地内であり責任が付いて回ると考えられるのと、少しギャップがあったようである。どちらにしても、心配してもらった事に感謝し、迷惑を掛けた事には間違いないのだから、これからは、そんな事のないように、細心の注意を払わなければならないと思った次第です。
 今日の素晴らしいお天気が、昨日と換わっておれば良かったのにと思ったのは、私だけではあるまい。でも、一日中降ったわけでもなく、雨の中の行軍は、我々の絆を一層強くしたように思えてならなし、想い出深いものになった事は間違いない。 p.m.10:00