9/30 「豆ちゃん」と連絡が途絶えた。親子ほどの年の差があり、未だ二度しか出会った事しかない彼であるが、私の大事な山の友である。その事を「愉快な山仲間」に載せた。PCを使っていない彼だけに、その友人をも頼っての訴えであったが、そう時間を要せずしてメールが届いた。
 反対に「HPを、そう簡単に止めると言わないでください。」 と苦言を呈された。彼は何処かのPCで、私のHPを覗いてくれているのかもしれない。
 長い文章の携帯メールを送ってくれる「豆ちゃん」。雪が降り始めたら穂高方面へ行くという。我々の仲間のネコさんと、また遭遇するかもしれない。



9/29 月一回の日曜日と、時折祝日と重なる以外は、平日が休日であるから、そんなに山中で、他の登山者と出会う機会は少ない。でも最近は、「やあ~っ」と挨拶を交わす事が増えて来た。そして、「この間行った山で、元さんの知り合いとあったよ!」と友人・知人から言われる事も、心なしか増えて来ているから嬉しい。

 山を歩いている人達が、辿り辿っていけば皆友人のような感じになってきている。形だけかもしれないが、ニコニコして挨拶を交わせる方々が増えるのは実に嬉しいし楽しい。このような事も山の魅力の一つかもしれない。

 私は、百瀬慎太郎が残した「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」 が好きである。人は何時も相反する事を心の中に持っている。どんな人でも皆人が恋しいのである。
 昨年は、山関係の友人だけでも、100余通の賀状を出したが、今年は大幅に増えそうである。でも、「これは私の財産」とは、独り善がりかもしれない。



9/28 昨夜は、貴婦人を装った小悪魔ちゃん達の来訪に、たった二人の我が家は、一変に賑やかになった。穂高に行って来た事、穂高へ行く予定の事、何もかもが山の話。持ち込まれたご馳走に、美酒が加われば、誠の宴となっていった。

 過日の北ちゃん宣言を遵守するためのケジメの催しでもなかったが、下界での小悪魔ちゃん達の可愛い一面を見た。このような楽しい一時を、我が家で過ごせたのは、「長老」の特権? への慰め? どちらか分からないが、楽しい楽しい想い出となる一日であった事は間違いない。眠かろうが、また一日頑張って、次の休日を待ちたい。



9/27 能登善徳著書「僕の山ある記」に、剱岳山頂(H.13.09.24)で、初めてお会いした時の写真が載っている。その時は、「ターさん」との出会いの日でもあり、三人で撮ったものである。そして、H.14.05.06毛勝山頂で能登氏とまた出会ったのである。「あ~、あの時の・・・」となり、初めて名乗り合ったように記憶している。
 同氏は、私より10歳くらい年上なのに、その姿は、はつらつそのものであった。その時の二人で撮った写真も載せてあり、「昨年秋、剱の頂上で会った人と毛勝山でも会った。」 のタイトルが付いている。

 H.16.07.06 小谷側から登った事がないという「山ノ神」と出掛けた雨飾山頂で、またまた能登氏と遭遇したのである。以前、名乗り合ったものの母の不幸もあり賀状の交換も一度しかなかったのに、2年間で風化されることなく、「お~っ」と声を上げ、握手を交わしたのであった。
 記録を探ると、H.17.01.03に千石城山でも再会しているから、今度の駒ヶ岳での再会は、5回目となったのである。

 雨飾山でお会いした時に、同著書を作成中と聞いていたが、私にまで、送って頂いた事に恐縮しながら、覗いてみて、私と映っている写真が、2枚もある事に驚いてしまった。

 5回も山頂で会ったわけであるが、一緒に登った事もなければ、下界でお会いした事もないのに、何十年来の友のように、受け入れられるのは、山ならではなのであろうか? その同氏は、駒ヶ岳からの復路を、我々3人の歩調と合わされ、楽しそうに、そして、賑やかに、一緒に下られたのである。
 さて、「今度は何処で?」 などと、不思議な出会いを連想してしまう。



9/26 「最近ネコさんとの行動が少ないのでは?」の問いに、「8月は自由行動の夏休み!そして、彼は、もっとレベルの高い山行をしています。また、ママさんと一緒しなければならない時もあるだろうし。でも、時々は傷兵(私)を気遣ってくれるし、仲間(好山病・・)を大事にしてくれる。自然体で付き合っていけますよ!」 と回答した。よくそこまで、私のHPを見て頂いているものである。嬉しくなったら、止められなくなっちゃうじゃない。

 本日、たまたま、自薦・他薦で二つのHPの紹介を受けた。両方とも60代の方のもので、最近デビューされたものであった。共通するものは、ふんだんの画像が取り入れられており、「これから・・」の意気込みが感ぜられ、何時止めようかと思っている私のものと雰囲気が全く違っていた・・・・・・・・。もう、ちょっとしてから、許可を得て、リンクさせてもらうかもしれない。 p.m.11:50

 

9/25 風邪の「きくちゃん」、突然やって来た息子の帰阪で、不参加になった「山ノ神」。今回も前週の大猫山と同じメンバー(橋ちゃん・宮ちゃん)となった。そして、2週続きの晴天に、気を良くしながらの山行となる。
 大きなリンドウが、所狭しと咲き誇っていた。ニッコウキスゲとマツムシソウが、ちょっぴりだけど咲いていたのに驚いた。また谷間の残雪にも「え~っ」、と声を上げた。

 誰も来ない快適な登山道を、それこそ山座同定しながら、ワイワイ言いながら歩いていたが、北駒ヶ岳のピークに達した頃に、後方から猛スピードで上がって来る男性を見つけ、「負けられない。」と言う気持ちが働き、こちらもピッチを上げてしまった。
 もしかしたら、時間を作って来た「北ちゃん」、仕事の合間をやって来た黒ネコなどと、想像してみたのであるが、何と久しぶりにお会いする事になった「黒部の能登氏」であった。
 そうなれば、先週と同じで、我々のパーティーに吸収という形になり、にこやかに楽しい語らいへと変わっていった。今日は、剱岳も毛勝山も特別に良かった。また後立山も、いつもより鮮明に映り、素晴らしい一日であった。



9/24 明日も良い天気になりそうだ。少人数なるが、明日は僧ヶ岳・駒ヶ岳になる。今までの駒ヶ岳は、全部残雪期だけに、何か違ったものを発見出来るかもしれない。そして、また、「宮ちゃん」のステーキが食べられるかもしれない。 p.m.9:05



9/23 昨日も奥歯を一本抜いた。しかし、首から顔面の痛みが取れず、あの痛みは、歯ではなかったのか? それとも、以前から続く「山ノ神」の呪いに、苦しめられているのであろうか?

 小心者の私は、心身とも、益々萎縮する自分に、ノルマを掛ける事にした。山を親しむには、可笑しい事なのかもしれないが、それを発憤材料として、気を集中するというやり方である。
 「大猫山50回」である。整備をされている方々からすれば、「なんじゃ~」かもしれないが、好きだとは言え、50回登るには(現在18回)、後何年かかるのであろう。大辻山・中山・白木峰・小佐波御前山も良いが、やはりちょっと高く、登り応えのある大猫山がいい。目標を切れの良い100回にすれば良いのであるが、今の年齢からして、真冬が登れないだけに現実的ではない。「「山ノ神」」と言う高いハードルがあるが、味方にして登ってみたい。もちろん他の山々も、回数を重ね、その本当の味を極められればと、思わずにはいられない。 p.m.10:45



9/22 私の連休の時ばかりが雨。しかし、結果的には雨でなく、泊の計画を流し、近間の山とした。明日からの連休は、好天に恵まれるようで、多くの仲間から直接・間接的に計画が飛び込んで来る。以前はこのような状態では、精神衛生上良くないと、空に向かって八つ当たりをしていたものだが、体力の衰えを自覚するようになってからは、行く仲間を笑って送り出す事出来るようになった。

 9/25の行き先は、まだ決めていない。剱岳西北尾根は、無言の日々が、また一週間延びる事になるし、白山には、紅葉か雪(新雪)が欲しい。では、僧ヶ岳~駒ヶ岳が、一番手頃か?ブナクラ周辺の山には、何度行ってもいいのであるが・・・・これもまた・・ p.m.10:10



9/21 「山ノ神」のコーナーをUPしようとしたら、突然PCがクラッシュ! またまた、寂しい時間を送ってしまった。逆に、このまま、立ち上がらなければ、楽チンかとも思ったりした。
 それ程私の心はよく動く。楽な方に楽な方に傾き、何一つ達成・完成を味わった事がないように思う。欲深いくせに! まだまだ生きなければならないのであるから、ちょっぴり人らしい事もしなければ・・・
 大した事でなくても、少しは自分を納得させなければ、この世に出て来た甲斐がないであろう。



9/20 更新が遅れがちなのに、まだコンテンツを、増やそうかとはどういう事か!自分でもよく分からない。山に拘りながらの当欄であるが、マンネリ化が甚だしい。日記だから良いのであるが、公開するとなると、そうでもないような気がする。どうかすると、「山ノ神」との格闘ばかりが前面に出て、お見苦しい・・・では、独立コーナーをとも思ったりする。

 来年8月、または、アクセス50万件をメドに、「元さんの山歩き」の閉鎖を考えているのとは裏腹に、どういう事なのであろう。やっぱり、人は「何時も輝いていたい。」「認められたい。」という欲望がある。例えシャイであっても、何かを秘めている事は確かであろう。
 目立つ事、輝く事など、特徴を探しても見当たらない。「老兵は・・・」になるのであろう。



 9/19 私は、先日(9/17)の中山登山の折、着替えと共に、靴下を家に忘れてきた事に気付いた。「シュンちゃんファミリー」 と、ご一緒する約束をしていただけに、「参った!」 という焦った気持ちになってしまった。

 過日、何処の山だったか忘れてしまったが、「福井の宮ちゃん」 も、靴下を忘れたと言って、手袋を代用にしていたことを思い出した。その様子を見ていなかっただけに、ちょっぴり不安があったが、私も軍手を利用してみる事にした。

 指全部が入らないだけに、これで良いのかとの思いはあったが、何とか大丈夫であった。あとは、踵の靴擦れの心配であった。しかし、この頃は、革製の靴でも、インナーの履き心地が良いから、その心配はなかった。
 唯、窮屈な靴など、どんな場合でも、OK!かどうかは分からない。 p.m.4:20



9/18 今日の大猫山行は最高であった。その余韻を馬場島でコーヒーを飲みながら楽しんだ。伊折橋で、真っ赤に染まる剱岳まで楽しんで、家に戻ったのが、午後7時であった。カギを持参するのを忘れていた事は分かっていたのであるが、施錠されていて、家に入る事は出来ない。
 「スイマセン! カギを持ち合わせておりません。宜しくお願いします。」 と、何処にいるか分からない「山ノ神」にメールを送った。今日は、何処へも出掛けていなかったのか、しばらくしてから現れ、カギを開けて、また買い物とかで去って行った。やはり、あまり良い雰囲気ではなかった。

 昨夜は、大猫行きを承諾したハズであったが、起きては来なかった。「ゆっくり・・で、荷はなし」 の条件まで付けたのに、やっぱり苦手な大猫(ブナクラ)であったか・・・結果オーライの天気であったが、逸れると言うものの、台風時の山行にも不安があったのかもしれない。

 ブナクラ取水口駐車場で、ネコの大ファンである高岡の奥氏と遭遇! 全く違和感を感じず、宮ちゃん・橋ちゃんを含めた4名パーティーになった。元気者ばかりなので、後から追い立てられるような雰囲気の中、始めから剱との対峙となる。流れる汗も、吹き荒れる強風も、そんなものは、どうでも良いくらい、剱を眺めながらの贅沢な登高である。
 18回目となる大猫山で、こんな素晴らしい日は、何回もない。橋ちゃんや奥氏も、その喜びや素晴らしさを、きっと胸に刻んでいた事であろう。

  山頂には、一足先に出掛けていた「北ちゃん」が、もう下山の準備をしていた。(母の看護・介護の合間に登って来たのである。)
 「私は、これから山で、アルコールを口にしません。泊まった時も、12時以降飲みません。」 の 『大猫北ちゃん宣言』 を残して、風のように去って行った。

 大猫山頂は、コンロに火を点けるどころか、立ってもおれないくらいの、生暖かい強風である。馬場島駐車場で、たっちゃんから、「猫又への登山道が、何処まで延びているのか調べて来て!」 の一言もあったし、風が落ち着き、食事の出来る所を求めて、猫又方面(北東)に向かった。ず~っと、剱岳と対峙する稜線漫歩である。それこそ、同じものになるが、シャッターの切り続けである。

 登山道の行き当たりの窪地で風を避け、剱岳を背に、毛勝の山々を前面にしながらの贅沢なランチとなる。出来合の物しか持参しなかった男共を尻目に、今日は何もかも「宮ちゃんシェフ」 のご馳走になった。奥氏などは、あの大きなステーキに目を見張っていた。
 そこまでと思っていた登山道は、刈りがけだが、もう少し延びていた。宮ちゃんの言う「子猫」一つ手前の小ピークで、猫又谷コルの寸前である。今年中に、猫又山まで通じるかの勢いである。

 

9/17 未だ来ぬ台風の間隙を縫って、それも、ひょんな事から、「シュンちゃんファミリー」と、中山周回コースを歩いてきた。ゆっくりだけど、たくさん汗を掻いた。ゆっくりだけど、何時もと違った楽しみ方があった。
 早朝見えた山々が、ガスの中に消えてしまったのであるが、お愛想で、山頂からは、ほんの僅かであるが、「わーっ」、と歓声を上げさせてくれた。幼い子は元気で良い。私の事など覚えてもらえないと思うが、こちらは元気をもらった。「何時かこのおじさんと、山に行った事があるの?」 などと、思い出してもらえれば、涙ものかもしれない。

 「えっ~」と思うほどに、馬場島で山田君と遭った。その山田君を無理矢理誘って、5時半から、千石城山に登った。なかなか山歩きの出来ない彼には、強烈な想い出になった事と思う。「行きたい!」「何処かへ・・・」の反応を待ちたい。でも、私の身体は、ガタガタになってきている事は間違いない。 p.m.11:25



9/16 きっと、台風は逸れると思うが、その可能性が残っている限り、それを無視する事は出来ない。一昨年秋の台風で、かなりの被害を受けたし、家族旅行に出掛けた時も、帰りの電車が動かなくなった事もある。その時は、家に帰ったらシャッターが壊れていた。街中の一軒家は風当たりが強い。(前も横も駐車場なのです。) 唯でさえ、気弱な「山ノ神」一人を、残して出掛けるわけには行くまい。(私に向ける闘志!を、いろんなところで発揮してくれれば、そうでもないのに・・・・)
 明日・明後日は、起きてから、予報を聞き、空を眺めながら、近間の山歩きに、甘んじなければなるまい。



9/15 益々台風13号が力を増しているようである。その事が影響しているのかどうか分からないが、相手方の体調不良により「山ノ神」の燕岳行きが中止になった。
 今度は、その分、私の山行に気が注がれる事になる。「何処へ行くの?」 まだその行き先が決まっていない。逸れる事を祈っているが、直撃するかもしれないとなれば、2日間も放って行けないだろう。ギリギリまで、台風情報に聞き入る事になる。



9/14 今日は、ちょっと陽が差した。明日も、日中は晴れるという。その後は、雨・雨なのであるが、台風13号如何かもしれない。今年は、我々のところに影響を及ぼした台風は未だない。その調子で、大きく逸れるようであれば、意外な展開になるかもしれない。

 「山ノ神」は、友人と燕岳の予定であるが、やはりどうなるか気を揉んでいる。また、私が泊まるか泊まらないかによって、違った意味での気苦労があるらしい。「晩飯の事なんか、気にしなくても良い!」と言っているのであるが、そうもいかないらしい。わたしの夫としての威厳も、少しは残っているようである。お互い予報や空模様を、何時も以上に、気にしながらの日を、送らなければならないようになる。 p.m.8:25



9/13 雨が続くと憂鬱である。その先の予報が、傘マークばかりであると尚更で、地図を広げるのもイヤになる。7月の「海の日」の連休や、今度の「敬老の日」の連休は、普通人と同じ休日の乗っかるというのに、なかなか思い通りにはならないものである。7月は、雨の中を牛岳と中山になってしまった。今度は? 未だ時間がある。天は味方してくれないだろうか?



9/12 昨晩7時から飲み会があり、珍しく五箇山ICから高速に乗った。トンネルを出ると、凄い雨になったが、高岡に近付くと、その雨は上がってしまった。
 五箇山ICから小矢部東ICまでは、通勤時間帯割引で650円、能越道・福岡料金所で200円の計850円を支払った。いつも思う能越道分400円がなければ、五箇山IC~小矢部JCTまでは、50%OFで450円であり、急がない時でも、利用しようかと思うのであるが、小矢部東料金所(まだ、ETCがあるからいいものの)と福岡料金所がネックとなっている。

 通行量が多くないだけに、人件費や設備費などを考えると、無料化にすれば、多くの方々が利用し、国道の拡幅事業の縮小など、財政的にも効果ををあげるのになどと思うのは、下世話の勘ぐりか? 
 実際、高岡から金沢へ出向く時などは、遠回りで料金を払ってまで行く人は限られていると聞く。能越道分がなければなのである。



9/11 7週間ぶりの「好山病・・」は、いろいろ用事のある中、6名が五箇山・西赤尾・道の駅に集まった。7/24雨の小佐波御前山以来で、「夏休みを終えた?」家族の顔を見たような感じであった。皆元気で良かった。

 今日も、予報はあまりよくなく、行き先の選定に苦慮したが、思い切って、ブナオ峠からの大門山・赤摩木古山・見越山、そして、条件が良ければ、奈良岳までを提案してみた。

 「好山病・・」メンバーは、私(達)を除けば、皆県東部に住み、県西部の山々には馴染みが薄く、屋根があるとはいえ、いつもいつも小佐波御前山では飽きてしまったのか、頷いての参加のように思えた。
 本当は、10月中旬くらいの紅葉時期の頃合いが、良いのであるが、なかなか思うようにならないものである。私自身、4年ぶりのブナオ峠となった。
 久しぶりとはいえ、夏休み中、思う存分の山中生活で鍛えた足は、やはり元気であった。ネコ君の故障中の足でさえ、私より速いのであるから・・・

 霧雨はやがて上がり、ムンムンする山中ではあったが、大門山・赤摩木古山・見越山へ足を進めるに従い、時々は陽が照ったり、気持ちの良い風を伴ったりしてくれた。
 そして、「ナナカマドの多い大門山系は、紅葉が良い。特に赤がいい!」 と、自分の山ではないのに、何故か力説してしまった。
 午前11時過ぎ、見越山に辿り着いてからは、いつもと違い、誰も先に行きたい素振りを見せなかった。久しぶりに、たくさん話を、したかったからかもしれない。



9/10 明日は五箇山。曇りや小雨が、まだ良い方かもしれない。予想外のハプニングなど、起こらなければよい。でも、久しぶりの顔と会えるだけでも嬉しい。 p.m.11:59



9/9 9/11は、せっかくの「好山病・・」定例山行なのに、予報が良くない。7週間ぶりに顔を合わせるのには、ちょっと寂しい。
 私の心は、もう、その次の週に、心が注がれている。「あの山も、この山も・・」 と、次から次へと、思い浮かんで来る山々を、抑えきれない程である。それは、「もう、しんどいのはイヤ。」 を忘れたかのようなものばかりである。

 7月は、雨で大計画を流してしまったが、久しぶりに「山ノ神」と、別行動のチャンスが巡って来たからかもしれない。しかし、テントを担ぐか担がないかとか、歩け通せるかどうかばかりで、本当に山を楽しめるかどうか検討しなければならない。 p.m.11:10



9/8 山中では濡れなかったシュラフやテントであるが、家に戻ってから、物干しで乾かすのが慣例となっている。しかし、今回は、翌日のお昼頃から小雨が降り出し、家中に取り入れて、そのままになっていた。
 ようやく、 今日になって、暑い日差しに恵まれ、テントはカラカラ、シュラフはホカホカになって気持ちが良い。すぐ、また使用するなら、完璧でなくても良いかもしれないが、カビが生えては、気分が悪いじゃない。

 スペースさえあれば、雨具や冬物のジャケットなどは吊しておくのがいい。ダウンなどの冬物のシュラフなども、吊すか広げたままが良い。そして、使用時にコンパクトとするのが、長持ちの秘訣のようである。
 しかし、山用具専用の部屋でもなければ、なかなか、そうとはゆかぬ。最近では、住人が少なくなる傾向にあるから、部屋があるのであるが、便利な部屋となると、なかなか難しいようである。でも、まだまだ山行を続けるなら、一考の余地があるかもしれない。



9/7 充実した山行?から二日過ぎても、その疲れ「だやさ」が抜けず、生活に支障が出ている。ちょっと座れば、すぐ目が瞑れてしまう。帰ってから、連日の諸会合も手伝って、HPの更新もままならず、気が焦ってしまう。
 週1~2日の山行なのであるが、これでは、3~5日を山に費やしていると同じである。そして、疲れの取れた頃に、また山に行く。(可笑しな事をやっている。)

 今回は、右足の外側の甲が痛かった。まるで疲労骨折したかのようであった。まだちょっと足を引き摺っている。左膝、この頃は股関節も可笑しくなって来ている。「黄金の足」 と思っていた頃が懐かしくなる。今は、差し詰め 「ガラスの足」 と言った方が、似合っているかもしれない。
 長い距離・或いは、長い時間を歩く事に限界が来たのかもしれない。沢・岩場などは、もう手が届かぬところとなった。ヤブも足が引っかかると辛い。



9/6 小梨平キャンプサイトに着いてから、余裕のハズであったが、トイレに駆け込んだ「山ノ神」の事もあって、意外に時間を要してしまい河童橋横を通過する頃には、午後4時55分を経過していた。
 「もう一晩泊まるのは御免被りたい。」 の一心で、マイペースで歩いている「山ノ神」を放って、バスターミナルに駆け込んだ。「もう一人来ますから、ちょっと待って下さい。」 と頼んだ。もう少しとは、ファージーと取られては、まずいと思い、「もう1分待って下さい。」 と頼んだ。
 バスターミナルの係員は、意外にサバサバと対応してくれ「山ノ神」の着くのを待ってくれたのである。「それにしても大きい荷物ですね。」 「いや、ゴミなのですよ!」 と応えると、ニコニコして「それはそれは・・・」の返事であった。
 バス中のお客人達は、汗をタラタラ流し、ハーハーの息遣いをしながら、乗り込んできた私達を、変わった人種に受け取っていたに違いない。

 「遊んだ翌日は、尚更、ちゃんと起きて・・」 が「山ノ神」に対する私の口癖であるが、起きて来ても、口数が少なく、どうも様子が可笑しいのである。また、私の失言があったのかと、余計な心配をしてみたが、どうも疲れ果てて、喋るのも辛いようであった。
 「蝶は素晴らしい。また行きたい。今度はゆっくり・・出来たら常念も・・」 などと、あれだけ、はしゃいでいたのに、今日は全くの別人である。私自身も疲労困憊に一語に尽きる。
 これからは、もうちょっと、ゆっくり、大人の遊びとしたい。



9/5 蝶ヶ岳の頂上には届かないかもしれないから、途中で食事をしたり、コーヒータイムを取り入れたりしながら、ゆっくり行こうと言うハズであったが、「12時間の持ち時間の内、6時間で行けるところまで行こう!」 と言うのに変わってしまった。

 徳沢から長塀尾根(長塀山)・蝶ヶ岳頂上・蝶ヶ岳ヒュッテでのビール・蝶槍・横尾への下山と、一つ一つクリアして行く案で、午前4時10分・ライトを点けながら、小梨平出発となった。後々の事を考えると、少しでも早く発ちたかったが、起きても、すぐ出発出来ないのも事実である。夜が明けた徳沢にも、多くにテントが張られていた。ちょっとエネルギー源なるものを口に入れ、長塀尾根に取り付いた。

 長丁場故、「山ノ神」の荷を少なくしたのと、早朝のため涼しかったのが、奏功したのかもしれないが、意外とスムーズな足取りであった。「調子が良いね!」 「いつもより速いよ!」などと、持ち上げに徹した。しかし、決して誉め殺しならないようにも気を付けた。
 ずーっと、樹林帯が続く中でも、徳沢から3時間、小梨平から4時間45分で、長塀山に辿り着いた時点で、「蝶ヶ岳の頂上へ・・」 をクリアーして、ヒュッテでビールが飲めるまでを確信した。
 長塀山から蝶ヶ岳へは、大きくないものの、幾つかのアップダウンがある。  しかし、それを乗り越えて、森林限界に出ると、槍が顔を出した。

 一歩一歩高度を上げる度に、穂高が真ん前に、デーンと聳えて来る。「あれが奥穂、北穂と南岳の間が大キレット」 「あ~っ、槍が隠れる。」 などと、ワーワー言いながら、シャーッターを切り続けた。焼岳や、昨日登った霞沢岳も印象的だったが、「山ノ神」は、未だ登った事のない常念や大天井に執着のようであった。

 擦れ違った登山者に、「今の頂上と、以前の頂上は違う。」のだと聞いた。何でも計り直したら、現在の方が高かったとか・・・
 それを聞いて、歴史もあるのだから、必ずしも頂上が一番高く無くてもいいわけで、そのままにしておけば良いのにと思ってしまった。(それが、本当の話か、どうかは分からない。)

 蝶ヶ岳ヒュッテに駆け込んで、自動販売機で500mlのビールを2本買った。(本物のビール)
飲める時間があるか、どうか微妙な時間であったが、取りあえず飲んだ。生き返ったような感じであった。飲めば時間を費やしてしまうのであるが、勢いが付いて、蝶槍まで出掛けて、横尾へ降りる事にした。山頂に着いて、ビールを飲み終えるまで50分も費やしてしまった。
 でも、大パノラマ眼前に気分は最高!オンタデが既に紅葉していて、砂礫とのコントラスが良かった。横尾への分岐を過ぎてのピークが、蝶槍かと思って記念写真としたが、もう一つ奥にピークがある。GPSで確認してみると正しくそれが蝶槍であった。
 そのピークからの常念岳が間近に素晴らしい。しかし、悠長に腰を落ち着けているわけにはいかなかった。「横尾に降りて、小梨平のテントを撤収し5時の最終バスに乗るんだ。」 と、近くの登山者に喋ったら驚いていた。後5分で正午になる時刻であった。

 しかし、今日の「山ノ神」は快調であった。途中、槍の見所で、2回もカメラを出したりしながら、横尾まで2時間を切ったのである。そして、横尾山荘の自動販売機に走り寄った。何を買ったかは、言わずともわかるというもの。
 横尾から11キロの林道歩きを見事こなし、小梨平キャンプサイトに着いたのは、午後4時23分であった。余裕と思っていたのが仇となり、最後は、最終バスに「待った!」をかける事になってしまった。アカンダナ駐車場でバスを降り、マイカーに乗るまでの二人の足は上がらなかった。



9/4 昔は松本から電車で島々へ。そこから徳本峠越えで、上高地へ入ったそうである。島々から、歩けないにしても、昔の佇まいが残っている徳本峠を訪れたいと思っていた。そして、その西の先に、二百名山でもある霞沢岳がある。人気の槍や穂高から、ちょっと隔離されたような位置にあるだけに、訪れる人も少ない。
 その霞沢岳は、焼岳に登った時から、デーンと構えている存在が気になっていて、是非とも登りたいと、今年の目標の一つにしていた。

 そんな日がやって来た。雨が続いて、登山道がぬかるむのを避けるためにも、直前の3~4日は、晴れていて欲しかったのである。
 上高地に入るバスが、秋ダイヤになり、平日は、平湯の始発が午前6時半、上高地発の最終が午後5時である。日帰りするには、私の膝の状態からして、ちょっと心持たない。この機会に、徳本峠でテントを張り、ゆっくり一座を楽しむハズであった。

 しかし、日程が、いや、時間が迫るにつれ、悪い虫が動き始めた。「せっかくなのだから、もう一座、何とかならないか?」 となってしまったのである。その矛先は、「蝶ヶ岳」になったのであるが、バス時間、キャンプ地、私達の足に、最後まで調整がつかず、不安を抱えたままの出発となった。

 早めに出掛け、タクシーに乗れれば、徳沢でテントを張り、その日の内に、蝶ヶ岳を登ろうと思っていたのであるが、しかし、タクシーは見当たらず、電話を掛けても空しい呼び出し音だけであった。
 仕方なく、その計画を諦め、小梨平にテントを張り、私だけが霞沢岳に向かう事になった。管理事務所で、申し込みをし、テントを張り、後の整理は「山ノ神」に任せ、出発したのは午前7時45分であった。

 前半は、あまり汗も掻かないほど、順調に足が運び、1時間40分くらいで、徳本小屋に着く事が出来た。「古びた汚い小屋」 と感じるか、「昔風情が残るシックな小屋」 に映るかは、その人の感性と言うしかないであろう。
 徳本峠は、私の想像通りの所であった。「ひっそりとした、この場所で、テントもいいな~。」 「また来る機会はあるだろうか?」

 「スタジオジャンクション」「ジャンクションピーク」 の標識以外、何もない霞沢岳への登山道は、樹林帯の中を行くものの、なかなか雰囲気のいいものであった。
 K1・K2のピークの呼称は、誰が付けたのか知らないが、そのような標識は全くなかった。霞沢の頭文字「K」を、取ったものなのだろうが、拝見したHPでは、ふんだんに、その名が使われていた。

 私が展望に恵まれたのは、帝国ホテルを見下ろせたその辺までで、後は北側の展望を見る事が出来なかった。
 あれほど順調であった足が、5時間を過ぎた頃から、何だか可笑しくなって来た。
 登って下っての繰り返しをして、立ったピークが最後かと思ったら、その先、それも遠くに、未だ二つのピークが見えた。
 時計を見ると、午後1時13分であった。「あそこまで、行く元気は、もう既にない。もし、行けたとしても、徳本峠に戻る前に、真っ暗になってしまう。」 といっぺんに腰が砕けてしまった。

 しかし、GPSを取り出して確認すると、何と私の立っている所が、「霞沢岳山頂であった。」 何が書いてあるか分からない朽ちた標柱と、これも三角点か境界の石柱か、分からないものだけがある狭い山頂であった。
 腰を降ろそうとしたした途端に、両足が攣ってしまい転げ回った。
 今朝、小梨平を発つ時、「山ノ神」が、冷凍されたビールを一本、リックの中に入れてくれたが、喉がカラカラであったが、とても飲む気になれなかった。疲れ・水分不足などが起因していると思われる痙攣に、ビールは禁物のように思えた。もしもの事を考え、小さなおにぎりと水の補給だけにした。

 誰もいない山頂で、三脚を立て記念写真(証拠写真)だけを撮って、僅か20分で山頂を去った。しかし、歳を取るとは悲しいものである。数分もしないうちに、両足が攣り、またもノタウチ回ってしまった。予測をしない角度に足を付くと、具合が悪くなるらしく、急斜面の降下には、一歩一歩慎重に足を出して降りた。

 それからは、慣れたからであろうか、普段に近い状態に戻り、「暗さへ・・」 との勝負になった。
 ジャンクションピークに戻ったのは、午後4時を10分くらい回っていた。まだこの先2時間半程の道程があるだけに、ちょっと腰掛けて、少しだけ冷たさが残っているビールに手を付けた。
 もう殆ど登りはないのと、気分を癒したかったからであるが、意外な伏兵がいた。小さな虫が纏わり付き、それを払おうとした時、缶を倒してしまったのである。「たくさん飲まなくて良かったのだ!」 と言い聞かせ、徳本峠への分岐には、5時前に辿り付く事が出来た。
 「山ノ神」が、「徳本峠まで来るかもしれない。」 と言っていたし、また、「どんなに遅くとも、5時まで徳本峠まで戻る。」 と言っていた手前、小屋まで行こうかと思ったけれど、その10分がもったいなくて、先を急いだ。6時過ぎに明神館に着き、小梨平まで、もう少しだと思ったが、なかなか着かず、とうとう真っ暗になってしまった。

 暗い中、夕食の準備をしていた「山ノ神」に、「取りあえずビール。」 と言ってしまった。着替えもぜず、食べ物にむしゃぶりついた。一段落した時に、お酒を減らして持ち込んだワインの栓が、キャップではなく、コルクであった。それを外す術を知らず、あえなくアルコール打ち切りになってしまった。
 お店が、全部閉まってしまった後から気付いたため、寂しい思いになって、山仲間達に、「コルクがとれない。」のメールを打ってしまった。



9/3 皆それぞれに、昨日から、或いは今日から出掛けられた方もあり、また、私のように、明日から出掛ける者もある。昨日も今日も、一時的に降雨があったかもしれないが、お天気は良かったようである。明日も良いようであるが、明後日以降は、台風12号の進路如何のようである。

 「山ノ神」と和解となったのであるが、正確なルートは未だ定かでない。これも明日の天候と、平湯発如何にかかるようである。「ゆっくり」になるか「慌ただしく」なるかも上高地で決定となる。どちらにしても、格好だけは重荷になるハズ。 p.m.8:30




9/2 第2週の「好山病・・」定例山行の事で、それとなく「北ちゃん」にお伺いを立ててみた。お母様の体調は、順調に回復されているが、「いつどうなるかわからないし、長い時間家を空けて奥様一人に任せるのは、家人として忍びがたいから、私の事を構わずに、会の行事を進めて欲しい。」 という返事を頂いた。

 それは、人として当たり前の事であり、お母様が、もっともっと回復され、何事にも支障がなくなってから、参加されるのを心待ちにしたい。元気であっても、直前に具合が悪くなったり、出掛けている間に、具合が悪くなられる時もあるものである。充分過ぎるくらいに看病・介護をしても、後々はし過ぎたとは決して思わないであろう。

 私(達)は、もう既に4人の親を亡くしてしまっているのであるが、もう少し、あ~すれば良かったなどと、今でも思い出してしまう。また、介護・看病していた当時は、看病・介護をしたくても、身体が悪かったり、遠方にいたり、時間がなかったりして、出来ない方もいるのであるから、その方々と比べれば、手元に置ける我々は幸せなのであると言い聞かせてきた。

 でも、きれい事ばかりでは、長い期間看病・介護は出来ないもので、日頃苦労しておられる奥様に、ちょっとの時間を作ってあげて、散歩やドライブに、また食事に連れ出してあげて欲しいと思っています。それは、我々が、行く山よりどれだけ価があるか分かりません。



9/1 今夏に、また2本の歯を失った。残っているのは23本であるが、まとも(無傷)なのは、14本となり、歯科医が言ってくれる「80歳20本」には、程遠いものになりそうだ。もっとも、それまで生きていられる保障もないが、歯がなくなると、だんだん力が無くなっていくような感じになる。今度の定例山行(9/11)で久しぶり(1~2ヶ月ぶり)に会う仲間達に、「爺(じい)になったね。」と言われそうである。

 「歳を感じる。」と「まだまだ・・」が交差しながら、否応なしに月日は流れていく。歳を取ると、日の経つのが、早く感じると皆口々に言う。40歳の一年は1/40、50歳の一年は1/50、60歳の一年は1/60であるから、その一年が、短く感じるのは、数学的にも頷けるというもの。差し当たり、その値は、年齢に反比例すると言えばいいのかもしれない。
 また、同じ道を改めて行くと、以前より早く感じるのも、経験則が働くからかもしれない。即ち、若い人から見れば、何事も物事を承知しているわけで、飲み込みが早いと言うことであろうか!(いや、経験済みの方が良いのかもしれない。)

 そんな中で、慰めてもらい、励ましてもらい、「若いね!」と呼ばれる言葉を、待っているのかもしれない。そうなると、お世辞でも有り難い事である。
 前回の大猫山に関する後遺症があり、未だ「山ノ神」との修復がなされていない。今度の計画は、テントを担いでの山行となるため、今晩中に和解しないと、同行はなくなる。そうなると、また一週間暗黒の日々が続いてしまう。