12/31 山に関しては、まずまずの一年であったが、他の事に関しては、必ずしも満足のいくものでなかったように思う。でも、そんな事を言っておれば、バチが当たるかもしれない。己の力量を悟り、これまでやれた全ての事に感謝し、意欲を絶やさなければ充分である。有り難う。

 

12/30 「ひさしぶりに、ページを開けて、あー復活してらしゃると、うれしくてメールします。」こんなメールが、Hさんから届いた。12通目のメールは、平成15年2月中旬以来のものであった。

 私がHPを中断したのは、平成16年5月17日からである。Sさんに、ちょうど、その頃に覗いてもらった事になり、結果的には、その中断期間が、僅か1週間であったから、余程巡り合わせが悪かった事になる。

 Hさんにお会いした事もないのであるが、私が高校時代に、アルバイトをした事のある山小屋で、時期は違うが、やはりアルバイトをしていた事があると言われるのであるから、やっぱり、ちょっと気に掛かる人である。

 元々富山県出身なのか、どうかは分からないのであるが、数年前に富山県に移り住まわれたようである。「山の空気」が、好きと言うのがいい。その内、きっと何処かでお会い出来るのではないかと、かすかな期待をするのであるが、そのためにも、もう少し、HPを続けなければいけない事になる。



12/29 今年の山行を振り返ると、概ね満足である。ほぼ満点に近い回数や、多くの仲間達との交友など、私なりのその質に関しては申し分ない。唯、毎年過ごしたい剱沢キャンプを悪天のため断念した事や、一年に一度はお伴したいと約束しながら、その思いを成し遂げられなかった事に対して、山友に頭を下げなければならない。
 そして、もしかしたら、メールを頂きながら、私のシステムによって、除外されたり、私の思い違いから、お返事を、未だに出していない可能性があるかもしれない事もである。

 こうして、毎週のように楽しい思いをさせてもらっているのも、多くの仲間達に支えられ、励まされているからに違いない。例え単独の日があったとしても、その行動に対しての情報や激励などを、背負って歩いているようなものであるから、疎外感など微塵もない。

 この先、どれだけ歩けるか分からないが、一つ一つの山行を、また、一つでも多くの出会いを、大切にしていかなければならないと思っている。



12/28 ようやく、賀状作成完了である。後は、「山ノ神」の分を手助けするだけである。タイミング良く、夕方から降り出した雪も相俟って、お正月3日間の山行を考えるに至った。

 しかし、3日間とも、夕刻から所用があり、丸々一日、山に浸るわけにはいかず、上手く時間を使わなくてはいけない。私程度が目指す山頂なら、余程の事がない限り届きそうであるし、幸い日没が早いので、その所用にも間に合うような気でいる。
 でも、余裕がないスケジュールは、大概失敗するので、よく考えて行動をしたいと考えている。



12/27 毎年の事であるが、年賀状に悪戦苦闘をしている。「パーッ」と、同じものも一つの手であるが、やっぱり、折角出すのであるから・・になる。元来、山行報告の意味合いの強い賀状であったが、最近は、近況報告になりつつある。どちらにしても、早く出さなくてはいけない。

 そのような事から必然的に、HPにも、しわ寄せが来る。来年からは、ちょっぴり、リニューアルの事を考えていたが、どうも、これ以上は無理のようで、やっぱり、年齢と共に、縮小的と言えばいいのか、後退的と言えばよいのか分からないが、そのような方向になっていくのだろう。



12/26 昨日の疲れはどうかと「山ノ神」に、問うてみたが、意外にも 「どうと言うことはない。」の返事である。しかし、肩が少し張っているようである。「痛い!」 と言ってしまえば、次からの山行に、差し障りを感じているのかもしれないから、少々、その感想も、割り引いて、聞く必要があるかもしれない。

 eiko女史の言葉を借りれば、「未知のルートをみんなに必死についていき・・・」があるが、その事よりも、「人形山を断念したから、あの素晴らしい展望の春木山へ行けた。」 を、強調していた。
 「山ノ神」も、感想は同じで、「春木山までなら、何回も行きたい。」 しかし、「あとのルートは・・」 には、言葉を濁していた。

 それにしても、先行した化け物二人は別にして、女性二人をかばい、ましてや、「山ノ神」不都合のスノーシューを、自分の物と交換してまで、助けてくれた「橋ちゃん」の体力には、ビックリしている。彼は、「葉っぱ隊々長」 の肩書きもあり、再び「橋ちゃん」人気が沸騰するかもしれない。



12/25 「好山病・・」今年最後の山行は、ピーカンとなった人形山であった。年末の押し迫ったこの日に「北ちゃん」・「真っ黒ネコさん」・「橋ちゃん」・「eiko女史」・「山ノ神」、そして私の6名が集まった。
 我が高岡は、未だに初雪を観測せず、高温続きの事もあり、雪恋しい我々も、多くを期待せず臨んだのであるが、例年よりも少ないと言うものの、意外な雪量に大いに喜んだ。

 しかし、カンジキのeiko女史と、新調したスノーシューで臨んだ「山ノ神」は、その雪質に悪戦苦闘で、宮屋敷跡までに通常の2倍近くの時間を費やしてしまった。
 「お天気も良いし、山頂に拘らずこの辺で・・」と、小さな声で、まやかす女性軍と、「もうちょっと、先まで行って・・」と余力を残す男性軍の要望を、折半したわけではないが、宮屋敷跡から、ちょっぴり通常ルートから南下し、そして、旧平村と旧利賀村との境界線上で、展望の良い所を探しての今年最後の宴となった。(1618m付近・好山平とでも呼ぼうか・・)

 三辻ヶ山を通常より、ちょっと東から眺めるのであるが、それはそれは素晴らしい。そして、立山・剱を含めた北アの山々の眺望が何とも言えないのである。百名山だけでも、立山・剱岳・薬師岳・黒部五郎岳・笠ヶ岳・槍ヶ岳・穂高岳・焼岳・乗鞍岳・御嶽山・八ヶ岳を確認し、三辻ヶ山から人形山への稜線で白山を隠しているが、その三辻ヶ山の格好が実に良い。

 しかし、最後の山行に、名のあるピークを踏まないのも心残りであると、運転手に、アルコールは回らないものの、宴は盛り上がった。宴の途中から加わった金沢の「山ちゃん」と別れ、春木山を目指した。
 特別特徴のないピークであるが、その辺一帯が、無雪期に行けないだけに、視線を遠くにやりながら、何度も歓声をあげた。

 「好山病・・」の凄いのは、その先の1583mの三角点を踏んだ後からである。西側の斜面を降り、北西に延びる尾根を辿り、途中から、西の小沢に向かって降り、今朝通過して来た第2休憩所と第1休憩所の鞍部に辿り着くものである。

 ヤブに強い「北ちゃん」に、最近ヤブの味を覚えた「真っ黒ネコさん」、そして、疲れ切った女性軍をフォローし続けてくれた「橋ちゃん」、そのお陰で、面白い?ルート(好山道)を味わえたのであるが、「春木山は来られても、好山道は来る事がない。」 と思えたのが実感であろう。
 夕日が落ちるのと競争しながら、登山口に向かったのであるが、最終山行も、またまた真っ暗の中の到着になってしまった。しかし、皆の顔には、疲れなどという表情は少なく、満足感が漂っていた。



12/24 昨日の鎌子氏に次いで、今日は、千葉の川久保氏から初メールが届いた。3年前の9月に、日光白根山でお会いした方である。内容は、牛岳記念山行の事や、先日の同窓会的白鳥山行の事などを、HPで拝見したとの事で、最後に、「来年の4月30日に、ご一緒したい、出来れば、剱岳を仰げる山」 でと記してあった。

 川久保氏は、PCに、あまり縁のなかった方だったと記憶していたが、何かの事情で、環境が変わって、PCにさわる事になったかもしれないが、私はその事を知るわけもない。

 今度のメールも、携帯からであったから、その感激は、「届いた。」という語句にも現れていたが、私には、目に見えない感動が伝わってきた。  まだ、ず~っと、先の話で、その再会も、実現するかどうか分からないが、PCなどの文明機材に、新しいロマンを感じている。 p.m.11:50



12/23 今日は、またまたハッピーな日であった。富山に縁ある愛知の鎌子氏との出会いである。何年か前に、メールを頂いて以来、初めての出会いである。
 それまでは、鎌子氏の名が「千重」であるため、私は勘違いし、女性であるとばかり思っていた事もあった。また、富山の雪山にお誘いした事もあったが、実現せず、どのような方かと思いながら、現在に至っていた。

40年ぶりに富山の親戚に来たついでに、前から気になっていた私の顔を見てみたいと思われたのが、突然の来訪となったようである。同氏はPCにも詳しく、教室をもっておられるらしいし、ビデオ編集などもやられるという。無線・船舶免許、バスの運転など趣味も多彩であり、とても私より年上の方には拝見出来なかった。

 山梨・静岡・神奈川などに行く時は、是非声を掛ける約束をしたが、よく考えてみると、突然に計画して出掛ける我々の山行スタイルに、合わせてもらるかどうかは分からない。今年は、神奈川の由利香女史ともお会い出来たし、そういう面では、ハッピーな年のように思える。



12/22 「1分1秒速く行ったから、どうだって言うの?」 「たくさんのピークを登ったから、どうだって言うの?」 「ヤブの中を歩いても、展望なんかないし、何処が良いの?」 威張る事もないし、他人の事に、あれこれ言う必要もない。それぞれの思いがあって、その目標に向かって頑張っているのであるから・・・・。

 「余計なお世話」 と払いたくなるが、これまた不思議なもので、評価をしてもらいたいものである。口では、「いらない。」 と言いながら、同志を求めるのも、そのせいであろう。

 修行とはいかなくとも、大方の人達は、それなりの可能性を求めたチャレンジであろう。そうである。それなりのリスクを背負いながら、自分なりの何かを求めて歩いているのは間違いない。
 注目されるハードな山行も、ちっちゃな山歩きも、突き詰めれば、そんなに大差がないように思えるのであるが、如何であろう。 p.m.8:00



12/21 今年も残り少なくなり、私の休日が、あと1回になった。その25日(月)の山行で、79回(82日)になる。今年は、特別な山行をしたわけでもないが、1月に拘った 「大地山」、 テント泊が適った 「初雪山」、 山仲間に祝ってもらった 「牛岳記念山行」、 久しぶりに出掛けた 「上高地」、 若い衆に連れて行ってもらった 「不帰岳」、 そして、「東北・近江・丹沢の遠征」、 など、私にしてみれば、頗る満足のいく一年であったように思う。

 欲を言えばきりがなく、元気に歩けた事や、素晴らしい山仲間に大切にしてもらった事だけでも、「幸せ!ハッピー」 など、どの言葉でも当てはまる。

 今年の私に与えられた休日が78日で、その内、娘の結婚式があったのに、82日間も、山に入っていたのだから可笑しな男である。特別な記録も作れないのに、何故になってしまう。もう、そのような事より、これからは、「もう少し山を知りたい。」 の方に、ウエイトを置く事になるであろう。 p.m.7:00



12/20 シュラフに入り、いびきをかきながら、いつの間にか寝てしまった忘年会も、朝仕事に間に合うように、各々が戻って行った。冷気が身にしみ、寂しさが漂うかに思うのであるが、次回山行の機会こそ違うが、すぐ、また会えるのである。それよりも、眠い目を擦りながら、その山行のために、一生懸命仕事に頑張らなければならない。

 12月中旬の山三昧の余韻を充分に味わいながら、年賀状への最後の追い込みとなるハズであったが、小心者の私は、同窓会的山行(白鳥山)の反省を引き摺って、胸中を暗くしている。

 決断・統率の甘さが、参加者の多くに迷惑を掛けたからである。自己責任を明記していても、後続者へのもう少しの配慮か、参加申し出の拒否などの対応があれば、あのような事にならなかったからである。

 優柔不断、そして、尚かつ、情けに弱い自分をさらけ出してしまった感がある。結果はオーライであったが、初冬の山行への警鐘として、心に刻み込んでおかなければいけないと思っている。 p.m.8:25



12/19 昨夜の「好山病・・」忘年会は、吉峰のアートハウス・ドナで行われた。この日のために、休日をとって楽しみにしていてくれた人、仕事を終えてから駆け付けてくれた人。それぞれの思いを胸に、「好山病・・」は盛り上がる。出席率 10/11は、立派なものである。

 「好山病・・」に、切っても切れない「シュンちゃん」を、またまたゲストに迎え、しかも、奥様にまで出席していただき、尚更盛り上がった。「北ちゃん」が、今日の日のために、今朝まで徹夜して「牛岳記念山行」のビデオを編集してくれた完成試写会まであり、また、日頃、喉を通す機会のない名酒に酔いしれて、吉峰の夜は、最後まで楽しかった。

 こうして、山以外でもお付き合いが出来るなんて、数年前までは考えてもみなかっただけに、私は、何て凄い財産を、つくれたのだろうと思ってしまう。独り善がりかもしれないが、山中での密度の濃い付き合いだけに、ちょっとやそっとで、壊れやしないような気がする。後は、自分の張り詰めた気持ちを、持ち続けられるかであろう。 p.m.7:50



12/18 夕刻からの「好山病・・」忘年会に合わせた「千石城山」の登り始めは、正午を少し過ぎていた。「雪があるだろうか?」 「あっても、どれくらいであろうか?」 と、昨日の白鳥山の事を思うと、単純に標高だけで決められないものである。

 やはり登山口に、15cmくらいの積雪をみた。稜線に出て25cm。山頂では、30~40cmくらいであった。757mの山であるが、昨夜来の降雪で、トレースはなく、気持ちの良いものであった。

 しかも、時々日が差し、山頂では、ひなたぼっこをしても良いくらいであった。鍬崎山や薬師岳、鍋冠山に高峰山、次第に大辻山や大日岳などと、特徴のある山々が、目を楽しませてくれた。しかし、剱岳は最後まで姿を見せず、大倉山も上部を厚い雲で覆われていた。

 下山後、ちょっと時間が余り、「大観峰」へ足を延ばした。名だけは知っていたのであるが、どんな所なのか行って見たかったのである。しかし、私には、千石城山の方が、大観峰らしく思えた。



12/17 お天気が悪いと予想された白鳥山に、本隊14名と後続隊2名、そして、登山口まで見送りに来て頂いた池田夫妻が集まった。参加した皆が満足するのに、崩壊した山姥への林道コースと、金時坂・シキワリコースを周遊する事としたが、雪量の加減が、今一つ掌握しきれておらず、スノーシューやカンジキを、必須としなかった事や、後続者への配慮が足りなかった事を、企画したものとして、深く反省しなければいけなかった。

 白鳥山の雪量の多さは、認識していたのであるが、数日来の高温や、坂田峠から見渡す限り、もしかしたら、雪がないのではと思ってしまったからであった。
 それでも、大方は各自装備を持参し担いだのであるが、強く言われなかった自分の未熟さを、さらけ出してしまった感じである。
 しかし、本隊は、それなりの力もあり、それはそれは楽しい山行となったのであるが、後続のH.fujii氏達に、辛い目を遭わせてしまったのであった。



12/16 「シュンちゃん」の偵察によると、坂田峠には全く雪がなく、山姥の祠への林道は、700m地点で崩落していて、車が入れないようである。また、かなり上部までは、カンジキも、スノーシューもいらないかもしれないとの事。

 悪天が予想される白鳥山だが、キャンセルは一つもなく、久しぶりの顔見せに、雨も雪も関係ないようである。15名以上の参加は確実であるが、もしかしたら、もっと増えそうである。今日も、「行きたかったのに・・・」の連絡があったが、「また、来年もあるよ!」と、慰めるしかなかった。
 何時も、「山ノ神」と酒飲み問答をしているからであろうか、便乗させてもらえる「助け船」が出た。明日は、口なめらかに、「山談義」といこうか! p.m.11:50



12/15 予報が雪から雨に変わった。その都度変わる予報に、一喜一憂する事もないのであるが、雪上の雨は、吹雪などと共に、流石の私も「う~ん」と、唸らなければならなくなる。まだまだオセロゲームのように、予報がクルクル変わるかもしれないが、17日(日)は、屋根のある白鳥山に決まった。

 もうここまで来たら、運を天に任せ、「誰に会えるのだろうか?」 の方に興味が注がれる。思い切って、若い「豆ちゃん」を誘ってみた。とても喜んでくれたが、職業柄、「年末は休みがないのです。そのうち何処かで・・・」 との事。 
 「I女史は忙しいだろうな?」 「 W夫妻はお元気なのかな?」 などと勝手に盛り上がっている。
 「花じい」「シュンちゃん」「堀シェフ」「山の歌」などの 常連(重鎮?)の他に、ネコ・ロボ・イヌの若手三銃士も来てくれるような気がする。山小屋に入れないくらいの人達が集まったらどうしよう。 p.m.7:25



12/14 忙しさにかまけているのでないが、17日の同窓会的山行の行き先を決めかねている。雪量の少なさと、悪天が予想されるからである。小屋を含め屋根の有る無しや、タープなどに、入れるかどうかも考えなければならない。

 もっと、考えなければいけないのは、宴(食事)の時間を短くする事であり、雪量如何によっては、その思惑通りに、いかなくなる事である。運転手付きの方々ばかりなら、問題ないのであるが、今まで以上に神経質になってしまう。

 「国少の家」から歩く状態なら、この企画に馴染みのある大辻山に、問題なく決定であるが、そうでなければ、西に東に、候補を模索し続けなければならず、最終的には、明晩にずれ込みそうである。

 本当は、この機会を通じて、多くの山仲間と、久しぶりに語り合いたいのであるが、果たして、「降ろうが降るまいが関係ない。」 などと、この日に、ひょっこり顔を見に来てくれる方々が、どれだけおいでるのかはわからない。 必ず出掛けますから・・・・

   (お知らせは明晩に・・・)



12/13 毎年、この時期になると、「どうして、もうちょっと、早く何とかならなかった。」 のかと思うのが、年賀状である。PC仕様でも、私なりの拘りがある。やり始めても、ちょっとや、そっとで出来上がらない。自分では結構苦労しているのであるが、各人に届くのは一枚だけであって、その評価は必ずしも高くない。

 でも、私の一年の山行報告の意味合いもあり、勝手に送り届けている。山が好きな人にも、そうでない人にも、相変わらず「山・やま・ヤマ・yama」なのである。さて、500枚の年賀状は、何時出来上がるのであろうか? p.m.11:45



12/12 長勢君に、直してもらったガソリンコンロを、大辻山や負釣山で試し、その手法が、身に付いたかと思い、昨日の上高地にも持参した。それまでは、万が一のために、ガスコンロも合わせて持ち歩いていたが、もう完全に自分のものなったような気がしたから、他のもので、荷が多くなった事もあり、ガソリンコンロ単独で用い、寒さの中での成果を試みるつもりであった。

 梓川の右岸で、河童橋近くのベンチに腰を降ろし、昼食の準備に入り、コンロのもう一つの懸念である油漏れがない事を確認し、圧を掛け、火を点けるとボ~ッとなり、日差しがあるものの寒さの中で、暖かいものを、やっと口に出来ると、顔をほころばせたのも束の間に、火が消えてしまった。

 何度やっても火がつかず、「何で~」状態になる。ガソリンがないのではと、揺すぶってみたが、シャワシャワと、鳴っているような感じだし、時間の経過と共に、イライラが増して来る。
 「可笑しいな~。」 「でも、ガソリンが本当にあるのか?」 と恐る恐る紙を敷いて、空けてみると、ビックリであった。一滴のガソリンも出て来ないのである。それを確認すると、いっぺんに力が抜け、ぐったりしてしまった。

 向には、ちょっとは心配しながらも、この寒いのに、相変わらずビールを飲んでいる。こちらは、暖かいうどんと、良い香りのするコーヒーを沸かす算段であったはずなのに・・・

 「フルに使って2時間、種火で9時間」 が、頭に、こびり付いていて、大辻山と負釣山では、そのような時間を費やしていないはずだし、未だ半分以上のガソリンが残っているものと思っていたのが、重大な誤りだった。また、どんなものでも、事前チェックが、必要であると、改めて感じたのであった。

 高岡ハイキングクラブの塩谷氏から頂いたコールマンのガソリンコンロである。油漏れしていて、ちょっと持てあましていたのであるが、長勢君のチャレンジ精神のもとに、このように、立派なコンロに蘇り、私のガソリンコンロ二代目となった。
 初代コンロは、油漏れから火災を起こし、現在、お蔵入りになっているのであるが、もしかしたら、また日の目を見る可能性もある。自分でちょっぴり勉強しながら、賢人達の手助けを借りようと、密かに狙っている。 p.m.4:40



12/11 今日は、厳冬期の上高地の偵察と称して、奇策で乗り込んだ。上高地は、今夏の霞沢岳・蝶ヶ岳登山以来であるが、大正池となると、マイカー規制以前に、子供達を連れて、一度来たような来ていないような記憶がある。
 もっとも、昭和38年8月(高1の時)、今では考えられない、いや味わえないような大正池を見ている。今も多くの手が入っているが、大自然の脅威には適わないようである。

 富山の山を考えると、当然、スノーシューに、プラブーツで臨んだのであるが、拍子抜けするような少雪で、ちょっとがっかりであった。しかし、好天でも寒く、日中、陽が当たっても、何もかもカチカチであった。東京から来たというハイカーなどは、アイゼンを履いて、ツルツルの自動車道を歩いていた。

 しかし、群青の空に、焼岳や穂高連峰が聳える様は、また来たくなるような大パノラマであった。大正池の浚渫工事で、車両がゴー音を轟かせているが、それでも、祭りが済んだ閑散とした雰囲気ながら、「ステキな山の写真」を見ているようであった。 p.m.8:20



12/10 今日は、明日の山行に対して、何だか不義理をしてしまった感じがする。目的があったし、約束をしていたわけでもないのだが、ちょっと引っかかるものがある。そんな萎んだ気持ちを、払いのけるようなお天気になってくれないものだろうか・・・・・・・ p.m.11:59



12/9 福井県にお住まいの「みっちゃん」から、白山の写真集を頂いた。山仲間・岡本守司氏の「白山を歩いて」である。岡本氏は、50歳の誕生日を記念して、白山に登られたのをきっかけに魅了され、拘りの白山になったらしい。そして、平成17年10月には、白山登山200回を達成されたようである。また、百名山を目指さないために、白山とその周辺の山に、重点を置いて、登り始められた動機が面白い。

 「白山を歩いて」のサブタイトルが、「雪が似合い 花が咲き乱れる山」 である。ほんの一時期、そして、12回しか登った事のない私だが、白山の奥深さを感じ、もうちょっとだけ、幅を広げた登り方をしてみようかと心が躍っている。
 まだお会いした事もない「みっちゃん様」に、感謝しながら、その内、しわくちゃな顔を、お見せ出来る事もあるのではないかと、かすかな期待をしている。



12/8 これだけ山に行っていても、これで良いのだろうかと自問自答が続く。「登れなくなったら・・」 「動けなくなったら・・」 実際、山を諦められた方々を何人も知っているし、諦めようとしている方が周りにおられる。
 「そして、これで良いのだろうか・・」 も、ついて回る。
 「やっぱり、全休日を、山に宛がうなって可笑しいのであろうか・・・」 となる。

 したい事しているのであるから、それで良いのであるが、この辺からも、「元さん、この頃弱気だね!」と言われるのかもしれない。他人の山との接し方など、気にしている間は、本当の「元さんの山歩き」など確立出来るわけがない。

 でも、人の心など、本当に弱いものである。自分のやりたい事を、他の人から、「そうだね!」 と認めてもらいたいなど、浅はか際わりない。「孤高の人」 は、やはり偉大である。



12/7 95歳のSさんが亡くなられた。13年前に亡くなった父の一つ年上の方である。特別面白い事を言われる事もなく、唯、真面目で、横目を振らず、規則正しい生活を送っておられた方のようであった。その頑固さを物語る一つとして、新聞もチラシが多く入った地方紙に目もくれず、全国紙を、ずーっと、取り続けておられたようである。

 そのSさんは、私が生まれる前からのお客様であったのだから凄い! お見送りしながら、父の代から60年以上、何を気に入ってくださったのか分からないが、唯々感謝であった。

 長い年月の間に、気に入らない事や、幾多のミスもあっただろうが、我々を暖かく見守ってくださったに違いない。そのような事から考えると、日常の私は、好き嫌いは激しく、他の人への思いやりに欠けていた事は歴然としている。人間が出来ていないだけでなく、その歩んで来た事に恥ずかしさを感じる。

 歳取る毎に、「我」 が強くなるという。それを少しでも抑えて、貢献などと、おこがましい事は出来ないまでも、見守ってあげる事は出来るのではないかと思う。

 「私こそは・・・」 「私だけが・・」 も、生きて行くには、大事なのであろうが、そのような事は、先が見えている。もっと、心の中を磨きたいものである。



12/6 食事(夕食)の間に、PCを消したのがいけなかったのか、またまたトラブってしまった。この頃は、PCのスイッチを入れる時が、一番ドキドキする変な感じである。
 そんな時に限って、わんさとメールがやって来る。気になっているのだが、ず~っと、前から頂いているメールの返事も怠っている。「北ちゃん」に送らなければならないビデオ編集の画像も遅れている。不幸が2件も重なっている。やはり何事も、早め早めに物事を処理しておかなければならないようである。

 未だ日にちがあるのに、同窓会的山行の問い合わせが4件になった。「あ~っ、返事を出したっけ?」   嬉しいとばかりも言っておられない。PCの万年トラブルに、私のボケが加わって、多くの方々に迷惑を掛けているかもしれない。それも忘れてしまっていたら、どうしよう!!

 私(達)の山行スタイルが、直前にならないと行き先が決まらない。わがままだけれど、これを理解していただけなければ、ご一緒する機会が遠のいてしまいそうである。その点、「好山病・・」の輩達は、密度の濃い付き合いだけに、充分に浸透しきっている。



12/5 大辻山行の前夜は、1時間ほどの睡眠しか取れなかったので、山から戻り、ちょっと一杯引っかけて寝てしまったら、目覚めが遅かった。もっとも目が覚めた頃は、雨が降っていた事もあったが、行き先も決まっていなかったし、床から出たのも、休日としては遅くなってしまった。

 負釣山へ行くにしては、ちょっと遅い自宅発が午前9時を回ってしまい、モタモタしていたら、登山口発が11時半くらいになってしまった。駐車スペースでは、7~8センチくらいの積雪を観測出来た事もあり、「私が行けるかしら・・」と「山ノ神」には、不安がいっぱいのスタートとなった。

 一昨年1月上旬に、7合目で断念するという経験があり、時間的にも、またまた「山ノ神」を、7合目に残さなければいけないかもしれない懸念があった。
 しかし、意外とその足取りは快調であり、雪量が増えた4合目当たりからは、夏道と同じくらいのペースで進むくらいであった。しかし、やはり7合目下当たりのロープが連続する頃には、一歩一歩確実に歩かなければならないようにペースダウンとなる。
 7合目で、「その先を、行くか行かないか!」 の決断に、「行けるところまで行く!」 と、いつでもない「山ノ神」 の決断が奏功し、差程の問題もなく、山頂に辿り付く事が出来た。

 「時間がないから、少しだけの休憩だよ!」 と言いながら、1時間20分も山頂に滞在した事になる。
 雪量は、昨日の大辻山から比べると、標高が400m低いのに、負釣山の方が多く感じられた。海に近いからであろうか? 

 テーブル造くれたし、真っ黒ネコさんに、直してもらったガソリンコンロも快調。スッキリではないが、剱岳も仰がれたし、朝日岳や白馬岳も良かった。夕日が沈む頃に、オコ谷の駐車場に着いたが、結構満足感の漂う一日であった。



12/4 自宅を出発してから、集合場所のアルペン村までは雨が上がらなかった。大辻山頂では、降雪有りで、タープの上にドンドン雪が溜まった。しかし、登高時は、雨も雪も降らず、以前からの予報よりは、遙かにましであった。

 城前峠まで車を入れ、多くの雪量を期待して林道を歩いたが、標高930m余の長尾峠の積雪は、30cmには届かない状態であった。真新しい3台を含め5名全員がスノーシューであったが、ちょっぴりルートを外れると、木々やつるに阻まれ四苦八苦であった。

 山頂での快適なシェルターを造るには、やはり、もうちょっと雪量が欲しいところ。でも、洗練されたネコさんの技術を持って来れば、タープと少ない雪を組み合わせて、今の時期では最高の施設を作り上げてくれた。(積雪は50~80cm)

 昨夜の忘年会疲れも見せず駆け付けてくれた「ねぎちゃん」、立派なスノーシューを買って、満を持してのゲスト参加となった「茂ちゃん」は、雪山初デビュー。見た目がちょっと変わったスノーシューを身に付けた「山ノ神」も不安がいっぱい。人それぞれの雪山への期待を込めての山行となった。



12/3 「何故、奥さんの事を、山ノ神と呼ぶのですか?」 の問いには、苦笑が伴ってしまう。愛称のようなもの、特別の意味もなく、照れ臭いから使ったものが、そのままになってしまったが正直なところ!

 もしかしたら、元来の意味から外れているかもしれないと調べてみたら、
[1] 山を支配する神。粢(しとぎ)やお神酒・虎魚(おこぜ)などを供えてまつる。神の性格や祭日・まつり方などは、地方やまつる人々によって異なる。農家では春秋に田の神と交替するという。
[2] 俗に、頭の上がらなくなった自分の妻のこと。特に、口やかましくなった妻をいう。
[3] カサゴ目の淡水魚。全長 15cmほど。体形はカジカに似る。体色は茶褐色で、鱗(うろこ)はない。食用。中国・朝鮮に分布し、日本には筑後川付近にだけ生息。タチャ。 (大辞泉調べ)

大辞林では、
1、 山を守り、支配する神。多く、女性神として信仰され、農民・狩猟民・鉱業者などに祭られる。
2、 妻のこと。特に、結婚してから何年もたち、口やかましくなった妻。
3 、カジカ科の淡水魚。頭部が縦扁し、体色は黄褐色で暗色の横帯が5本あり、産卵期にはしりびれなどが赤色になる。晩秋に川を下って産卵、稚魚は翌年4、5月ごろ川を上る。2年めには16センチくらいになる。食用で、中国では松江鱸魚(しょうこうろぎょ)といい珍重される。日本では有明海付近の川に生息。

 両辞典とも②の意味からして、そう外れているようにも思えない。  でも、実際、私は、HP上で「山ノ神」を使うが、人前や文章(手紙など)では、家内や女房を使う。「山ノ神」本人を呼ぶ時は、名(比佐恵)を言う。妻や奥さん、また、○○ちゃんなどは、私の性格上とても言えない。

 過去に、何度か「お母さん」 と言った事があるが、返事をしてもらえなかった。「私は、あなたのお母さんではありません。」 そして、もっと、以前の話になるが、母が存命中の時などは、「お母さんは、あちらにおられます。」 などと徹底して、名で呼ばせるように指導された感じであった。

 一度だけ、コマーシャルを、真似たわけではないが、「名で呼んで!」 の問いかけに、清酒の名を言って、抵抗したが、受け入れられず、現在のままである。結果的には、この方が良かったと、今は、そう思っている。

 HP上では、何の意味もなく「山ノ神」、人前では、家内や女房、本人を呼ぶ時は、比佐恵と区別して使っている。 p.m.5:30



12/2 「・・・・・名勝旧跡などよりも、名も知れぬ見知らぬ町を訪れて、一風変わった家の作りを見上げたり、おかみさんたちの会話に耳をかしたり、一種の臭覚をもってその歓楽地を探しあてたりすることに興味のない人は、真の旅人と呼ばれる資格はない。」

 これは、深田久弥の小文の一部を抜粋したものである。時代背景の違いはあるものの、何故か、心に止まった。
 前文に、「旅はあてのないのが楽しい。窮屈なプランに縛られながら歩くのは、団体旅行に任せるがよい。今夜はどこで泊ろうか。あすはどんな目にあうだろうか。その予感に胸をとどろかすところに旅の興奮とスリルがある。所詮旅とは一種の賭だ。芭蕉は一生旅に賭けた。」 とある。

 もうちょっと、早く気が付けば良かったとか、もうちょっと、若かれば良かったとかは、自主性がないか、もう負けてしまっている事になる。すぐ行動に移すか、気が付いた路線を変更すればいいのであろう。
たまには、本を読むのは良い事である。自分の行動へのきっかけを作ってくれるかもしれない。 p.m.11:00

  

12/1 私が深田久弥の日本百名山に出会ったのは、高3の夏、奈良から従姉妹が来富した際、立山登山のガイドをする事になり、旧剱山荘・アルバイト中、時間を割いたお礼にと、後日、「山を、こよなく愛す元ちゃんへ」 の添え書きと共に、「深田久弥の百名山」が贈られて来た時である。

 高校生であった事もあるが、山名を見ても、あまり知らなかったし、皇海山・武尊山・光岳など読めない山名も多くあった。もしかしたら、深田久弥という名も、分かっていたかどうか、今から思うと怪しいものであった。
 そして、その時は、現在の百名山ブームになるとは、夢にも思っていなかったのである。今でこそ、何回も読み返しているが、それは、ガイドブックというよりは、エッセイ的な色合いが濃い書物である。

 それと、同じに思うのは、「越中の百山」である。21名の方々が執筆し、6名の方々が編集(昭和56年の改訂版)されている。今でこそ、ガイドブックとしては、馴染まないかもしれないが、当時は、載せられている半分以上が、「登山道のない山」 であり、もちろんGPSなるものもないし、ガスが掛かったら、ピークどころか、何処にいるのかさえ分からなかった。

 小さな低い山でも、登山口を探したり、また途中断念したりしながら、何回も足を運んだ。今はその点、簡単に情報が入手出来るし、また、グループなどもあり、以前よりは簡単に登れるのかもしれない。

 しかし、情報や用具が良くなっても、山は依然と変わらず、やはり体力や知識がなくては、何処にでもと、いうわけにはいかない。
 先人達に感謝しつつ、「越中の百山」 に、記された文章を、私はこよなく愛す一人なのである。 p.m.7:35