11/30 週末から雪の予報であるが、中途半端な雪はあまり好きでない。大雪も困るのであるが、衣服や靴を汚さない程度の積雪が欲しいところである。それでも、降り始めは、登山道を歩くにしても、木々が倒れて厄介であり、雪量が少なくて何処でも歩くと言うわけにもいかない。もう一つ、見逃してはならぬのは、日が短いという事であろう。

 この時期になると、多くの山仲間の顔が思い浮び、無性に恋しくなる。"今年も会えるだろうか?" "今年も来てくれるだろうか?" と、「同窓会的山行」を独り善がりに思うのであるが、その集いは、とかく、セレモニーになってしまい、あまりゆっくりと話す事が出来ないのである。
その点、昨年の寒波に見舞われ尖山は、少人数であったけれど、山の雰囲気を大いに楽しめた感があった。さて、今年は、ちょっと変わった所を、会場にしてみてもいいのではと思うのは、「飲めない分を歩きに回せ!」 からである。まだ時間があるから、もう少し考えてみたい。 p.m.10:35



11/29 またまたPCがダウン! 寂しい一日を送ってしまった。何もかもを、PCに依存しているわけでもないが、私の日常生活がマヒする事だけは確かである。その様子を見るに付け、「山ノ神」は、「寂しいだろう!」 と私をからかうのである。

 そんな折、ステキな「山の本」のプレゼントが届いた。今年、たった一度の山行機会を得、その後、3度のお便りを交換しただけであるが、何故か気になる方であった。人生経験が長く、しかも気品が高く、優しく私には映っていたからである。

 少し、持ち上げられた事もあり、早速、お返事をと思ったのであるが、PCが動かず、仕方なく何年ぶりかで、ペンを執った。便利さはPCには適わないが、何故か人の匂いがする。時には良いものだと思った。しかし、私の踊ったような文字は、如何様にとられるのかと思うと、脇から冷や汗が流れた。
 その本を食い入って読み、返事を書いていたら、PCの前に座っているより、時が流れた。昔の私に、ちょっとだけ、戻ったような気がした。



11/28 金剛堂山には、前・中・奥の3つのピークがある。三角点のある前金剛が、頂上と認められているが、もうちょっと、南にある1650mの最高地のピークが奥金剛であり、その中間の歌碑があるちょっと低い所が、中金剛だとばかり思っていた。

 しかし、私が奥金剛と思っていた所に、新たに「中金剛1650m」 の山名板が取り付けてあり、1616m標高点に、「奥金剛・利賀川水源地標」 の標柱が立っていた。そう思い込んでいた私は、皆に対して、何だかバツが悪かった。

 今日、分権登山ガイド・「富山県の山」を見てみると、ほぼその通りであった。16回も金剛堂山に登っているのに、いっぺんに何もかも自信がなくなってきた。
 しかし、その先に発行されている「とやま山あるき」を覗いてみて、私の言っていた事も、満更でもない事に気が付いた。橋本廣氏の書である。やはり中金剛は、歌碑の所であり、奥金剛は、その南のピークであると記されている。

 橋本廣氏も佐伯郁夫氏も、その道の著名人であり、いろいろ調べて記される事と思うし、いい加減な事もないであろう。唯・利賀川水源地標なるものは、結構新しいものに見受けたが、私は、そこまで足を運ばせていなかった事になる。もっとも、東俣~栃谷間を歩いて、しかも周遊となると、私は初めての経験であった。 p.m.11:50



11/27 雨でも必ず行くと、待っててくれた仲間がいた。しびれを切らしたeiko女史のメールで、ようやく仲間に連絡をしたが、高確率の雨予報に、誘うこちらが引いていたからである。「一週間前から雨具を用意して待ってます。」 の 「北ちゃん」の心強いメッセージを拠り所に、山行日前夜まで、雨の状況を見守りたかった。「雨でも行くのですか?」 の橋ちゃんに、「来てくれると嬉しいです。」 と返事してしまった。

 当初より、30分集合時刻を延ばしたが、雨降る中を利賀に車を走らせた。PCの雲の動きで、午前7時頃には、「雲が何処かへ飛んじゃう!」 を、ちょっぴり信じていたのに、それどころかで、皆に悪い事をしたかな? と思ってしまった。
 しかし、集合した頃には、雨は上がった。天候の悪化や体調不良の場合は、山頂で引き返すかもの条件を付けたが、ぬかるみも何のそので、奥金剛から東俣に抜けて、林道歩き2時間も入れた、正しく「金剛堂山周遊コース」である。

 時間の都合や、快適な場所が見当たらず、登山口に出てからの昼食には、「何で重荷を背負って来たのか?」 と、誰ともなく笑いが出てしまった。
 また、その林道入口でのタープを利用した山小屋設営?には、それなりの趣があったものの、何かの集団と間違われそうな雰囲気があった。
 長い林道は、山の話をしながら歩くつもりの設定であったが、最後の最後に、我慢をしていてくれた雨が降り出してしまった。
 しかし、今日の山中8時間半は、雨予報の中を、初冬の足慣らしとしては、充分満足出来るものであった。



11/26 山だけに限って述べると、日本百・二百・三百名山や標高ベスト100山、そして北陸の百山、越中の百山も、私にはハードルが高く、完踏など夢の夢である。
 でも、目標があると楽しい。人生いろいろな事で挫折しそうになるが、心の支えになる事もある。そして、それは、自己満足の世界であるが、一つ一つの積み重ねで、誰に蹴飛ばされる事もない。

 しかし、「何が何でも・・」 になると、いろいろなところで摩擦が起き、評価も落ちてしまう。やはり何事も余裕というものがないと、行き詰まりになったり、貧してしまうのかもしれない。
 唯、思い付きを述べる私などは、無責任きわわりないが、意外と真実のように思えるのである。

 名山完踏がダメなら、また新たな目標を作ればいい。同じ山に何十回、夫婦で云々、年間何回など探せば切りがない。そして、「一緒にやろう!」とか、時には、「凄いね!」などと、煽ててくれるような理解者を求めておかないと、なかなか長続きしない。

 そんな私も、新たな目標を密かに温めている。それは、たわいない事であったも、もしかしたら、羨ましがられる事になるかもしれない。 p.m.10:30



11/25 未だ連絡がないが、真っ黒ネコ君のHPによると、岩城君と瘤杉山に登ったようである。今では、もう黒部の山は、彼らのホームグランドと言ってもいいのかもしれない。次から次へと思うがままに新たな山を登って行く様を見て、小さな嫉妬も生まれない。託すなどと傲慢な意味はないが、山と共に目標とされる人になって欲しいと思う。



11/24 人は、どれだけ威張っていても、一人では生きていけない。賛同を求めたり、自分の思いを肯定して欲しいものである。逆に否定され、耳も貸してもらえなかったりすると、それは寂しいものである。

 単独行なるものも、所詮他の人々からの褒め言葉を含め評価してもらっているから、またやる気が起きるのであろう。「偉い顔」をしなくても、それなりになのであるが、凡人は、どうしても、「俺が・・私が・・」になってします。

 そして、「ちゃ~んと、人は見ているものである。」 この歳になって、ようやく、私も、それらしい事が、分かってきたかに思えるが、忘れるのであろうか? それとも、まだまだ修行が足りないのであろうか? その域に達しない!

 

11/23 大猫山に何回も登ったように思っていたが、今年は5回で、通算では19回であった。今年中に、切りの良い20回とするには、ちょっと無理のようである。その点からも、11/13(人形山行き)は、もったいなかった。

 その大猫山の「頂上は何処か?」 「あのペナントが付いている所か?」 とよく尋ねられる事がある。過日も述べたように、頂上と一番高い所、そして三角点が、イコールでないようである。

 大猫山頂上の経緯は分からないが、推測するに、大猫山に登山道を付けられた「ブナクラ修復グループ」 の方々が、そこを頂上としたか、1,996年12月に発行された「とやま山紀行」に、寄稿された富山勤労者山岳会の諸氏(宮崎・富樫・河島氏)が、認めたからであろうと思っている。

 「越中の百山」は、三角点を頂上としているようである。その三角点は、現在頂上とされているより西(鬼場倉ノ頭側)にある。頂上に向かう場合は、5分ほど前に、右折する感じであるが、そこを、少しまっすぐ水たまりに沿って歩き、左側に行く感じである。
 しかし、どちらにしても、言葉遣いが、時代と共に、変わっていくように、多くの人達が認めた所が、頂上となっていくのではなかろうか?。 p.m.11:50



11/22 またまた、PCの不都合で、寂しい夜を送ってしまった。でも執念?で回復!

 近江遠征から戻って、「あの滝、行けたかもしれないね。」 と「山ノ神」の弁。事前に調べておけば良いものを、いつも帰ってから、ガイドブックを見たり、他のHPで調べたりするのである。
 危険とか迷う、また急登などの語句が記載されていると、もうダメで、私の意見など、上の空になってしまう。そして、「来なければ!」 「行かなければ!」 などと、言えば、もうお終いである。

 遠征は、基本的には、「山旅」故、一般的で比較的楽なルートを選定するから、さほど問題ないのであるが、「山ノ神」にしてみれば、そんな事はどうでもよく、ルンルンの遠くに行けるだけの感じ(喜び)であるらしい。

 他の人から見れば、比較的長~い山歴になるはずであるが、「キャー・ワーッ」が多すぎる。しかし、どんな事で、私の方が先に、思うような動きをする事が出来なくなるかわからない。ちょっとの事は、我慢するしかないのであろう。



11/21 蓬莱山から降りて車に戻ったのが、午後3時前であった。比叡山の登山口を見付けるのと、その坂本の街並みに興味があったので、湖西道路に乗った。日吉大社ばかりが目立ち、なかなかそれらしき所を見出す事が出来なかった。そして、比叡山鉄道駅付近を模索し、何人かに聞いてみたが、あまり、はっきりした答えを出してもらえなかった。

 トレーニングをしていた高校生に教えてもらった所が、GPSのポイントを打ち込んでいたので、現在カシミール地図で、見比べていると、概要が分かってきた。何時か機会があったら、坂本から歩いて比叡山に登ってみたい。何と言っても、比叡山は歴史がある。それは、標高をも超えそうである。

 初めて行った、大津市坂本地区、私はいっぺんに好きになってしまった。本来・名山巡りは、その土地の名所・旧跡などを訪ねる絶好の機会なのであるが、私は、「山・やま・ヤマ」 と言って、その主旨から逸脱している。
 私は、大の三成ファンである。その事もあり、再び、近江の地に、足を運ぶ事はないであろうか? 山に登らずして、来るはずがないか? 
 また、昨日は、我々の結婚記念日であった。琵琶湖畔のホテルに宿を取ったが、こんな事は、もしかしたら、初めの最後かもしれない。 p.m.9:55



11/20 武奈ヶ岳も蓬莱山も、標高1200m前後の山。富山におれば特別驚くような高さでもない。ましてや、蓬莱山は、山頂までリフトが来ているのであるから、山登る者として、差程魅力はない。200名山・300名山に名を連ねているだけではなく、それなりに歴史を感じ、必ずしも最長コースではないが、麓から登ってみたかった。
 161号線・蓬莱駅前交差点を右折し、狭い住宅地の間を抜け、斜度の強い道を行く。堰堤行き止まりには、何の標識もなく(ちょっと歩けば標識があった。)、戸惑ったが、そこはGPSで、登山口である事が分かった。

昨日程でないにしても、雨具着用である。薬師滝を見てから、3度沢を渡る。小女郎峠への最後の登りは、結構辛く「山ノ神」が足を攣らしてしまった。小女郎池まで足を延ばしてから、蓬莱山山頂までは、アップダウンも少なく快適な登山道である。
 しかし、今日も、ガスの中の登高で、琵琶湖の展望もあったものではない。リフトの終点が山頂で、予想よりも、あっけない山頂であったが三角点を探した。方位盤や鐘の搭はあるものの三角点は、なかなか見当たらなかった。

 取りあえず、記念の写真を撮ってから、ちょっと下にあった「山ノ神社」の中で休息をする。軽い食事をして、今一度、山頂周辺を見渡すと、何とスキー用ネットの横に、立派な一等三角点があった。先程、その横を通っているのではないか?

 小女郎峠付近にあった遭難碑には 「夏雲に 友の姿を 思ひ出す やさしき笑顔の 君を忘れじ」



11/19 雨の影響を受けてか、日曜と言えども、武奈ヶ岳の山頂は我々だけであった。自分を取り戻すのも、ちょっとした病を治すのも「山の空気」が一番である。突然の腰痛は、ハンドルを握り、山の頂に、心が奪われた頃には、何処かへ吹き飛んでしまっていた。

 「元さん、武奈ヶ岳へは、ガリバー村からだよ! 紅葉が良いし、何と言っても、滝が素晴らしい・・」 唯、簡単に武奈ヶ岳の頂を踏めば良いくらいの感じで立てた計画を、福井の宮ちゃんからのアドバイスで、心がその方向に傾いてしまった。

 400円の駐車料金に、ありゃりゃと思ったが、ガリバー村は、公園のように整備されていた。「滝コースを回避!」を主張していた「山ノ神」が、突然魚止の滝・障子の滝コースに足を入れた。
 初心者はダメの標識に驚かず、「コースが設定されているからには、何とか行けるものだ!」 と、何処かで聞いたような台詞を吐いて、さっさと降りて行く。

 河原に出てからは、いつでなく鎖にしがみつきながら、思いの外、元気に大きな岩を登って行った。魚止めの滝を過ぎ、障子の滝を眺めながら、これでは登れないとギブアップ。
 出発時から雨具を着用しなければならない程の雨模様もあって、岩には苔も着いており、滑りやすくなっていた。
 安全が大事からして、我々はルート変更を余儀される事となる。見通しの良い樹林帯を抜け、障子の滝から連なっている踏跡を眺めながら、行かないで良かったは「山ノ神」の弁。

 大摺鉢で、私は誤りを冒してしまったのである。沢を渡って広谷へ行く予定であったのに、「山ノ神」が、「とても渡れないし、×印がしてある。」 と言うのを鵜呑みにしてしまったのであった。
 小摺鉢経由で、貴船ノ滝への標識しかなく、「七編返しの滝方面は滑りやすい岩場、鎖場があり初心者向きではありません。」 の警告板まであるが、このままでは、退却しかなく、取りあえず、雨中を先に進む事になる。しかし、貴船ノ滝を見るなり、「山ノ神」は、「私は絶対渡れない。引き返す。」 と言うのである。

 確かに、右岸から左岸に渡るには、沢に渡してある鎖に繋がって行かなければならず、その上には、直角に鉄梯子がかかっている。「行けば何とかなるよ!」 と言っても、ここまで食い下がられては仕方なく退却とした。 滝壺には滝撮影のために、3人のスタッフがいたが、挨拶も交わせなかった。(貴船ノ滝は、滝200選)

 退却途中、小摺鉢から、新たなルートが見当たらないかと左岸に渡ったが、最終的には同じ所に出てしまった。そんな折、20人くらいの軽装パーティーがやって来た。「この山域は初めてなのですが、山頂に行くルートは他にないですかね。地図上にはあるのですが・・」 と、私は恥を忍んで、リーダーらしき人に尋ねた。答えは、「これ以外にない。我々も、武奈ヶ岳の頂上に行く。良かったら一緒に来ませんか?」 と言って下さったが、「山ノ神」は、首を立てに振らなかった。

 再び退却となったが、大摺鉢で、対岸に渡れないかと模索すると、意外と簡単に渡れ、広谷への標識があった。「山ノ神」の見た×の標識は*であったのである。結局滝周辺で2時間くらい費やしてしまった感じであった。
 簡単に思っていたのが、いつの間にか身体も冷やし、10時半の再出発となったのである。高度を上げるにつれ、「○○さんあなたを探しています。手を振って下さい。」 とヘリが旋回していた。旋回と言えども、全く機種が見えず、ヘリの音と、拡声器らしい声だけが聞こえていた。しかし、ガスが濃くなるにつれ、その音も消えていった。

 広谷に着いたのは、正午頃、何とか午後1時までには、登頂が果たせそうと希望が見えてきた。樹林帯を抜け、山頂に達するまでの尾根道は、帽子もリックカバーも飛ばされそうな強い雨風であった。やって来たからには、休息はともかく、記念写真だけでも撮らなくてはなるまい。菓子パンを口に頬張り、水を飲んで早々に退散となる。後は、雨が強くならない事を願うだけ。誰にも会わなかった。あの20人パーティーは、あの滝で撤退したのだろうか? 我々のルートさえ、分からなかったパーティーである。



11/18 今朝起きた時から、どうしたのか分からないが、腰の調子が可笑しい。「中腰が出来ない。」の表現で、お察し出来ると思われるが、困った事になった。明日未明から滋賀遠征の予定で、歩きだけでなく、運転も付いて回る。助手席に座っていても辛い事が予想される。

 60歳に近付くに連れて、身体のあちこちが可笑しくなる。「その歳になると、交換するパーツがありませんよ!」 と日頃から言われているのであるが、好きでそうなっているのではない。唯でさえ、気が弱いのに、これでは、この先が思いやられる感じだ。
 だましだましで、この先を生き延びて行かなければならないが、美貌?は、その域でないにしても、頭の退化も気になるところである。
 「這ってでも、山に登る。」 と言い続けているが、その事自体を忘れてしまう日が来るのであろうか・・・・

 「元さん、この頃、弱気だね!」 に対して、「俺は元気だ。凄いんだ!」 などと、力んでいるより、その方が何となく、「歳に似合った表現でしょうが・・角も立たないのでは・・」 などと逃げている。 p.m.1:20



11/17 今、一人、気になっている方がある。「ガンさん」 という県西部にお住まいの方であるが、未だお会いした事もない。職種からして、私、或いは、我々の山行に合わせやすいという事で、一度だけ、牛岳(3/13)にお誘いした事があったが、やはり時間の都合で実現せず、ならばと、下山時の駐車場での待ち合わせも、時間切れで果たせなかったのであった。

 その後一度だけ、ご機嫌伺いのメールを出した事があったが、時間の余裕のある秋以降との返事があった。しかし、山賊のような山行を繰り返している私(我々)に、恐れをなされたかもしれないし、お仕事や家庭の都合など、幾つものハードルを越さなければ、なかなか思うようにならないものである。
 長~い行程・そして、ランチタイムが特徴の「好山病・・」、ちょっとやそっとで、お付き合いは出来ないかもしれないね。でも、何となく、愛称が私と似ているだけに気になるのである。



11/16 会合から戻ってPCのスイッチを入れたが立ち上がらない。唯さえ不調なのに、強制終了の連続を試みるのであるからPCに負担が及ぶのは間違いない。その苛立ちを何処にぶつければいいのか?
 そんな事もあり、メールの返信も遅れがち。それだけなら良いのであるが、返事を出したのか、どうか忘れるようになる。「嗚呼・・・・」歳は取りたくない。



11/15 今度の日・月は、滋賀に行く事になっている。候補は武奈ヶ岳と蓬莱山なのであるが、先週末から、バタバタしていた事もあり、何処から、どのような方法で登ろうか、未だ何にも決めていない。

 今回は、いつもと違い、琵琶湖畔に宿が確保されており、お天気が悪くても出掛ける事になる。山を諦めて観光にならないためにも、頂きに立ちたい私は、比叡山や愛宕山も、頭の中に入れておきたい。



11/14 この頃、山仲間から届くメールの内容が何故か優しい。「いつもより同行機会を失っているからであろうか?」 それとも、「知らず知らずのうちに、年寄り臭く感じ取られているからであろうか?」 
 いつかは、そうなると思いながらも、出来ていない(修行の足りない)人間は、寂しさを隠しきれない。自分なりの山行スタイルの確立などと言うのも、何処か、逃げの言葉合わせのようなものかもしれない。一日でも、一回でもの気持ちで感謝し、その延長線が、一年・二年になればいいと思っていても・・・・

 そんな折、「一年ほど前から単独で山登りを始めたのだが、一緒に行ける仲間が欲しくなった・・」 と37歳の男性からメールを頂いたが、「私は歳を取り過ぎています。」 と返事をしてしまった。何かの縁なのであるが、これも、自信がなくなってきた証拠なのかもしれない。 p.m.7:30



11/13 行き先を決めないまま、午前1時頃に寝た。4時に起きてHPの更新を終え、空を見上げると満天の星が輝いている。「大猫山に行きたくなった。」 その事を「山ノ神」に伝えても、返事もないし、なかなか起きて来なかった。
 ようやく家を出たのが6時であった。8号線を走ると、山が真っ白であった。上市町周辺になると、雪が低い所まで降りて来ているのが、尚更のようにわかった。

 伊折橋で定番の剱岳を撮ろうと思って、車から降りようとしたら、もう少しで転倒しそうになるくらいに凍結していた。剱センター前までやって来ると、タイヤ交換をしたというものの、今シーズン初めての雪道の運転であろうか、何だか不安が付きまとった。
 周りの山も真っ白であり、「山ノ神」と二人の力量では、大猫山も拒むかもしれないと思い、この時点でUターンを決意した。

 そして、eiko女史と、きくちゃんが行っているかもしれない人形山に向かった。県東部の山と県西部の山とでは、雪の着き具合が違っていた。山の角度や日の当たり具合によって、そのように見受けられるのかもしれないが、ホットした反面、寂しさを感じてしまった。
 やはり人形山登山口は、積雪と言う程の雪量ではなかった。林道工事の重機を、下に降ろす準備が進んでいたが、eiko女史の車が見当たらなかった。(他に一台駐車されていた。)

 午前10時発で、午後3時半過ぎまで下山し、来高する姉夫婦を、迎えなければならない思いがあった。どう考えても、「山ノ神」が好むビールなど、楽しんでいる時間はないのであるが、大猫山に準備した物をそのまま担いだ。宮屋敷跡で稜線を歩く人影を見付けた。誰であろうかという興味も手伝って、その稜線(三ヶ辻山との分岐)で、止めると言っていた「山ノ神」の足をも山頂へ運ばせた。

 その山頂の人達は、美味しい物を食べて、下山への支度をしていた 「eiko女史ときくちゃん」、そして、彼女らをエスコートしていたO氏であった。今日は別パーティー故、彼女らを見送ってからの下山となったが、最後は、ちょっぴり私達の方が早く登山口に着いた。人形山の積雪は最深40cm位であったろうか。

  

11/12 未だ明日の行き先は決まっていない。高岡の明日の最低気温は5度と表示され、何処へ行くにしても、峠越えがあるから、そのリスクを回避するためにもタイヤ交換をした。そして、来年のGW前後までであるから、おおよそ半年の間、スタッドレスのお世話になる。

 今日はどうしたことか、「山ノ神」が、タイヤ交換の手伝いをしてくれた。少しは捗って、最後に点検をしたら、どうも、一本のタイヤが可笑しい。外したハズの夏タイヤを、左前にまた装着していたのである。暗いとはいえ、持ってきた「山ノ神」、取り付けた私とも、いよいよ危なくなって来ている(要注意!)感じである。



11/11 ムコさんは、よく食べるしよく飲む。あの痩せた身体から想像もつかなかった。それとも、私に付き合うために、訓練を積み重ねてきたのであろうか? そして、気になるのは、娘に虐げられている事である。
 今からあれでは、私の年齢の頃には、どうなるのであろうかと、思わずにはいられない。でも、そんな事は、どうでもいい。私達の事はさておいて、仲良くやっていってくれれば、それでいい。

 2日間も飲む過ぎ食べ過ぎでは、身体にいいわけがない。明後日は、何としても歩かなくちゃ・・・長く歩きたかったら、朝早く出掛けなければならない。雪も気にしなければならない時期になってきた。



11/10 埼玉の姉夫婦の前に、娘夫婦がやって来た。「いきなり、称名の紅葉はどうか?」 と尋ねる。「行ってないけど、ちょっと遅いんじゃないの?」 と返すと、「山ノ神」から、馬場島行きを勧められていた。
 私からみると、すぐ帰って来たように思えたが、何を感じ取って来たのであろうか? まだ街中歩きをするより、良いのかもしれないが・・・・

 第3週は、遠征(遠出)、第4週は、夜にまた忘年会が控えていて、「好山病・・」の諸氏との同行が難しくなっている。こんな時に、日頃、ご一緒出来ない方を誘えば良いのかもしれないが、行き先が前日でないと決まらない事や、お天気が悪いのには、申し訳なくて誘えない。
 それでなくとも、「元さんと歩くようになってから、一年中、雨具を着る羽目になった。」 と言われ続けているのであるから・・・ p.m.7:05



11/9 一雨毎に気温が低下する今日この頃であるけれど、昨日に続き快晴である。明日から曇りに傘もついたマークがずらりと並んでいる。

 さて、「何処へ行こうかなぁ~。」 主力は鍬崎山を目指すと血気盛ん。しかし、我が家に埼玉の姉夫婦がやって来るという。「月曜日はダメ。」 と日頃から言ってあるのだが、どうしても、「その日でないと!」 と言うから仕方がない。こちらは、「山に行かなくては死んじゃう!」と言って、来訪は夕方以降にお願いした。

 大人数の鍬崎山では、とても予定時刻に帰れないと判断し、別行動のつもりである。五箇山方面が有力であるが、一人ならば、大猫山に行きたい。雨ならホームグランドの牛岳になるかもしれない。



11/8 丹沢は都会に近く、宿泊設備が整い、いつも多くの登山者で賑わっている山の印象があった。そして、こちらが、雪で高所に行きにくくなった頃に、ちょちょいと、行って来れば良いくらいの認識しかもっていなかった。

 計画を進めるにつれ、奥深く、数多くのルートがあり、小屋がたくさんある事に気が付いた。そして、私のように北側から入るのは結構交通事情が悪いように思えていた。
 意外だったのは、朽ちた小屋が幾つもあった事だ。また私の登った表尾根ルート(何処までが、表尾根なのかわからないが・・)には、搭ノ岳・丹沢山・蛭ヶ岳のピークにある小屋だけが営業していた。(土日だけ営業する小屋もあるらしい。)

 その小屋も北アの各小屋からみれば、可愛らしいものである。設備的にも雲泥の差を感じた。
 しかし、各ピークに、各人の思いがあるように、小屋の雰囲気や、その中で働く人達との心のふれあいが、颯爽とした都会から脱出した人達の癒しの空間になっているような気がした。

 搭ノ岳~丹沢山~蛭ヶ岳の往復とも、唯、強風だけが吹き荒れて、展望的には皆無であったが、ヤツビ峠~搭ノ岳間の往路は、それとなく展望が楽しめ、復路は富士山を眺めながら、快適な山歩きを楽しむ事が出来た。

 日頃は、北アから、微かに見えるか見えないかと、歓声を上げている富士山であるが、太平洋側の人々は、いつも当たり前のように眺めているのかもしれないが、私達からみれば、それはそれは眩しく、眼下に広がる街並みも、また何か違った雰囲気を醸し出しているような感があった。




11/7 昨夜の宴会中、強風の中にも、時々神奈川相模湾沿い(街の名がわからない。)の夜景が見られた。しかし、夜中は、雨を伴った台風並の風に、何度も目が覚めた。そして、また、「昨夕の我々の行動は、3000級の山では、確実に遭難だったな~ぁ。」 と反省をした。

 出発前に、最近出来たという標識の前で記念写真を撮った。由利香女史を綺麗に撮ろうと思うが、ガスや風に邪魔されてなかなか上手くはいかなかった。「愉快な仲間達」に載せる事が、今回の山行目的ではなかったが、不評を言われたら困るな~。

 管理人の梶原さんは、隔週に登って来る方のようだが、山は全くの素人と言っておられた。しかし、5年も山に入っていると、いろいろな人生ドラマをみてしまうとも言っておられた。山は実に良い所、そして、搭ノ岳や丹沢山より奥に位置する蛭ヶ岳に、それなりの思いで登って来る人と出会いは、「自分の人生観も変わってしまった。」 と言っておられた。

 また来る機会などあるのかと思いながら、またまた雨具を纏いながら、強風下の帰路に着いた。身を屈めたり、鎖や木々に、しがみついたりしなければ、吹き飛ばされそうになる事もしばしばであった。一等三角点のある丹沢山では、明日また通るから(来るから)と写真を疎かにした事が祟り、ここでも必ずしも上手く撮影は出来なかった。しかし、どんなにブレていようが、ガスで霞んでみえようが、私の大事な記念の写真である事に変わりはない。

 もしかしたら、この風が、全てのガスを、遠くに追いやってくれないものだろうかと、何の根拠もなしに、口にしていたのだが、何故か搭ノ岳に着いた頃から、今度は青空が主役に転じ、いつの間にか富士山までもが、雲の間から顔を出したのであった。
 風は依然と強く、火を付けるどころか、休む場所もなく、尊仏山荘の前で思案をしていたところ、その強風に煽られ、「山ノ神」が吹っ飛ばされて、山荘の板壁に顔面を打ち付けてしまうというハプニングが起きた。
 額に小さなこぶと擦りむいた傷が出来て、ちょっぴり困った顔を見せていたが、山荘に入る途端に、ビールを注文していたのだから、何と言って良いのか分からない。

 一番展望の良いヤビツ峠までの表尾根は、ずーっと富士山を眺めながらの下山となった。護摩屋敷橋の名水を利用して、コーヒーを頂き、由利香女史と別れたが、私達には、未だ長い旅が待っていた。

 相模湖ICから、高速を午後5時に乗ったのであるが、強風に煽られるし、落葉が雪のように舞って来ていた。松本ICから、上高地公園線に入るのであるが、いつしか「県境付近、凍結に付き、タイヤ・チェーンが必要」 の表示が電光掲示板に映る。先に行けば行く程、その表示が不安を煽り、気温表示もだんだんと数字が小さくしていった。

 頼みは先に行くトラックと、対向車が岐阜県側から来ているものと勝手な思いこみで走り続けた。沢渡を過ぎた頃から、雪が舞い路肩は白くなり、気温もマイナスになってきた。
 釜トンネル前から、安房トンネルに入る急坂のカーブを乗り切ってからは、何とかなるの思いが満ちてきた。しかし、その先の長い下りや、カーブが一番怖く、時速20キロくらいで、福地温泉の先までは、緊張が解けなかった。でも、結果的には6時間半くらいで家に戻った形になり、ようやく冷たいビールを飲む事が出来た。



11/6 やはり出発は、午前0時になってしまった。中央道・相模湖ICからは、知る人ぞ知る「上総の哲ちゃん」、そして、この度お世話になった由利香女史からの事前情報により、登山口のヤビツ峠までは、思っていたよりも早く着く事が出来た。

 4~5年程前から、丹沢山は、晩秋から初冬の時期に、登ってみたいと心していたのであるが、今回縁あって、その機会を得る事が出来た。
 どうせ行くなら、その横(反対方面)に位置する三百名山の一座 「大山 おおやま1252m」 にも登ってみたいと思った事が、計画を何度も練り直さなければならなくなり、迷惑をかけた結果になった。そのお陰で、その周辺の地図を、何度も見る機会が出来、少しは習得出来たかのように思っている。

 その大山の登山口であるヤビツ峠の標高は761m、山頂との標高差は491mで、数字だけをみていると、地元富山の 「中山」 と比べたくなる。遠くに富士山が見え、山頂に構築物の多い 「大山」。 山頂に何もないが、剱岳が近くにでっかく見える 「中山」。雰囲気からして、誰が登っても、「中山」 に軍配を上げるに決まっているであろうが、それも登ってみてから分かるのである。しかし、歴史などを加味すると、それは勉強しなくては、何とも言えないのであろう。

 菩薩峠には、我々が間違えないように、由利香女史のメッセージがあったのに、その甲斐なく、違った林道を歩いてしまった。(地図にはない林道が、2本もあったのである。)
 しかも、由利香女史は、これも地図に載っていない日本武尊の足跡を辿っているのである。どちらも、最終的には、GPSが効力を発揮し、事無きを得たのであるが、「正午に搭ノ岳到着の予定。午後1時まで待つ。」 には、その間違いで、出鼻をくじかれた感があった。

 また最大の誤りは、コースタイムをかなり侮った事であった。「少々重荷でも、コースタイムを超す事などない。」 と高を括り、「由利香女史を喜ばそうと思って!」 の事だけを考え、富山の珍味・アルコール類一式・その他の副食、そしてないと言われていた水も、小屋で買う事もなかろうと準備、そして雨の予想から着替また、就寝時のシュラフカバーなどまで詰め込み、私の担ぐ荷だけでも、20キロ近くになっていた。

 スタートの急登に、「山ノ神」の荷の一部を、プラスしなければならず、菩薩峠を再出発したのが遅い午前10時10分とは言え、搭ノ岳に辿り着いたのは、午後2時を回ってしまったのである。
 空は暗く大きく降らなかったが、まるで夕暮れの状態であった。写真を撮り続けていたとは言え、丹沢山に着いたのは午後3時半になり、途中、消防のレスキュー隊の方々が、「本間さんですか・・みやま山荘で、お連れの方が待っていらしゃいますよ。」と言われたくらいであった。

 山荘の中で、30分も待ってくれた由利香女史とは、これが初対面で、時間に遅れる恥ずかしい出会いとなってしまった。そして、「もう、ここで止めましょう。」 とは、誰もが言わず、当初の目的地・丹沢山の最高峰蛭ヶ岳を目指す事になる。

 不動峰の先から、不甲斐ないにも足が攣りだした。まだ蛭ヶ岳まで、かなりの距離があるし、岩場を降らなくてはいけない。薄暗く、風も出て来て、降るからには、最高峰だけに登り返しが待っている。素泊まりの予定とは言え、真っ暗になってから、山荘に到着とは、山の常識からしてみっともなかった。
 しかし、土間の自炊室?で、我々の食材の元に、管理人の梶原さんと、客人が集まって、楽しい一時になったのである。



11/5 願いが通じてか、関東にはお日様マークが戻って来たと思ったら、また元通りになった。山のお天気であるから、いつどうなるかは分からないが、ホットした間もない。
 「愉快な仲間達」に載っている由利香女史の顔写真を撮りに行くわけでもないが、丹沢山の主峰・蛭ヶ岳山頂でお会いする段取りになっている。「お会いしたいけど、一緒に歩くのはイヤ!」 山行回数からして、私を山賊くらいに思っておられるのであろうか、とても付いていけないとの事。「好山病・・」 のお札を持って勧誘?(神奈川県支部)に行く。そんな事はない。

 物見遊山的な今度の私の山行に際して、丹沢を知り尽くしている「上総の哲ちゃん」から、いろいろアドバイスを頂いた。何にも分からなかったその辺の地理が、少しは分かった気がする。名山歩きは、この辺に意味があるのだと私は思っている。 p.m.7:00



11/4 明日も含めこの三連休は、絶好の行楽いや山行日和であるが、その後の私の連休に、傘マークが付いてあまり面白くない。折角遠征(遠出)であるから、何とかならないかと思うのであるが、オセロの駒(石)が、ひっくり返るようにはならないようである。

 でも、もう一日、間があるのだから最後の神頼みというところである。  そして、ここまで来たら、大雨や二日間とも雨にならない限り決行であるが、雨の夜の運転だけは、長い距離だけに辛いところだ。 p.m.11:55




11/3 「稜線に出る前に上着を纏う。」 「濡らす前に雨具を着る。」 これからの時期、ちょっとした事が、命に関わる。私の行く山のレベルでは、そんな大げさな事は起こらないかもしれないが、注意に越したことはない。
 強風に手袋を飛ばされる事もある。飛ばされない事が大事であるが、ならないとも限らないから、当然予備が必要である。命に関わらないかもしれないが、辛い思いをしなければならない。そんな一つ一つの事が学習であり、肝に銘じておかなければいけない。

 ちょっと気になって、YAHOOニュースの記事を、 無断で「山の情報」に載せてしまった。厳密にいうと違法なのであろうが、ちょっとの期間、警鐘を鳴らすためのものでご容赦願いたい。
 その内容は、各々のが解読して頂ければ幸いである。リスクが高まる山行に、荷が重く(大きく)なるのは当然であるが、その中味が、嗜好品ばかりでは意味が薄い。




11/2 日本百名山に、深田クラブが選んだ100座を加えて、二百名山。それに、日本山岳会が選んだ100座を加えて、三百名山である。(正確には、荒沢岳と山上ヶ岳の絡みがあって、301座になるらしい)

 私は、特別、百名山や二百・三百名山に拘る事はないのであるが、機会があれば登ってみたいと思っている。各々の頂きには、それなりに趣があるであろうし、何よりも、登ってみなければわからないからである。

 二百・三百名山どころか、百名山も完踏出来ないと思っているが、それなりに近付きたい気持ちは大いにある。北海道や九州・四国には、なかなか足を運べないが、当面の目標は150/300なのである。

 気にしないとか、拘らないと言いながら、半分登っておれば、格好が付くとの自分の嫌らしい思いからであろう。
 しかし、「何が何でも名山」 の気持ちはないし、行きたい山を蹴落としてまで行きたくもない。富山や北アには、それに勝る山が、数多くあるからである。でも、浮気心のように、時々何処か、ふらりと出掛けるのも、また良しである。



11/1 満を持して、過日、ねぎちゃんから頂いた 2007日本の名山・日本山岳写真協会のカレンダーを、一番目立つ所に飾り付けた。13枚の写真に彼女の作品はないものの、近年必ず載ると期待している。来年のカレンダーとしては、ちょっと早いかもしれないが、年賀状も発売された事もあり、そのムードに乗っかった感は歪めないところ。

猫又山から戻って、茂ちゃんや「山ノ神」に、「足が、痛くはないか?」 と心配していたのが、今日になって、私の太腿に筋肉痛が及んだ。「え~っ、どうして?」 「こんなハズがない。」 と、弱さを認めたくない自分が、「明日には治る。」と必至の抵抗をしていた。

 11月は2回の遠征を予定している。(遠征と言っても、遠くの山に行くだけで、職場やグループで、年に一度や二度、小旅行や温泉に行くのと、同じように考えてもらえばいいのかもしれない。)

 来週は、丹沢山とその横にある大山、第3週は、滋賀の武奈ヶ岳と蓬莱山の予定である。遠くへ行きたい「山ノ神」と、300名山の半分くらいは、登っておきたいと思っている自分の欲求とマッチしての山旅であるが、仲の良い友から、「貧乏なくせに、またそんな所に行くのか?」 とイヤミを言われそうである。
 しかし、そのために、我々は、日頃からケチケチ生活を送っているのであって、そして、山と触れ合う事が、正に生き甲斐なのである。