6/30 あんなに山が好きだと言っておきながら、本当に私は山が好きなのだろうかと思う事がある。もしかしたら、唯、惰性のままで、ずーっと続けているだけなのではないのか? また、チヤホヤされるから、いい気になって、それだけを求めているのではなかろうか? などと・・・・・・・・
 この頃の身体の疲れは何なのだ! どうしても、あの山に登りたいなど、感じないのは何故なのだろうか? 何が何でもの気持ちが、弱くなって来たのは事実かもしれない。

 このHPもしかりである。「何のために・・・」 「何故そのために、そんなに時間を・・・」 「生き甲斐だった? 」 実に、心は弱いものですね! やっぱり何か目標を持たなければ、心がすぐ揺らいでしまう。そして、止めたらすぐ後悔してしまう。
 「喜びなんて、一瞬!」その喜びを得るためにコツコツ物事をやる。「ワーッ」でお終い! すぐ次の目標を掲げるからであろうか?それが良い意味での欲。正に山登りの心境である。
 山登りは自己満足の世界である。少しでも、ちょっとでもの心があるくせに、人様の事はなかなか評価出来ない。そのためには、山仲間が必要である。自分行動の証人でもあるし、何と言っても、想い出の証人でもある。多くの想い出を共有する仲間である。

   「あの時は・・」などと語れる事が、どれだけあるかが、財産の大小のようにも思えてならない。それは山登りだけでなく、多くの物事に共通するのではなかろうか? 元来「山ヤ」は個性の強いわがまま者が多い。その者達が、心を許しあう事が出来るなんて素晴らしい事である。

 


6/29 先日の雨飾山行きは11回目になった。今年の残雪の量は特別であったが、この地域は、元々降雪・積雪の多い所で、一昨年の7月上旬でも荒菅沢には多くの残雪があった。最近5~6月に登る機会が多くなったが、以前は初冬(勤労感謝の日前後)が多かった。それも梶山からのルートで、単独行が多かった。

 今は、そんな事は出来ないが、誰もいない平日に「静かな山」を楽しんでいた事になる。雨飾山の一番良い時期と言われる紅葉には、まだお目に掛かったことがない。それでも自分の記録によると、2回出掛けている事になるが、パーッとした紅葉でなかった事であろうか? 何故か長いヘビが出て来た事だけが、今も記憶に残っている。
 暑い時に登る山ではないと言いながら、それでも一度出掛けている事になっているが、やはりいろいろな時期に、そしていろいろな所から、それも何回も登らなければ、その山の事の批評は控えたい。

 百名山で、徒党を組んで登られているような感じの雨飾山、それだけ人気の雨飾山なのであるが、渋滞とか山頂での押し問答などと聞いては、ちょっと考えてしまう。
 その点から見れば、今度の大網ルートは、まだまだ静かな山の様相を呈している事になるのであろう。ルートとしては、遠いが金山や鋸岳からも、雨飾山の頂を踏んでみたいものである。



6/28 ステキなブナ林を抜けると、残雪が現れ稜線らしくなっていった。先程までの日差しも途切れて、ガスの中に標高差350m程の山頂への繋がりが見えた。「まだあるの? お昼にはとても着かないね。」の言葉が当てはまるように、皆お腹がすき始めたようであった。その頃であったか、朽ちた根っこに、足をかけた途端に踏み抜き、情けないにも私は左足を攣らしてしまい「このまま歩けなくなったら・・・」と思うと、ぞ~っとしてしまった。

 北峰に至る登山道は、意外と踏まれており、その上お花が豊富であった。先に述べた千葉の女性は、アツモリソウを見に来たのだという。我々は、後にも先にも、この二人組以外誰とも出会わない「静かな山」を楽しんだ事になる。
 「好山病・・」始まって以来、山頂滞在最短時間となる程、空腹の限界に達していたかのように、残雪のある笹平に降りて、遅い昼食となったのである。(午後2時)
 雪で冷やしたビールは、この世のものかと思うほどに美味しかった。霧雨となってしまったが、公約通り、山中の食材(ウド・ワラビ・コシアブラ・タラの芽など)を揚げた天ぷらを喜んでもらった。

 霧雨に身体も濡れだしたので、「いい加減に降りようか!」と腰を上げたのが、3時15分であった。これも「好山病・・」としては、短いものであったが、この時間では致し方なかった。
 シラネアオイも、昨年に負けじと咲き誇り、下山する我々の目を楽しませてくれた。荒菅沢やブナ平の残雪は、情報通り例年に比べて格段の多さであった。溶け始めた付近のぬかるみを気にしなければ、まずまずの歩きやすさと言っても良かったのではなかろうか! 
 露天風呂も、その後に飲んだ清涼飲料も何もかもがさわやかであった。高速に入ってから、時々ザーッと降った雨は、まさか「北ちゃん」の「雨降れ怨念コール」ではあるまいなと、皆で大笑いをしたのである。



6/27 小谷ルート登山口駐車場から、湯峠までの3.5キロを、全員で歩くつもりであったが、たまたま山頂で出会った千葉の女性と、その女性をガイドするペンションオーナーが、湯峠まで運転手の長勢君を送って下さり、小一時間ばかり歩かなくてもよくなった。またまた、夕闇が迫るのを覚悟していただけに、ホットな気分になった。しかし、その区間だけ、GPSに軌跡を残せず(ぐるっと回った軌跡)悔やむとは、贅沢過ぎるであろう。案の定、戻って来た長勢君の車に乗り込んでから、雨が降り出した。

 それにしても、昨日の雨飾山行きは、バラエティーに富んでいた。久しぶりに、魚津ICで、一台の車に6名が乗り込み遠足気分から始まった。平岩から大網登山口を目指したが、あえなく通行止のゲートに出鼻をくじかれた。そこから歩きには相当の距離を感じた。(準備した地図の枠外)ぐるっと周り小谷から湯峠に出たが、予想通り尚更大きなゲートで意気消沈!
 しかし、未踏のルートに意欲を燃やす「好山病・・」、説得力のない「引き返す事もある。」などと言いながら、林道を歩いて大網ルートを目指した。曇りながらも、意外と格好の良い雨飾山を、時々眺めながら標高差350m超、時間にして70分を要した。早くも天ぷらの材用を採り始めた。「ちょっとで良いから、荷が重くなるから・・」などと言っても、聞く耳を持たない者がいた。「お~っと」、点々の付いたヘビが足元を横切り跳び上がってしまった。

 登山口の大きな標識をバックに、記念写真を撮って、登山道を進む。「雨が降ったら、こりゃ大変だ!」と思うぬかるみや、手入れがされず草が伸び放題の所があったが、まずまずの小道である。沢を渡ってからが、ちょっと厄介であった。登山道に草が覆い被さって、取水口付近で再び河原に出てしまった。可笑しいと戻ったが、それらしき踏跡が分からず右往左往する。そのうちGPSを頼りに長勢君が小さな倒れた標識を見つけて事無きを得る。その後が良かった。ブナが眩しいくらいに素晴らしい。ブナの実が登山道に落ちて新芽の絨毯となっていた。それを踏んで行かなければならぬから凄い!(新芽が全部ブナの木になるわけがないからご安心下され!)そこから、急登となると汗がいっぺんに噴き出てしまう。雨が降るか降らないかの瀬戸際の予報であったから、僅かではあったが、その日差しは嬉しいものであった。  「ウドがある。ススダケも・・」で皆の足が、いっぺんに止まってしまった。「タラの芽」も「コシアブラ」も・・

 「ありゃ!」ここは、紀行文でなく、「山つれづれ・・(山への一言)」であった。だから、紀行文を綴れなくなっているのか・・・・・ひとまず今晩はこれで止めよう。 p.m.11:59



6/26 同じ雨飾山に行くなら、登った事のない大網ルートを企画した。「7/2に同ルートの山開き」との情報のもと、素直に大網地区から車を乗り入れたのであるが、あえなく「通行止」のゲートに出くわす。
 ならばと、小谷経由の湯峠からと思ったが、予想通り、ここもしっかりゲートに施錠となっていたが、メンバーの意見を集約して、誰も使った事のない大網ルートの挑戦となる。
 湯峠から大網登山口まで、標高差にして、おおよそ350mも林道を下るのであるが、何だか雨飾山から、だんだんと離れて行く錯覚にさえ思えるくらいの林道歩きであった。

 一週間後の山開きなどとは思えないくらいに、登山道には手を入れてなかった。沢を渡ってから、草に覆われて登山道を見失うハプニングにまで見舞われた。しかし、ブナ林は素晴らしく、登山道に落ちたブナの実が発芽したのであろうか、新芽が登山道を覆い尽くしていた。
 それを、踏まなければ歩けないほどの同ルートは、百名山に肖る人気の小谷・梶山ルートからみれば、悦脱されているかもしれないが、その素晴らしさは、今日参加の「好山病・・」メンバーに絶賛されたのである。
 このルートからも、山頂に来られたのかと思われるかもしれないが、上部には、幾多のお花が、所せましと咲き誇っていた。山頂滞在も程々に、すぐ笹平に下り遅い昼食にした。
 午後2時の昼食は、魚津IC発が、午前5時半過ぎであったから、皆がお腹を減らしていた。霧雨の中で、雨具を着込んでの昼食は、今回もウド・コシアブラなどの天ぷらが、主役になってしまった。



6/25 梅雨入りしてから、雨らしい雨は今のところない。明日もファージーな予報である。すぐそこまでやって来ている前線が、北上すれば雨なのだが、その境目のようである。雨でも行く「好山病・・」であれど、雨など欲しくはない。

 「好山病・・」の重鎮「北ちゃん」が、体調を崩されたお母様の看病のために、明日は不参加となった。責任感の塊のような「北ちゃん」であるが、面白いので、彼が不参加となると、ちょっぴり寂しい。充分に楽しんで来て、彼を羨ましがらせるのが、せめてもの友情というものか? そのお母様が、一日も早く良くなられ、「北ちゃん」が何の心配もせずして、山行に参加出来るよう祈りながら、雨飾山の山頂を目指したい。 p.m.10:40



6/24 今、自分の足を眺めている。脛からふくらはぎにかけて、ストッキングを履くからか、それともズボンに擦れてか、体毛が殆どない。その上部には、昨秋に行った静脈瘤の痛々しい手術痕が、私の数えるには左足に13ヶ所ある。
 「いつの間にか、つやも張りもなくなってしまった。」その足ではあるが、「黄金の足」「何処へでも連れて行ってくれる足」などと、自画自賛していた事を思い出す。

 そして、近年憶える左膝の違和感は、それだけ使ったのだから、仕方がないのかもしれないが、何とかならないものかと途方にくれてしまう。もう手術などはイヤだし、まだ普通には歩けるわけだし、後は大事にしながら、また、その足に感謝をしながら、長く付き合っていきたいものだと思っているのであるが、心中は穏やかでなく、重ねた歳を認めようとはしていない。言葉とは裏腹に、「挑戦」に「落胆」を積み重ねなければ、自認出来ないのかもしれない。他人に迷惑をかけてはいけないのだと、頭では充分過ぎるくらい分かっているのであるが・・・・・



6/23 私は、お山のてっぺんに登るのが好きである。そのてっぺん(頂上)は、必ずしも、その山の一番高い所とは言い切れないようである。頂上と言われる所の殆どに、祠もしくは、それに近いものが置かれているような気がする。何かその山々の歴史があるに違いない。また三角点も必ずしも、頂上また一番高い所にあるとは限らない事にも気が付いてきた。

 その三角点にも、一等から四等まであり、その数は、972,5056,32640,65414で、合計104082もあるそうである。三角点と三角点の間隔や、三角点の大きさなど、いろいろ決まりがあるようだが、その三角点を探そうとなると、これまた大変である。それにもロマンを感じる人がいるのであろう。富山県にある一等三角点は、県境にあるものを含めて10ヶ。私はついでなら、その頭を撫でて来る。上から覗けば、18cm角である。



6/22 「足が上がらなくなった。」「小さな沢も跳ぶ事が出来なくなった。」「下りがだんだん辛くなってきた。」の会話が多くなり、「あのコースは何時間で登った。」「あのルートは簡単だよ!」などと語る事が陰を潜めてしまった。

 日頃の山行も、何だか弟や妹、そして息子や娘に、導かれて登っているような錯覚に陥る事がある。必然そうなる事(時)が来るのであるが、「まだまだ」と言い続けなければ、 「元さん」「元ちゃん」と呼んでくれる名があるから良いようなものの、これが「父ちゃん」「オヤジ」を通り越して、「元じい」になってしまうような事になれば、私も、もうお終いである。

 そのためにも、「赤いちゃんちゃんこ」を着せられてるような事だけは、何としても抵抗しなければと思っている。来年になって、その「赤いモノ」を、催促したり、嬉しいなどと思わなければ、私も、まだ大丈夫なのだが・・・・



6/21 大量の晩酌でもないのに、この頃PCの前でのうたた寝が多い。体力の無さが、ここにも窺えるのかもしれない。「キーボードが叩けない。」そんな連想も脳裏に浮かび、尚更のように自分を追い詰めてしまいそうである。「毎日更新に拘らなくても・・・」の優しい声援はそれとして、自分には許されない。「それなら止めちゃえ・・」となっちゃうのである。自分の日記(山日記)であるから、何を書いても(述べても)良いはずなのに、公開するとなると、「本音」にも色を付けなくてはいけない時もあるからである。しかも、面白く書けない自分は、なるべく正直が売り物だけに、それは辛い選択でもある。

 昨日、当欄に 「ヘビ」の話題を載せた事で、高校時代憧れであったG女史から、「高校時代は楽しかったね。」とメールをもらった。「 そうですね。その頃のGちゃんが、一番輝いていたような気がします。   もう一度輝いてみたいと、ずーっと思っていたのですが、(私も)  火をつけても、すぐ燻ってしまいます。仕方ないのかな! 」 と返事を送った。
   「元ちゃん 今も 昔も あなたは変わらず 輝いています。そして 私も自分のことを 結構 幸せだと思っています。 人から見て どうこうより 自分の感覚が正しいんじゃないかな・・・ 自分が積み重ねた人生は それなりに価値がありますもの。」と頭の良い彼女は、私に激励とも取れる優しいメールを再度送ってくれた。

 40年間続いている賀状のやり取りと、彼女の所属する会の発表会(研究会)に招かれて覗いてきたくらいで、大昔の愛くるしい容姿の残像と、仲間と一緒に騒いだ事が、ついこの間のように重なり合って思い浮かぶのである。
 そして、 ネットの時代になり、私の不甲斐ない文章を見つけては、「元ちゃん、しっかり。」と時々メールをくれるのである。

 当欄は、山に拘って書き綴っているのであるが、山から外れると、暴風雨に匹敵するような苦難に悩まされる事が、幾度ともなく押し寄せてくる。それは、山でいう雪崩や落石、滑落のようなものかもしれない。でもそれを、当欄で暴いても、何のプラスにも動かないし、私の幻想の世界を否定する事になってしまう。気の弱い私は、仕方がないから、「世の中には、私より、辛い人、困っている人が、まだまだ大勢いるのだ。」と言い聞かせて慰めているのである。
 リッチな「団塊の世代」と、持てはやされているのに、私には、遠~い、遠~い人達の事のように思えて仕方がない。小心者の私であるけれど、何とか「心の輝き」だけは、失いたくない自分でありたいと思っている。その面からも、山で知り合った有志の方々との親交を財産にして、もうしばらくは思うのである。



6/20 いよいよ「虫」のシーズンである。各々の体質にもよるのであろうが、ちょっと刺されただけなのに、膨れ上がり 化膿する方もあり、それはそれは歯痒い思いをしなければならないようである。襟付きの長袖が必須であるが、虫除けスプレーや、防虫ネットを用意されると便利のようである。私自身あまりそのスプレーを使用した事がないのであるが、今ではかなり使用させているようである。

 頭から(帽子の上から)被る防虫ネットは、安価(300~500円程度)で、なかなか使い勝手がよい。美貌を売り物にしている方には、ちょっと辛いかもしれないが、痒い思いをする事を考えれば、その方が良いに決まっている。しかし、これにも欠点があり、うっかり被っている事を忘れ、唾などを吐くと、「おっとぉ~」になってしまったり、逆に飲食の時も同じである。少々間違いを犯しても、「ワッハハ~」で事なきを終えるのである。

 しかし、虫にもいろいろあり、ハチ・オロロなどやられた方でないと、その辛さはわからない。
 では、雪のある所・高所などになるのであるが、毎週直接その場所に行くような事も出来ないし、費用をかけずに、そこへ行くとなると、やはり「虫」のいる場所を通過しなければならない事になる。

 また、ヘビも嫌いな者にとっても、これから厄介な事になる。私もどちらかと言うと苦手であるが、「山ノ神」と一緒の時は、ヘビの事で、びっくりする事は少ない。それは、彼女がヘビに敏感で、すぐ見つけは「キャー」、あそこにもいると言っては「キャー」で、私が驚く間もないのである。
 私の先輩である俵氏は、これまた極端な方で、ヘビを見た瞬間から、Uターンし、家に戻ってしまう程の方である。雪の山や立山など、直接高所へ運んでくれるような山にしか行かないという徹底ぶりである。

 一度こんな話を聞いた事がある。蓮華温泉から白馬岳に向かう途中に、ヘビが登山道を横切ったのだそうである。ドキッとし、戻ろうかどうしようかと考えた挙げ句、ひとまず、ちょっと下がって、タバコを吸いながら何気ない顔をして、次の登山者の通過を待ったそうである。すぐその後を行くのも抵抗があり、一息着いた後に歩き始めたら、またヘビが出て来たので、真っ青になり戻ってしまったそうである。飛び越えたり、棒のようなもので払いのけたりする方法もあるのだが、嫌いな者にとっては、それが出来ないのである。



6/19 橋本・長勢両君企画に乗っかり黒部峡谷のウド谷へ行って来た。宴会は程々にして、「リック一杯に山菜を採ろう!」というテーマであったが、やはり今年は雪解けが遅れており、皮算用になってしまった。でも、そこそこのおみやげに、気分はお天気のように爽快であった。

 企画者の提言(宴会は程々に・・)を重視して、コンロやコッフェルをなくし、ビールも少なめに(唇を潤す程度)準備していると、「山ノ神」から、「ビールのない山行など考えられない。」「火のないのは寂しい!」までは良かったのであるが、前々から模索していた「山中で、採ったばかりの山菜の天ぷら」の逆提案まで出て来た。廃油処理方法を確立して、本日に臨んだのであるが、雪上のテーブルや群青の青空、そして後立山連峰の展望に、山菜の新鮮さが相俟って、「山中の天ぷら」は大受けとなった。

 一口頬張る毎に、eikoちゃん・ねぎちゃん・まきちゃん・きくちゃんなどと、仲間の顔を思い浮かべ、「一緒に食べたかったなぁ~。」となった。テーブルに目を向けると、あの程々の提案は、何であったのかと思うほど、全員のコンロが勢いよく燃え、普段と変わらない献立が作られていた。宴会なしの山行など、やはり「好山病・・」にはないのかもしれない。
 しかし、そこに至るまでの行程は、他のメンバーからしてみれば、何でもない事かもしれないが、徒渉・高巻き・ガタガタの雪渓の登り下りは、「山ノ神」には、結構辛いもののようであった。でも、行けない所への感激は、人一倍に感じ、家路に着いた頃は、その興奮だけが残っていたようである。そして、手を引いて導いてくれた仲間への感謝も、決して忘れてはいなかった。



6/18 目を覚ますと、予報ほどでもなかった事が、「山ノ神」を苛立たせたようである。それなら、「雨飾山」へ行きたかった。などの返事が戻って来たが、それなら、「もうちょっと早く起きろ!」 とでも言いたくなる。こちらは、それ相当の時間には起きているのだから・・・

 ならば何処へと、大日岳には、ちょっと遅かったので、「白木峰」「大辻山」「中山」「負釣山」の候補をあげたが、一向に返事がない。でも、これが行かないと言うのであれば、楽なのであるが、そうでもないからややこしい。車に乗り込んだ時点で、「白木峰」を切り、8号線を走った。「北馬場」交差点で、右折した時点で、「負釣山」も消えた。立山公園線を走ったら、自ずと行き先が決まってしまった。
 アルペン村近くのコンビニで、先日の牛岳記念山行に参加してしてくださった蜷川女史夫妻とばったり、何か良い事にがあるような気がして仕方がなかった。
 大辻林道を走ったが、通過する長尾峠と、その付近の駐車スペースが満車に近い状態。鳥越峠もかなりの車がやってきていた。

 北尾根ルートは、ぬかるみが少なく割と気に入っているコースである。鳥越峠では見えた、剣岳や大日岳、毛勝の山々が、登るに連れて、ガスに覆われてしまって残念であったが、大辻山頂で腰を下ろした隣の方々が、八尾からお越しの3人組であった。(武部さん、柴田さん、下島さん)ひょんな事で話が弾み、記念写真を撮るに至った。下山路では、大猫妖怪氏とばったり、久しぶりの再会に思わず握手を交わした。必然長勢君が話題になり、なかなかの人物であると大猫氏は長勢君を「べたほめ」した。そして、早々に「越中の百山」を登るであろうという意見が一致して別れた。

 のち、今にも雨が降り出しそうな模様を押して、高峰山に登った。何にも見えない。唯、もう一つの頂きに登りたくて、行ったようなものであった。


6/17 遠出好きな「山ノ神」の希望を組み入れて、明日からの連休は、「那須岳」「筑波山」の予定であった。一ヶ月以上前から楽しみにしていたのであるが、梅雨入り以来太平洋側のお天気予報が悪く、昨日中止を決定した。ならばと、今度は日帰りで、滋賀県の「武奈ヶ岳」としたが、予報が悪化したので、これも今夜中止とした。悉くの中止で、「山ノ神」に何を言っても返事がないくらいの立腹である。「明日はどうする?」 と尋ねると、「お天気を見てから・・・」 などと、他人事に言う。確かに行ってみなければわからないのであるが、ワザワザ時間や費用を遣って行く事もなかろう。あちらに出向いてから降ったのなら仕方がないが・・・ p.m.11:59



6/16 「休日は山へ・・」何があっても山へ行く。他の人から見れば、さぞかし「極楽とんぼ」に映るであろう。家業故、用事は全て、休日以外に片付けてしまい、休日の用事は、悉く受け入れない事にしている。
 兄弟にも、子供達にも、私(達)の休日を外し帰高してくれとお願いしている。しかし、冠婚葬祭などは、私が主宰しない限りその域ではない。「一杯飲もうや!」の友人からの誘いも、出来たら休日以外にお願いしている。平日で用事のない時なら、いつでも我が家は受け入れる。「泊まっていってもいいよ!」などと言っても、相手側の都合もあり、その成約は数少ない。

 それほどまでにして行く私の山行の中味は、他人に誇れるものでもないし、大したものではない。人の行けない所へ行くわけでもないし、今やそのタイムを争うものでもない。回数とて、それこそ大したものではない。
 これからは、馴染みのある山に四季を通じて、出来れば急がず、ゆっくり山と親しむためにも、山中で泊まる機会を増やしたいと思っている。担ぐ量には、今や限界があり、快適に過ごす装備か、心を癒すアルコールを担ぐかの、選択に迫られる事になりそうだ。ならば、遠く或いは、奥まで行かずとも、行ける範囲でも、山の味は充分に堪能出来るとなる。しかし、雪のある時は、何処でもいいが、暑い時は、涼しい所へ行きたいのが本音である。

 仲間との山行機会を大切にし、そして、時々は、これぞと思う所へ出掛けられれば最高である。毎年大地・初雪山、剣岳へと思っている気持ちも、いつまで続くかはわからないが、その憧れを、ず~っと大切にしていきたいと自分に言い聞かせている。 a.m,10:30



6/15 久しぶりに6時間程寝た。でも未だ眠たい。牛岳の余波が続いており、「次行く山」への余裕がない。こんな事は珍しい。

6/14 牛岳100回記念山行の記事を、北日本新聞にカラー写真付きで、デカデカと載せて頂いた。懇親会場のアトリエで、コーヒーを飲みながら、寝ぼけ眼のまま、皆で覗いたが、何だかちょっぴり照れ臭かった。でも、それだけでなく、皆に祝って頂いた感謝の気持ちを、ず~っと持ち続けていかなければと思った。

 電話やメールをたくさん頂いた。祝電もあった。じ~っと、していると目が瞑れそうになるし、仲間と騒いだ余韻も残っている。その中で綴った当欄やメールの返信を読み返してみると、ワヤワヤであり、恥ずかしかった。まだ返事が残っている。

 記念登山も、eiko女史の新築祝を兼ねた懇親会も、当たり前のようにやってくれる「好山病・・」は素晴らしい。命名されて一年半である。大方のメンバーは、未だ一年にも満たないのであるが、やはり密度が濃いからであろうか、ずーっと以前からの仲間のように思う。また相性が合うからかもしれない。自惚れは少しにし、他人のイヤな事は言わない。ちょっとの気配りが、亀裂を生じない所以なのかもしれない。
 そして、こちらのお気に入りの方は、ゲストとしてドンドン誘う。その事で、今のところ、イヤな思いをした事もない。誠意を見せれば自ずから、その答えがわかって来るというところか・・

 私は、ハレルヤにも所属している。そのハレルヤから、ゲストの「シュンちゃん」、そして、予期せぬ伸子さんが、多忙にも関わらず山頂で迎えて下さった。  北ちゃんを師匠と仰ぐ、「イッツちゃん」と「ヨネちゃん」が、逆に、「まきちゃん」は、師匠と仰ぐ松田氏に、もう一人の弟子、蜷川女史と一緒に参加してくださったのである。  「きくちゃん」は、初登山であるが、山に興味津々だという岡本嬢を、長勢君は親友・岩城君を登山には参加出来なかったが懇親会に誘ってくれた。
 そして私は、40年来の親友の中山君を誘った。「好山病・・」を暖かく見守っていて下さる池田氏や佐渡氏が山頂で、そして、誰が誘ってくれたのか、福井から宮下・黒川女史が駆け付けて下さったのである。また、金剛堂山から、急接近の河島氏も真っ黒な顔で参加してくださった。
 日頃から、「好山病友の会」の名以外は、何も決まっておらず、何処から何処までが、メンバーなのかわからないと言い続けてきたが、北川・藤井・田村・橋本・菊田・根岸・堀田・長勢2・本間2の計11名が「好山病・・」の正式メンバーである。 p.m.11:50

6/13 「あの雨は何処へ行ったのだろう。」と思わせるほど、記念登山に相応しい日和になった。私をもっと驚かせたのは、福井から宮下・黒川女史が駆け付けて来てくれた事であった。また、メンバーの友人・知人も加わり20名に膨れ上がっていた。私の知らぬ水面下で、いろいろお世話頂いたようである。

 とにかく、「ゆっくり歩け!」の指令が出ていたが、これはなかなか難しいものである。我々の大行列に「北ちゃん」・「ねぎちゃん」・「イッちゃん」が、ビデオ・カメラ・三脚を持って、先に行ったり、下がったり、時には待ち構えたりで、それはそれは大変のようであった。時には、いろいろな注文が出て、まるでスターにでもなった錯覚に陥いるほどであった。

 草を刈りながら、「この花は何?」「この木は何?」などと、意外な程に知識を得、それがコミュニケーションとなり、お互い顔を見合わせて、にっこりとなったりしていた。ゆっくり歩いても汗が出た。「初めて歩いた。」いや、初めての山登りだという若い女性(岡本嬢)などは、ヒーヒ言っていた。「でも山はステキですね。」と世辞は忘れていなかった。
 牛岳に感謝の意味を込めての清掃登山も、「ゴミがあった!」などと見つける方が大変であった。伸びた草を刈るにしても、「これは花が咲く」などと、むやみにカマを入れられなかった。

 山頂でも、カメラやビデオが待っていた。照れながら辿り着くと、二本杉から登って来られた池田氏や、時間がなく直接山頂に来られたハレルヤの伸子さん、そして、メディア通の佐渡氏が出迎えてくださった。
 記念写真用に横断幕、eiko女史作製記念プレート、登頂記念品、特性ラベル付きのビールなど、何もかもが、私を天に昇らせるかのようなものばかりであった。極めつけは、新聞記者のインタービューであったが、口べたな私はあまり上手く説明が出来なかった。しかし、山への思いを、切々と述べたつもりである。
 山頂でスーツに着替えて、述べてくれた「シュンちゃん」の祝辞には、少しこそばいものがあったが、さすが弁士であった。立て込んだスケジュールの中、心から祝ってくださった面々と、じゅっくり話す事が出来なかったが、それはそれで、後の絆への道筋になるような気がした。

 ちょっぴり予定をオーバーした下山であったが、新築なったeiko女史のアトリエのある立山町で、その祝も兼ねた懇親会となった。シュラフ持参の17名は、夜が更けるまで、延々と山の話で盛り上がった。その余韻は一日中残ったが、一日中眠たかったのである。 p.m.11:20



6/12 ゴロゴロ音がするので目が覚めた。そのうち雷鳴となり、ザーッと雨が降り出した。昨夜までのお天気なら、ぬかるんだ登山道を歩かなくてもよいと思っていたのに・・・・・・。
 一昨年1月ハレルヤ山行の折、快晴の牛岳に出掛けた事がある。その時、筏井氏から「元ちゃん、あんたは、こんな素晴らしい眺望を楽しんだ事はないだろう?」と尋ねられた事があった。「???えっ~」 「あんたは、お天気の悪い時ばかり来ているのでは・・・・」 そう言われればそうである。
 「雨の牛岳」 それは、私の100回記念山行に相応しいのかもしれない。唯、一緒してくれるメンバーに申し訳ないような気がしてならない。でも、富山平野と富山湾の境にある雷雲も、やがて通過すると確信しているし、良い意味での思わぬハプニングなどが生じ、楽しく愉快な記念山行となる事を願って止まない。 a.m.5:50



6/11 「明日の今頃は?」 時計を見る毎に思ってしまう。「好山病・・」のメンバー全員が揃うようであるから、とにかく、「晴れて欲しい! せめて降らないで欲しい!」 それが私の一番の願いである。一番良い季節とは言い切れないが、晴れれば新緑が眩しいであろう。しかし、今までが、今までだけに、過去に例のないくらいの行程の短い山行故、ガッテンしていても、満足してくれるのであろうか心配なのである。
 今までの私の牛岳詣は、時間のない時、お天気の悪い時であって、牛岳山行機会が多いという事は、どちらかと言えば、不幸な時で、牛岳にご無沙汰している時は、それなりの充実した時と言っていただけに、私としては、複雑な心境である。元気な人には、2往復・或いはタイムトライアルなどと言っては、必ずしも記念山行としての値がなくなってしまう。企画してくれる、参加してくれる皆に感謝して、新たな山への思いを語らう事が出来たらハッピーである。 p.m.4:00



6/10 記念山行の企画を全て任せて、唯歩けばいいのであるが、そんなに甘えて良いのであろうかと思ってしまう。(余計な事を考えなければいいのに・・・、素直になっておればいいのに・・・) 
 ゴミを拾いながら、また伸びた草木を刈りながら登る提案は、「日頃の罪滅ぼし」また、「何か良い事を一つくらい」の思い付きで、余裕の無さの副産物のようなものであった。
いつの間にか、「カマを持って来ます。」「ゴミ袋を持参します。」とメンバーに伝わったようである。悪い事でないから良いようなものであるが、大げさになっては、私の身の持っていく所がなくなってしまう。

 元来私は、目に余るもの以外、積極的にゴミを拾わない。誰でもそうであるように、私もあまり好きでないのである。同行の「山ノ神」は拾う。それはそれで良いのであるが、すぐ私のリックに入れてしまう。そこまでなら良いのであるが、家に帰って、その始末を私にさせるのである。「格好の良い事は最後までやれ!」とつまらぬ事で、いつも揉めてしまう我々である。
 私は、「もちろんゴミは捨てない。そして、忘れない。落とさない。」に気を付けている。こんな愚か者が、ゴミ拾いの提案をするのも可笑しなものである。

6/7の99回目は、山開きをして間もないせいもあり、あまりゴミはなかったようだが、これからの雨量によっては、草木が登山道に覆い被さるのではないかと思って登った。企画者の主旨を損なわないように、ちょっとの時間を、ちょっとだけ整備するつもりの提案であったが、わかってもらえるだろうか? あくまで、「格好出し」ではなく「罪滅ぼし」なのである。それは、自分の身体のように、使いっぱなしで、何のメンテナンスもしなかったから・・・



6/9 今夕、H.fujii氏から、6/12の記念山行にと、大量の昆布〆を頂いた。氷見の真新しい魚を、〆たものだけに、どのようにと思ったのであるが、彼の言いつけ通り冷凍にする事にした。
 最近、私から見ても、俄に山に狂っているH.fujii氏は、一昨年の大辻忘年会山行で、「シュンちゃん」とお会いした。昨秋の猫又山では、「北ちゃん」と一緒した。eiko女史の個展を観覧したなど、「好山病・・」に限らずとも、山愛する者に対して、親交を求めてくださったのかもしれない。「出来れば参加したかった。」などとは、山の世界を広げたかったに違いない。休日の違う彼であるが、その好意に感謝しつつ、機会があれば、有り難う山行を企画しなければなるまい。しかし、我々の山行スタイルは、少々特異なものであり、誰にでも受け入れられないところがある。そして、その後遺症を考えると、容易に誘えないのである。また、私の歳の進むのと逆行して、若返る会の構成であるから、それはそれは大変である。そんな夢のある山の会(好山病友の会)に、私はしがみついても離れたくない。そのためにも鍛錬は欠かせない。 p.m.11:59



6/8 やっとの思いで牛岳山頂に立ち、自分自身のお膳立てが出来たという感じだ。6/12の企画・進行は、全て山仲間に任せてあり、私はワイワイ言いながら登ればいいらしい。それもゆっくりとである。もしかしたら、いつも以上に、牛岳の何かを発見する事が出来るかもしれない。
 本当に簡単に登れる牛岳である。何を、そう騒ぐのかと思うのも当たり前である。街中を、健康のための題目で、歩いておられる方が多いが、私にしてみれば、あれの方がもっと大変だろうと思っている。毎日のように、しかも、あまり変化がないように思えるのであるが、その方達には、我々の知らぬ思いが、きっとあるのであろうが・・・・・
 それが、拘りというものであって、目標を掲げる事は、もの凄く励みになり、その達成感たるや、やったものでないとわからない。「たかがである。」 「されどである。」 たまには、ちょっぴり自慢もいい。「謙遜も自慢の内」などと言うらしいが、そればかりでは、ストレスが溜まってしまう。
 寝不足・急激な運動・帰ってからの過食など、どうみても健康的でないのであるが、さわやかに続く身体への「快い痛み」が、心中まで軽やかにすると確信している。

 「次行く山」で、我々夫婦は、少々揉める事もあるが、共通の目標・話題となる事が多く、自分(達)だけの「心の富裕」を味わう事が出来るような気がする。
 「お前はケチではない。お金があって使わないようにするのがケチ、お前はその資格がない。唯貧乏なだけ・・・」 ずーっと、親友に言われ続けているが、山歩く時だけは、「俺も満更ではない。」などと、心が豊かになるのである。
 そのためにも私は、ずーっと歩き続けなければ、それも、長い間山中にいなければならないような複雑な感じではあるが・・・
多くの山仲間を得たこの財産は、必ずしも貧乏ではないのかもしれない。「山だけの付き合い。」 「イザという時に当てにならない。」などと、いい加減ともとれる発言もあるが、「心のザイル」が、軽薄かどうか、一生をかけて検証してみたいと思っている。



6/7 「はっと」、思い目が覚めたら、午前1時40分であった。「まだ、1時間ちょっとしか、寝ていないのか?まだ2時間は寝られる。」

   「明朝牛岳に行って来る。」 「仕事に間に合うように帰って来るから・・・」3日間連続となるのであるが、「山ノ神」は差ほど驚きもしなかったようである。
  6/12の記念登山までに、もう一回登らなければならなかったが、お天気の良い休日に登るのも如何なものかと思っていたし、雨の仕事前の早朝に行くのもイヤであった。もう、この日しかない気持ちで、99回目の牛岳を決行した。

 朝靄のひんやりした中を、半袖姿で歩き始めたのであるが、過去の牛岳山行を想い出しながら、また、来週の記念山行を企画してくれている山仲間の事を思いながら、一歩一歩踏みしめて歩いた。牛岳の100回など大騒ぎするほどのものではないのであるが、区切りの良い数字であることは間違いない。そして、他の人達のためでなく、自分自身のために登っているのであり、その事に感銘してくれる人達と、喜びを分かち合えるのであるから、その日が来るのが楽しみである。そのためにも99回目を歩かなければならなかったのである。
 その日に、ササユリが咲き誇ってくれるのであろうかと期待をしてみたが、まだほんの蕾であり、5日の間では、ちょっと無理であろうと思った。意外と目を楽しませてくれたのは、サンカヨウの群落であった。その鮮やかさは、朝一のご褒美を、私にくれたのかもしれない。
 16年9月のやはり早朝であったが、熊と遭遇しているので、その場所に来ると、ちょっぴり緊張してしまったが、何の事はない。あれは、宝くじに当たったようなものなのである。山頂からの展望は靄で何も見えなかったが、99回目の登頂は、リーチまで、あと1回のノルマを達成出来た喜びを、充分に味わう事が出来たのである。



6/6 昨夜、小秀山から帰ってHPを更新しようと思ったら、PCが動かず参ってしまった。近所のS大先生に連絡するには、ちょっと時間が遅いし、トラブルが今までのものと違っていたので、強制終了するのを躊躇ってしまった。
 朝一にお知らせして、見て頂くのが良いのであるが、こちらにしては、「山あってのPC」であるようなもので、出来るだけ早く下山し、お願いする算段であった。(ずーっと、つけっぱなし・・・)

 昨日の疲れもあって、ちょっと出遅れとなったが、人形山に向かった。早く帰りたいし、帰らなければならないのに、出足から山菜に目が向いてしまう。第二休憩所を過ぎた頃から、イワウチワ・コイワカガミ・ショウジョバカマ・ミツバオーレン・ツバメオモトが疲れを癒してくれた。そして、梯子坂付近では、雪解けが進んだ所から、カタクリが咲き誇っていた。「コシアブラ」を採り始めると、前に進まないから困ったものだ。

 三ヶ辻山との分岐(梯子坂乗越)で、「山ノ神」の大事な荷物を渡し、1時間半後、人形山頂上で会う事にした。山頂で写真を撮り、もう一つのてっぺんに立って、自己を満たすだけのものであったが、それはそれなりに、私としては意義のある事なのである。それよりも、遠くとは言え、昨日同様の雷鳴が轟く中で、「山ノ神」の心中を思うと「ちょっと、まずかったかな!」と人形山を駆け上った。

 山頂に駆け上がるや否や「ご苦労様」の声と共に、私の口元に、冷た~いビールが運ばれて来る。それが立て続けとなると、空腹の私には、いっぺんに酔いが回ってしまい、雷鳴もバックミュージックに変わっていってしまう程である。
 眺望もなく、唯、飲みに来ただけの山行であったが、山頂を踏んですぐ帰る私達ではない。その頂で1週間分の「山の味」を、充電出来る程いなければ、満足で出来なくなって来ているようである。登山口に戻りコーヒーを飲み終えたのは夕刻の6時であり、今日も大幅な遅れに反省しながら、PCを直してもらわなくてはと、家路を急いだのであった。



6/5 山の中味より、ちょっとでも遠くに出掛けるのが大好きな「山ノ神」の要望に応えて、岐阜県の「小秀山」に出掛けた。私にしてみても、どうせ出掛けるなら名山という事だけの選定である。出掛けてみれば、「富山の山が良いに決まっている。」(こんな事を述べてしまうと、また後から、それも各方面から、お叱りを受けるに、決まっているのだが・・・・・・)
 「登ってみなければ、わからない。」 「どの山にも特徴がある。」などと、受け売りであるが、「山ノ神」も上手い事を言う。

 「行ってみたい山」に載せていたが、前夜に、「山と渓谷社」の「岐阜県の山」をちょっと覗いただけ。おまけにカシミールには、全く登山道が明記されていなかった。でも、とにかく寝なければ・・・・・・・前夜も殆ど寝ていないのだから・・・・・・これが大間違いであった。
しかし、二百名山であるから、予想通り登山道は整備されている。「この周辺の何処に止めても有料です。500円」ばかりに気をとられて、「二ノ谷ルート登山口がない。」などと言いながら、三ノ谷ルートを登る事になってしまった。等間隔に標識が掲げられていて、汗を掻いても、絶対迷う事ないルートであった。

 岐阜県下呂町の先の加子母村までの180キロを、往路も復路も3時間半。小秀山の滞在時間は10時間であったが、気になったのは、この位置にある1982mの山に雪が有るかであった。「山ノ神」は、食材の保冷剤代わりと称して、冷凍した缶ビールを持参していたが、(担ぐのは私である。)私は、「飲んでも飲まなくてもいいや!」 のつもりで、残雪に期待してリックの底に忍ばせた。
 しかしながら、影も形もなく、前週の猫又やブナクラの標高での残雪の量を考えると、これほどまで違うのかと思ってしまった。  もはや、諦めかけた1900mから、汚れた残雪が樹木の間から見え始めたのである。予定していたスーパーの買い物袋に雪を詰め、その中に、ポリ袋で包まれた大事なものを入れ山頂に運んだ。

 二百名山と言えども、平日であろうか、我等二人の山頂であった。ブヨ対策にネットを被りながら、 小魚を焼き、冷たいものを一気に喉に流し込んだ。「何のために、この山に来たのか!」なども、いっぺんに忘れ、「百の山頂に、百の喜びあり」などと、この時ばかりは、顔を紅潮させていた。
 「風雲急を告げる。」とは、この事だろうか! 中高年4名パーティーが登って来たと思ったら、雷鳴が轟き、俄に雨が降って来た。この土岐市から来たという中高年パーティーの中の二人は、リックカバーどころか、雨具も持っておらず、すぐに引き返して行ってしまった。下山路の雨の上がった頃、我々は、そのパーティーを抜き返したのであるが、その後の雷雨を、どのように乗り越えられたのかわからないが、駐車場に戻って帰宅準備をしていても、彼らは現れなかった。



6/4 管鮑会40周年行事の雨晴温泉「磯はなび」より、バイキングの朝食を終えて、仕事に間に合うように、午前8時過ぎ自宅に戻った。午前3時半まで、起きていただけに、今日は一日中眠たく、明日の行き先が、なかなか頭に浮かばなかった。
 寝不足だけに、遠出を嫌っていたのであるが、4時間以上寝られれば、中距離程度の山なら行けそうなので、「山ノ神」の希望を素直に受け取り、岐阜県下呂町近くの乙女渓谷から入る小秀山(1982m)に行く事になった。「あっ、牛岳も行かなければならないのに・・・・」 p.m.9:55



6/3 今日は、高校時代からのグループ「管鮑会」の40周年記念行事で、泊まりがけで雨晴の「磯はなび」に出かけなければならず、少々仕事を早めに切り上げなくてはならない。そして、明日は仕事に合わせて、早々に帰宅する予定にしているが、2年ほど前に、30年間程努めた代表を退いているため、あれやこれやと気を遣わなくてもよく、時間までに行けば良いので少しは楽である。

 「想い出話」に、花が咲くかもしれないが、私の真っ黒な顔を見て、「未だ山に行っているのか?」とか、「山ばかり行っているから、足が痛くなるのだ。」とか言われるのが落ちで、山の話を聞いてやろうかと言う輩は、おそらく今回もいないであろう。
 「趣味は?」の問いに、「ない。」 「わからない。」 「仕事」 「テレビのスポーツ観戦」 「孫の成長」などしか言えない仲間からみれば、「私は、何と幸せなのだろう。」と思うのであるが、彼らは、彼らなりに「馬鹿な、重荷を担いで危険な所へ・・・」ましてや、「雪のある寒い所へ・・・」などと呆れるのが落ちである。
 お互いそのような事では、袂を分かち合うのであるが、40年以上続いている多くの仲間達と、それ以外の話題で親交を深めたいと思っている。面白い事の言えず、カチカチの私であるが、何かを好んでいてくれての長い付き合いなのであるから・・・・・・ p.m.3:50



6/2 ジャケットやグローブなどの冬物を片付けていたら、大伸ばしにした「穂高をバックに奥丸山頂」の写真が出て来た。自分が三脚を立てて撮ったのか、山頂に居合わせて人に撮ってもらったのか、忘れてしまったが、最近のデジカメで、バシャバシャ撮り続けているものと違い、その頃の山行く心と同じような、何故か胸に迫るものを感じ取ってしまった。
 今と違い、髪の毛も多く、シワやシミも少なく、「結構いい男じゃないか!」と、自画自賛してしまったが、この先、何回も何年も、こんな事を繰り返していくのであろう。
 やっぱり、今日一日も無駄にしないように心がけ、少しでも悔いの残らない日々を、送らなければなどと思っても、「これで良し!」という事がないように、空しさだけが、歳負う毎に大きくなっていきそうである。



6/1 いよいよ牛岳記念登山が迫って来た。私の知らぬ間に、いろいろ企画されているようである。その間に、私自身もう一回(99回目を)登っておかなければならず、ちょっぴりプレッシャーもある。
 高が牛岳である。ちょっとの間に、登れる牛岳である。コースを変えれば、山頂直下まで、車が来る牛岳でもある。私としては、雪のある牛岳100回の方が良いのではないかと思っていたのであるが、それでは何時のなるかわからないとの事であろう。
 それほど、簡単に登れる牛岳に、「好山病・・」の仲間達が、本当はもっと登りたい山があるであろうに、私のために一日を費やしてくれるのである。(涙が出そうである。)
 雨でもある「好山病・・」だけに、中止になる心配がない事が、逆にゲストの方々も参加しやすいようである。その牛岳を、2時間半掛けて登るのであるから、珍事が起きないわけがあるまい。同日夕刻から、新築なったeiko女史のアトリエで、パーティーが予定されているから、まさか、ビールを飲みのみ歩く事もあるまい。