1/31 キャンプの結論は、前日の夜まで先送りにした。その行き先は、大辻山か大倉山になると思うが、後は、2日目(2/3)の予報と、今晩から降雪があるかどうかに掛かってきた。

 このところ、どんどんと融雪が進み、あまり面白くない。汚れた山肌を、白い雪で覆って欲しい願いがある。もう一つは、2日目の予報が雨にならない事である。軟弱になりつつある山への対応であるが、これが当たり前と言えば当たり前である。2日間とも、日帰りになっても一向に構わない。



1/30 お天気の変わりは、遅くなる事は多いが、早回る事は少ない。もしかしたらと思っていたら、休日(月)に、僅かながらお日様マークが出た。この時期は、オセロのように、クルクル変わるから、直前にならないとはっきりしない。それどころか、その日のお天気でさえ、予報と違う事があるのだから・・・

 キャンプをするか、しないかの決断は、明日(1/31)に、しようと言っていただけに、ちょっぴり陽が差した感じである。日頃から、「休日は山に・・・」 と言っていても、雨や吹雪が分かっているのに、キャンプはしたくない。ましてや、雪中であるから尚更である。

 もしかしたら、その決断も、前日、或いは、当日の朝まで、ずれ込む可能性もある。これは、同じ家に住んでいる者同士のいいところかもしれない。



1/29 ようやく新年会も終わった。あれだけ食べて飲んでおれば、身体が可笑しくならないハズがない。でも、幸いメタボの域には達していないが、身体を調べれば、可笑しい所だらけであろう。健康診断も受けていないのであるから、自覚症状が出れば、「一巻の終わり」 だろうと思っている。

 だから、尚更のように休日は山に行って、身体を鍛えなければいけないのである。身体が軽くなるまで・・・
 実際、ストレスも含めて、身体の悪いものが、全部出て行くような気がする。それだけでも、ハッピーである。

 平場にいると、寒がりやの私ではあるが、山に入れば別人のようになる。(あまり寒がらない。) その証拠とは言えないが、何年間も風邪を引いていない。



1/28 一昨日の大倉山から戻った夜、友人のK君がやって来た。「スノーシューを買って来た。どう装着するのか教えろ!」 と言い、その他の装備を事細かく尋ねて来た。そして、「山に連れて行け!」と言う。

 「予定があるし、なかなか同行する機会がない。」 と言うと、後から就いて行くと言い出した。それは、休日毎に6~7時間も歩いているから、大丈夫との自信から来ているものだと推測するが、「平地と山と違うから・・」 と促したが、「二上山を、一日に2~3回くらい登っているから・・」 とまで言って、尚も食い下がってきた。

 「私や家内(山ノ神)も、たじたじなのだから・・」 の一言で、強がりの方向転換をしてきた。今度は、「牛岳へ連れて行け!」 と・・・・・・・・・・・・
 「牛岳は、お天気の悪い時しか行かない。」 と言うと、「大丈夫だ!分かった!」 と言う始末。「予定は、前日の夜くらいでないと分からない。」 と言っても、「分かった!」 と言う。一度何とかしなくてはいけないのかもしれない。でも、ず~っと、喋り続けるK君と二人だけでは、間が持ちそうにない。困った!



1/27 私は、大倉山に11回しか登っていないから、熟知しているとは思わない。しかも、無雪期に登った事がなく、三角点も鐘も知らない。12年前のGWに、雨の赤谷山を諦めた戻り際に、大倉山に登ったのが初めてであった。それ以来、1月~4月までの積雪・残雪期しか登った事がない。

 大倉山に良いところは、剱岳を仰げ、猫又谷を中心とした毛勝の山々を、間近に望める事であり、その気になれば、土倉山やカクレ山・濁谷山と、足を延ばし大展望を楽しみむ事が出来る。

 山頂からの展望は、お気に入りであるが、その山頂へのルートには、差はど拘る事はない。しかし、何処からでも登れれば、それに越した事はない。

 一昨年の2/5~2/6に、山ノ神と雪中キャンプを張ったが、静か過ぎる山中は、邪悪な下界での暮らしを、顧みたかのようで、大自然の凄さを、今更のように感じる事が出来たような気がしてならない。今年も同時期に、出向きたいのであるが、お天気巡りと共に、山ノ神の士気の低下、そして、お互いの体力の衰えが、気になるところ。
 余分な荷物(アルコール)を削れば良いのであるが、「それがなくて、何の楽しみがある。」 と山ノ神に一喝されてしまう。

 1/27付のメーンページの画像(ちょっと大き過ぎたが・・)は、過去5回の山行軌跡を、抜粋して載せたもの・・・



1/26 前夜からの風雪は、県西部に強かったが、県東部へ入って、意外にも積雪のないのに驚き、集合場所の上市にもそれが及んでいた。「大倉山」を第1候補にあげていたら、強者達は、いろいろなルートを作り上げていた。それをホゴにするわけにいかず、それに皆が続くのであるから凄い。

 伊折山(三等三角点・伊折)を、経由するものであるが、一度通ったような気がしたが、まったく、その周囲の様に記憶はなかった。小さなアップダウンがあるが、緩やかで高度を稼がず、長いルートは、最後に来て一気に登るものであった。

 私は、ラッセルする事も殆どなく、疲れかけたメンバーと、最後尾を歩く事が多いだけ・・・
 「まだ・・」 「お腹が空いた!」 の声は聞かれたが、「止めよう。」 などの言葉は、一度も耳にしなかった。

 展望もないのに、長いルートを只歩くだけ・・ 暖冬と言えども1月の雪である。そんな中での私の欲は、「山頂に拘りたい。」 だった。山頂を踏むのが、せめてものご褒美だからである。それを叶えてくれたのだから、尚更 「凄い!」 の一言に尽きような気がする。

 山頂到着が午後1時一寸前。今日も5時間を超えた歩きであった。食事する時間が、あまりなかったのであるが、好山病にシェルターは欠かせない。堀直しもあって、食事に有り付けたのが、午後1時半過ぎであった。

 1時間余では、持ち寄られた食材が全部使われる事はなかったが、6つのコンロが稼働し、次から次へと、胃袋の中に吸い込まれていった。

 日没を気にしながら、山頂を発ったのが、午後3時一寸前、パウダースノーを蹴散らして、周遊の下山路を降りだしたのであるが、1053mの標高点を越してから、夏道に従うかと思えば、もう一つ東側の尾根を降り、林道交差点(首桑橋付近)に着陸したのである。それから、桑首林道に沿い車に辿り着いたのは、薄暗くなった午後5時半前であった。

 最後の尾根は、以前一度だけ登った事があったが、今回は降り、そして、今回山頂に向かったルートは、降った事があった。しかし、何年か前の事であるし、登りと降りとでは、全く違ったものに思えた。また、日頃から述べているように、一度や二度登った事くらいで、分かったような事は言えないのである。今回のルートと以前使ったルートを対比するために、明晩のHPに載せてみたいと思っている。



1/25 明日は、どのようなお天気になるのか、分からないが・・・・・一応、早月川流域の山に行く事にしている。積雪や凍結状況如何では、諦めなければいけない事も覚悟で、集合する事になっているが、先週の集合時は雨だった。明朝は雨になる事はないが、雪が強く降って貰っては困る。兎に角起きてからである。



1/24 一日100通を超えた迷惑メールが、アドレスを換えリンクしないようにしてからは、全くの皆無になり、今度は寂しいくらいになってしまった。そのような状態がもう一年も経つ。

 携帯メールを打つのが遅いから、必然的にあまり送らないので、私へのメールも数少ない。今度は、逆に、こちらの方への迷惑メールが多くなって来た。来ると言っても、一日4~5通であるが、まともなメールが、週に1~2通であるから、着信音がなると、「またかよ!」 となる。英語ばかりの文章か、パチンコ業界と称するものが殆どなのであるが、本当に迷惑な話である。

 そんな矢先のまだ布団から脱出していない早朝に、岡山の杉原女史からのメールが届いた。文章は短かったが、友人が四国の石鎚山に登った時に撮った画像が送られて来たそうで、あまりにも美しかったので、私にも送りたくなったというものであった。 タイトルは、「霧氷と石鎚山」

 「昨秋、カンボジアに訪れてから人生観が変わったので、しばらく山行を中止する。」 と知らされていたので、只、それだけの事だったが嬉しく拝見した。

 親子ほどの歳の差、地元の大会とは言え、入賞するほどの脚力を持つマラソンランナーとしか知らないのであるが、山の友を失うのは寂しい。「如何お過ごしですか?」 の挨拶文は、「また山に行きたくなった。」 のであればいいのに・・・・



1/23 駐車場に高く積み上げられた雪壁も、このところの高温と、まめに崩した事が相俟って、ようやく無くなり、明日から(今宵はもう降り出したが・・) の大雪の予報に備える事が出来る。

 しかし、スキー場の積雪状況を見ながら、どんどん減る様子に、ヤブ山が頭に浮かんで消えない。そして、今度は、降り過ぎて、また凍結で、候補地の取り付き箇所まで、車を乗り入れる事が出来るのだろうかと心配になってくる。

 自分だけの事を考えるのであれば、行き当たりばったりでも良いのであるが、「一緒しよう。」 となれば、ちょっとだけ、グレードを上げなければなるまい。またまた前夜まで、結論が持ち込まれるのは確実である。



1/22 「あの方と一緒したいなぁ~。」 「一度ご一緒しましょうと、約束したのに・・」 「あの方は、どうしているのかな・・・」 また、「メールのやり取りをしているけれど、どんな方なのかな~ぁ。」

 人の心は弱いもの。私などはその典型である。ワイワイやっていると、「時にはなど・・」 と、こじつけて静かな処を求める。そうすればそうで、人が恋しくなる。「誰にも会わなかったね。」 「あまり話しなかったね。」 と山ノ神にも見透かされている。

 気の合った人と山に行っても、そう話す事もない。 「・・・・・・・・」 でも、それで良いのかもしれない。最近は、お酒を控えているから、間の持ち方を工夫しなければいけないが、コーヒーがあれば充分である。そして、「ケーキがあれば・・」 となっていく。ありゃりゃ・・ この頃は、ご馳走になってばかりではないか・・・

 雪のシーズンは、テーブルやベンチが造れて、間が良く、雰囲気も良い。膝に違和感を覚える私には本当に都合がよい。晴れていれば、腰掛けて白い山々を眺めるのが実にいい。降れば、タープを張り、暖を取る。より身近な人となる。

 励まし合いながら登る。時には、フォローし合いながら・・・、持ち寄った食材を皆で楽しみながら、時には、鍋を突きながら・・・、こんな事は、気の合わない人と出来るわけがない。



1/21 山に長く登っていると、それなりに欲というものが出で来る。途轍もない事を考える元気も勇気もないが、行けていない時期に、行けないものかというように・・・

 文明の利器や情報、そして、多くの仲間を得る事が出来るから、そう思うようになったのかもしれない。1月・2月の積雪期では、低山の頂きに立つ事さえ難しかったのに、今や残雪期にしか登れなかった所へ、陽の短い積雪期でも行けるのではと思うようになった。

 もちろん暖冬の恩恵(影響)は見逃せないが、反面、ボロボロの山肌と向き合わなければならない時もある。只、一度行けたからだけの尺度で、遂行すると痛い目に遭う事もあるからご用心を・・・



1/20 知人のK氏から、「誰かに使って貰えないか・・・」 と雨具に登山靴、そして、手袋・ショートスパッツ・ロングスパッツ・リックカバーを頂いた。その用具は、K氏の奥様の物で、本格的な登山をしないもののナチュラリストとして活動しておいでた時の物のようである。

 「山仲間が多い事だろうし・・」 と託して頂いたものだが、もちろん雪山などに行かれなかっただろうし、雨が降れば出掛けられなかったと思うから、美品に近い物ばかりである。

 昨年末にも、70歳半ばのO氏から、「山に行こうと思って買った物だが、一度も履かずに今日に至ってしまった。誰か履く方はいないだろうか? 貴方なら、多くの山仲間がいるだろうから・・・」 と軽登山靴を頂いた。

 K氏も70歳を超えられた。(奥様も、それに近い年齢と推測する。) やはり歳を重ねると、自分の体調の他、連れ合いを含む家族の健康、そして、一緒に行動してくれる仲間、または、理解してくれる人などの条件が、だんだんと崩れていくようである。

 世には、スーパーマンのような方もあるが、そのような方は、ほんの極一部で、そんな事は望んでも、なかなかなれるものではない。日頃の鍛錬・精進に、運が付いて回らなければという事でしょうか・・・・

 そして、一人で生きて行けないと同じで、一人で山はやれない。どれだけ一人で登っても、理解・共鳴してくれる人がいないと、ずっと続ける事は出来ない。HPも最たるもので、誰にも見て頂けなかったら、し甲斐もないであろう。



1/19 19日は大方のメンバーが揃うという事で、「赤谷ノ頭」 を候補に、とても楽しみにしていたが、前夜からの雨に、企画する者として、最終決断を、今朝(集合時)まで延ばした。元々、「好山病・・」 の行き先は、「必ず何処かへ行く。」 という信頼が寄与してか、前日(前夜)に決まる事が多い。

 集合時も雨。最低気温が高いが、「後、気温が上がらない。」 を拠り所に、その雨が雪交じりにならぬかと思えども、そう早く変わるものではない。「雨の小佐波御前山」 へは、なかなか心が動かず、「心を納得させる為にも、とりあえず現地へ行ってみて判断をしよう。」 という事になった。

 しかし、雨は強くなるばかりで、如何に山間地と言えども、伊折橋詰の標高400mでは、期待する雪が混じって来ない。幸い 「所用で遅れるマキちゃんを、待ってから・・」 と決断を先送りとしたのが奏功。(1時間程) 「行かないわけがない。」 の気持ちと、小降りが相俟って、赤谷ノ頭の北尾根に取り付く。

 降水確率が、100%であろうが、「一日中、雨や雪とも限らない。」 それを皆は知っている。登り始めれば、不思議なくらいに雨が小降りになり、その内止み、一部であるが、青空が覗くまでになった。でも、その後は、ずっと雪。穏やかな降り方の時もあれば、猛烈な風を伴った時もあった。

 「好山病・・」 の諸氏は、皆自分の力量を弁えており、助けたり助けられたりが、スムーズに行われ、トラブルなどはあり得ない。今日は、好山病・・メンバー8名に、同会の盟友である岩城君が加わり、尚更のように事は運んだ。(岩城君は、好山病・・に参加するにあたり、「同会には、中止がないから、休み甲斐がある。」 などと言ってくれ、我々はホッとする。)

 食事処のシェルターは、1070mの標高点と1046mの三角点のちょうど中間に位置する最高点で掘る事になった。選定場所が良かったからであろうが、2m掘っても、懸念した小枝が殆ど出ず、きれいなベンチとテーブルが作られた。また、若い衆4人(一人は怪しい)の体力には、いつもながら感心する。

 シェルターの中で、暖を取ると別天地化するが、折からの暴風雪で、タープの上には、あっという間に雪が溜まり、雪下ろし?を 何度もせねばならなかった。「お腹が膨れて、動けなくなるは、いつもの如く。」 

 今日は、田村氏が急に都合が悪くなって不参加となった。ねぎちゃんが、心を込めて田村さんへのバースデーケーキを用意してくれたのであるが、ローソクだけが残念そうに灯っていた。そのケーキに、甘い物は別腹のように、皆が群がっちゃった。

 シェルターを撤収し、雪降る中を、三角点(赤谷ノ頭)に向かったのが、予定通り午後2時。その三角点から、新たなルートを模索するハプニングがあったが、あの演出は誰にも出来ない。

 途中、支尾根に迷い掛けたが、メンバーの機転で難なくクリア・・・ そして、高度を下げる度に腐る雪を、体力を消耗しながら、さわやかに県道馬場島線に降りた。「ライトとの必要が無かったね。」 



1/18 19名の大所帯となったハレルヤ山行は、好天に恵まれ、しかも、私の知らぬ山域に連れて行ってくれた。新田山は、山スキーで親しまれる山らしいが、見渡す限りの山々は、私には馴染みのあまりないものであった。しかし、どの山々も個性的で、見応えのあるもので、時には自分のエリヤから抜け出すのも良いかもしれない。



1/17 明日は、何とか、お昼過ぎまで、お天気が持ちそうな予報である。ハレルヤ山行の幹事シュンちゃんが、多くの山仲間を集めてくれたようである。土日の山行機会が、あまりない私だけに、折角頂くこのような機会を、大事にしなければいけないのかもしれない。

 ちょっぴりシャイな私だけど、好奇心は結構ある。でも、ショーや、かしこまった事は苦手であるだけに、今回は、そっと目立たぬ脇役に徹したい。それでいて、仲間が増えればそんな良い事はない。 p.m.11:15



1/16 昭和38年の豪雪は、確か成人の日の夜から降り出したのではなかろうか・・・ 何日降り続いたか記憶は定かでないが、2週間以上降り続いたのは間違いなかろう。ちょうど私は高校受験の年で、その残雪は、4月になってもあったようだ。(写真がある。) 46年も前の話であるから、「大昔の事だね。」 と言われてしまう。

 そのような事を思い出すと、この程度の降雪・積雪量など、雪の内に入らない。来る日も来る日も、しかも、30~60cm位、毎日降ったのであるから・・・ 
 その何年か後の正月に、(昭和44年くらいではなかったか・・よく覚えていないが・・)、剱岳一帯の大量遭難が起きた。遭難者の数は半端ではなく、数十人、もしかしたら、100人近い数だったかもしれない。(結果的に死者の数は、数名だったように思っているが・・)

 富山特有(北ア北部特有)のドカ雪が続き、身動きが出来なくなってしまったようであった。当時は、県警ヘリや防災ヘリなどがなく、自衛隊への要請となったのであった。大量・特別の事態に知事からの要請となったのであるが、小規模の遭難では、救助隊が下から歩いての活動だっただけに、考えさせられた時代であったように思う。

 今は、携帯・ヘリなどが救助の不可欠のものであるが、「それ故に・・・」 の問題も多くあるかもしれない。我々は、どんな低山歩きであっても、不徳の事態は、いつ起きるか分からない。慎重に慎重を重ねても良いくらいの気持ちで行かなくてはなるまい。 p.m.8:00



1/15 ハレルヤの行き先が決まった。来る者拒まずの他に、お馴染みの方に声を掛けるのだから、リーダーは大変だ。私は、12月の同窓会的山行と兼ねる時以外、その大役を受ける事がなく、ノホホンと着いて行くだけだから楽チンをしている。

 ハレルヤ山行は、雪のシーズンの第3日曜日にと、せっかく私の休日に合われて頂いているのに、前シーズンの3月・4月・5月は、キャンプに出掛け欠席してしまった。気ままな私は、今シーズンも、どのような事になるか分からないので、一つ一つの機会を大事にしたいと思っている。



1/14 降れば、ホ~ッとする。「山沿いの雪の量は?」 「県西部と県東部のどちらに多く降った?」 等々。でも、除雪の事を思うと、げっそりする。延べにして50坪、そして、それに伴う道路もである。側溝や空き地があれば、ちょっとは楽なのであろうが、我が家は、積み上げなければならない。多く降れば、半日ほど悪戦苦闘となる。

 もうちょっと欲しいところだが、これでしばらくは安心?であろう。ヤブを消すには、やっぱりもう少し・・・ 後は、雨やミゾレにならぬよう願うだけ! 全てが自分勝手に思う事。でも、思いや願いだけであるから、他人様に迷惑を掛けるわけではない。

 私の若い頃、いや、子供の頃は、1月や2月に雨は降らなかった。雪が降るか降らないかであった。それが良いか悪いかは別にして、何もかもが様変わりしてしまった。

 除雪体制の違いもあるが、今は奥まで車が入る。これが容易に入山出来る所以であろう。低山でも、真冬は、簡単にてっぺんに立てなかった。交通・情報・装備など、何もかもが変わった。新たな林道・登山道の整備も影響しているかもしれない。

 鍛錬すれば、誰もが行けるようになったのは喜ばしい事であるが、大きな落とし穴に嵌らないようにしなければと思わずにはいられない。

 

1/13 雪山での寒さ対策は、顔・手・足であろうか? 身体は、大概纏う物を準備すると思うが、後は素材だけであろう。足先は、雪の山へ行くくらいであるから、それなりの靴を履いているだろうし、後は、靴下の重ね合わせになるのであろうか? 

 私は、どちらかと言うと、寒がりやなのであるが、山に入ると、そうでもなく、フリースのズボン一枚だけで、大概を過ごせるのである。降れば、もちろん雨具を履くが・・・

 嵐の時の顔、特に耳が辛い。すっぽり覆われる物がいい。そして、温度調節を考えれば、めくれる物が最適か、価格としては目出し帽となる。

 手は、予備として手袋を、幾つも持って行く事に尽きる。後は、価格も気になるところであるが、雪質にも考慮したい。細かい事をしたければ、その対応も考えなければいけないかも・・・・ 手袋をしながら、細かい事が出来る訓練も大事なことみたいである。

 もう一つ、「落とさない。」 「飛ばされない」 の対策が最も大事である。



1/12 小白木峰山行の集合場所八尾に集ったのは5名。北ちゃん企画の小白木峰へは、ちょっと魅力があった。私自身小白木峰へは、真冬どころか、雪のある時期に、まだ足を踏み入れた事がなかったからである。

 林道歩きが、約30分で、取り付きから山頂までの標高差が約800m、アップダウンが殆どなく、登る一方の山であった。その斜度は結構強く、最深では、太腿辺りまでのラッセルを強いられた。しかし、そんな事など物ともせぬメンバー達であるだけに、それどころか、休みもしないのである。

 視界のない寒~い(氷点下7℃)山頂へは4時間を要したのであるが、誰も、その場所で食事処(シェルター)を設置するに手をあげた者はいなかった。

 ちょっぴり高度を下げ、ブナ林で設営する事になったのであるが、ここでも雪不足の所為で、掘るに従い小枝が出て来る有り様。でも、タープが施されると、少々風が吹き抜けようが、黄金の御殿であった。

 いつも寒さを感じると、平成18年1月23日の肉蔵山の事が話題になるのであるが、今日も、その時に匹敵するくらいの寒さを感じたのである。冷たい飲み物より、温かい食べ物に人気が出るのが頷けるというもの・・・

 一時を過ごし、いざ下山に掛かろうとした時、僅かな時間であったが、部分的に青空が覗き、穏やかな小白木峰の山容を望めると共に、遠くに高く白木峰が聳えていた。「あ~っ」 と驚いた光景もさる事ながら、小白木峰と160~70m位の標高差なのに、偉く遠くに感じさせられた。

 後は、降るのみ! 「また来たくなった。」の思いを胸に閉め淡々と降った。降雪は、山を降りてもなお続き、慎重な運転で家路に就いたのであるが、八尾に近付く大きなカーブでスリップし、対向車3台との衝突を曲芸のように免れたのは、運としか言いようがなかった。運があったが、きっと何処かに気の緩みがあったに違いない。



1/11 明日の山行は、小白木峰(1,436.7m)に決まった。体調不良の山ノ神に、不参加を促した訳ではないが、行程の長い山行には、自ら辞退する形になった。ましてや、参加者が健脚揃いとくれば尚更であろう。



1/10 冬至から3週間くらい経ったと言っても、まだ日が身近い。出来れば同じ山を避けたいと思うと、条件にあった所が少なくなってくる。良いに付け悪いに付け暖冬の影響も出ている。雪が少なくて登りやすい(車の乗り入れも含めて)場合もあれば、少ないために、ルートとして取りたくない場合もある。

 そしてまた、予定日の前日に、ドカ雪となれば、過疎化が進み除雪が早めに行われないために、車を乗り入れられない時もある。降らないなら降らないで、降れば降ったで、一喜一憂するのも、宝くじのようで面白いのかもしれない。

 どちらにしても、凍結によるスリップや山間地の雪崩、登高時の滑落・踏み抜きなど、充分過ぎるくらいに注意し行動しなければならない。それでも、避けられない時があるのだから・・・



1/9 テレビをあまり見ない方であるが、若年性アルツハイマーに関する番組を見る機会があった。つい最近まで、普通に仕事をしていた人が、突然のように認知症になるのであるからショックであった。

 その中でも、「新しい事から忘れる。」 が、ショックであった。発症してから、表面に出るまで相当の時間が掛かる(20年程)ようであるから、その間に寿命が尽きれば、迷惑を掛ける事も少ないとか・・・

 私も、その域に呑み込まれているような気がする。「新しい事」 か、どうかは分からないが、「広範囲?」 に渡って忘れるようになっている。これはまずい。本当にまずい。 アッハハハ ・・・・・・

 まだ新しい事でも覚える事が出来るような気がしているが、ハードディスク (頭の中)が、壊れているのかもしれない。山で出会っても、「あんた誰?」 と言うかもしれません。日頃の誤字脱字は関係ないようだが、私より、私の事を、よく知っている人がいるくらいであるから、やっぱり、私は忘れ(ボケ)ているのかもしれない。



1/8 ず~っと前に、ハイキング程度の山歩きをやっていた友人が、山歩きの復活を期して、休日にザックを担いで歩き回っているという。その時間は、私には到底真似の出来ない7~8時間だというから呆れる。

 一昨年に亡くした妻君と、一緒に歩きたかった四国八十八カ所を、今度は自分一人で歩き通してみたいからが動機のようであるが、「私に山へ連れて行け!」 とも言うのである。

 「登山靴が、ちょっと口を開けている。」 と言う。「ボンドなどの接着剤で直るか?」 と聞くから、「購入して長い期間が経っているのなら、張り替えなければいけない。」 「事故を起こしたら、それこそ大変だよ!」 とまで言っておいた。

 当たり外れもあるが、登山靴の寿命は、5年100回、ハードな使用は、3年60回と聞かされている。もちろん、メンテナンスに左右される事は間違いないのであるが、「ケチって良いものと、ダメなものがある。」 と山の先輩面をしてしまった。

 実際、私も手入れが悪く、何足も早くして靴をダメにしてしまった事があった。ソールの減りは仕方がないが、使用した登山靴の汚れを水洗いで落としから日陰で乾かす。乾かし出掛ける前にワックスを塗る。その都度手入れを行っていると、登山靴の異常に気付くというものである。

 さてさて困った。「山に連れて行け!」 という要望にどう応えられるかである。「牛岳」 の名が出た。「牛岳は、時間の無い時か、お天気の悪い時しか行かない。」 と牽制したのだが、「それでも良い。」 と言う。まずは、焦らず、「一度行ってみますから、始めようか・・・」 でも、その日はいつになるか分からない。



1/7 「休日は山へ」 のライフスタイルを、当たり前のように思っていたのが、「山の神 ダウン!」 の様を見るに付け、連日の山行が、我が家としては、オーバーワークだったのかもしれない。「普通は、毎週行っても、毎日は行かないよ!」 との有志からのお言葉を謙虚に受け止め、現在模索中の「自分なりの山行スタイル」 の見直しも、視野に入れなければならないかもしれない。

 「元さん、女性は強いよ。遅いとか、元気がない。とか言っていても、その内に負けるよ!反対になるよ!」 と言われる事がある。よく考えると、「その通りかもしれない。」 と思っていた。

 でも、まだまだ、山の神クラスには負けない。負けてたまるかと思っている。いずれ逆転されるかもしれないが、病気やケガに、気を付けて、緩やかに後退していきたいと思うのである。内心は、衰えはイヤなのであるが・・・

 山仲間ともそうである。この頃は、リードされっぱなしである。そして、これからは、着いて行くのがやっとだと思う。「私でも大丈夫かな! フォローしてくれる?」 の言葉は忘れない。反面、「一緒に行こうよ!」 の声が掛かると嬉しい。
 もうちょっと穏和になり、あいつと行くと「楽しい」・「愉快」 だからなどと、思われるようにならなければ、誘いの声も減っていくであろう。

 「こんな私なのに・・」 と思う程、仲間は私を大事にしてくれる。本当に感謝である。そのような感謝の気持ちを忘れず、ずっと持ち続ければ、例え体力・技量が落ちても、また、面白くなくても、時々は、思い出してもらえるのではないかと考えている。

 そして、今、私は 「何が出来るのであろうか?」 と考える事が多い。私レベルでは、教えてあげられる事はあまりない。後から、「お~い、気をつけろ!」 と声を掛けるのが精一杯か、それとも、やっぱり、もうちょっと鍛錬して、元気を持続する事が、迷惑を掛けない事に繋がるのかもしれない。

 

1/6 今日の山ノ神は頑張った。半分以上は先頭を担った。行く先を「大地」 と決めたのは、昨夜になってからであったが、この時期、とても大地山頂まで届くと思っていなかった。お天気も然る事ながら、日照時間や雪量の事を考えると、当たり前の事である。

 第一目標を、鍋倉山としていたが、2時間でクリア。しかし、お天気は、予報に反してだんだんと悪くなっていくし、雪不足から、ヤブが煩くなっていく。新たな雪が積もっているが、夏道に沿ったトレースがあり迷う事はなかった。

 密かに大地山頂を狙っていたが、士気低下に繋がると考え、せめて、「大地の山域と呼ばれる所まで入ろう。」 を提案し先に進んだ。雪が降り始め雨具を纏う頃から、山ノ神は、「展望もないから、いい加減に止めよう。」 と提案し始めた。それが顕著になったのは、テン場として使われる標高980m付近であった。

 私は、逆に、「時間は、まだたっぷりあるし、展望が望めないから、せめて山頂に立ちたい。」 としたが、その時から、山ノ神のペースが上がった。「これが大地か!」 と思うヤブ中で、新雪を踏み締め、しかも、雪が強く降り出したのに、山ノ神はドンドン先に行ってしまったのである。(怒るとこうなるのである。) こちらの方が、荷が小枝に遮られたりして、ペースダウンの有り様。

 GPSがなければ、何処が山頂か分からないほどのヤブ林の中で、ボー然としてしまった。大好きな大地であるが、あまり美しくない姿も見ておくのも良いのかと勝手に呟いてしまったが・・・

 下に降りて食事を提案したが、今度は山ノ神が、「どんな事で視界が広がるか分からない。」 と言い出したので、それを受け入れ、山頂での食事処を造る事になった。フワフワの雪では、なかなか纏まらなかったが、深く掘ってタープを低くして、その中に潜り込んだ。幸い風も弱く、温かい物をお腹に入れて寒さを凌いだが、「細蔵山に匹敵する程の寒さじゃない。」 の言葉まで出るくらいやはり寒かった。

 飲み始めた山ノ神は、「私は山頂は、どうでもよかった。」 「ねぎちゃんも止めようと言うと思っていたのに・・・」 などと零していたが、「この時期、大地に登れる事は少ないのだから・・・」 「自慢してもいいから・・」 などの言葉で、次第に平穏になっていった。

 寒さの中で、記念写真を撮る事となったが、「何処のヤブの中で撮った写真なのか?」 と言われるのではないかと、大笑いしたが、「行った者だけが分かれば良いのでは・・」 とお互い顔を見合わせ納得のように思えた。



1/5 当初予定していたキャンプを中止し、日帰りの大辻山とした。前長尾山から長尾峠に出て、長尾山から奥長尾山を経由して、大辻山頂を踏んだ。国少の家から4時間であった。トレースがあったが、テーブルがなかったという事は、前日のメンバーは、大人数ではなかったのかもしれない。

 今日は我々二人だけ、時折、陽が差すお天気に、キャンプを止めた事が少々悔やまれた。山頂では、充分な雪壁を造る位の雪量があったし・・・

 下山し始めた頃から雪が降り出したが、大した事もなく、林道に沿って国少の家に戻った。全行程8時間であった。



1/4 2日の牛岳から降りて駐車地点に戻った時、牛岳の3妖怪と目される内の一人粟野氏とお会いした。(3妖怪とは、秋山・粟野・寺口氏=自分で運転し、単独でも雪山に・・・、そして、いずれも大正生まれ)

 4年前の1/2、やはり牛岳でお会いしたのであるが、対等にラッセルをこなされる様子を拝見し感心したのであった。同氏は、昨日も様子を伺いに登山口まで来られたらしく、私にも雪量やトレースの事を尋ねられた。

 「明日(3日)に登ろうと思っている。」 と言っておられたが、「山そのものより、人が恋しくて・・」 の言葉が印象的であった。あの元気さも、そのようなところから出ているのかもしれない。

 持論であるが、相手を傷付ける事さえなければ、同じ事を何度言っても許されるのは、同窓会と趣味の会だけである。また、少々歳の差があっても、目的(語る事)が同じなら、あまり苦にならない。

 同氏も平場におれば、只のおじいちゃんであろうが、山には入れば、「元気なおじいちゃん」 「山の先輩」などと称され、良き気分になるのではなかろうかと、勝手に推測した。

 妖怪と目される方々の年齢まで歩けるのであれば、まだまだ充分に時間がある。鍛錬を怠らず精進に努めるが、大先輩方々も、更に記録を塗り替え続けられれば、我々の目標も高く大きくなる。 p.m.4:40



1/3 お正月の3日は、「千石城山」が、平成10年から続いている。平成18年だけは、好山病のメンバーと小佐波集落から小佐波御前山へ出掛けたため行かなかったが、よ~く、続いているものだ。(平成11年は5日、平成12年は4日であったが・・・)

 元日や2日に登られた方達のトレースの上に、5~10cmの新たな雪が積もっていたが、とても歩き易く、配水場上の林道交差地点から歩き出しても、1時間は掛からなかった。

 3日の千石城山一番乗りに気をよくして、ゆっくりするために、また、例年訪れられる仲間達と語れる場をつくるために、タープを張り始めたところへ、池田氏が登って来られた。その後に、佐渡・室谷氏のコンビが・・・

 また、初対面であるが、吉尾氏や辰口氏の知人であるという森川氏、そして、魚津から単独行の西村女史が加わられ、タープ下のベンチは、俄に賑やかになった。しかし、お正月のご馳走に飽きた皆さんであったのか、テーブルの上には、何も並べられなかった。

 寒くなって腰を上げたが、長い喋りは、他の登山者の方々に騒音となって聞こなかったかと、ちょっと心配と反省。でも、内容は、山の話であり、他の登山者と言っても、そう多くもなかったし、それも、ぽつりぽつりであったから、気にする事もないか・・・



1/2 「臥牛山」 のお誘いは、子供達の帰省を考え、時間的には、ちょっときつかったので、断ったのであるが、企画者や参加者のHPを見れば、「私が行かなくて良かった。」 であった。

 私は、「牛岳」。特別「丑年」 に拘っているのでなく、お正月の2日は、牛岳が定着しつつある。3人の子供達全員の帰省がなくなったから、山ノ神を誘ったのであるが、「箱根駅伝」の方が良いと軽く蹴られてしまった。

 雪量が少ないと見越し、林道に車を入れたが、300~400m進んだ所でリタイヤとなり、所定の駐車スペースに移動してから行動を開始した。始めからスノーシューを着けた。林道登山口では、30~50cmの積雪を観測、これでは車で来られるわけがない。

 今日は先行者があり、トレースに従えば、意外とスムーズに歩く事が出来た。尾根ルートは、雪量が足らず、時折、小枝の跳ね返りを受けたり、その小枝が危うく目に入りそうになる事もあった。

 先行者は、昨年同じ日にお会いした高岡の坂田氏であった。「三角点で折り返して来ました。」 と言われ降って行かれたが、山歩きを始めて、まだ浅いと言われるには、若いからもあるが、なかなかの健脚である。そのトレースのお陰もあり、三角点には、2時間40~50分、トレースのない山頂までは、3時間余であったから、深雪でなかったからなのかもしれない。

 山頂に着いた頃は、風雪が強くなり、とても寒かった。山頂下の東屋に降りたが、階段も床底とフラットに、また、テーブルも雪で隠されてしまっていた。そんな雰囲気の中では長居する気になれず、小枝を気にしながら、降りも往路にしたがった。



1/1 私の元日登山の歴史は浅い。子供達の事は別にして、出向かなければいけない親戚と、昭和42年の元日から続いている新年会があるから、どうしても時間がなかったからである。

 しかし、母亡き後からは、その親戚への挨拶も割愛させてもらう事とし、平成16年から、地元の二上山を登ることにした。そして、新年会も、少し時間を遅らす傾向になった事を幸いに、平成19年には、城ヶ平山、平成20年には、八乙女山に行く事が出来るようになってきた。

 今年は何処へと考えた時、尖山が候補にあがった。アルペン村から歩いたとしても、高岡からの発着7時間があれば大丈夫と計算したからであった。

 ところが、登山口まで車が入った。無理矢理の感は歪めないが、そうなれば、逆に時間が余る。山ノ神の言葉を借りれば、「もう一本、持ってこれば良かった。」 である。

 入れ替わり立ち替わりの山頂で、「もしかしたら・・」 の声が掛かった。わたすげ夫妻を見て、私も思わず「あ~っ」 と言ってしまった。2年前の赤祖父山(扇山)で、ちょっとだけだったけれど、お話し写真を撮った事があったのである。

 同夫妻は、思った通りの穏和な方々であった。あれこれ話が弾み、その後は、お互いの共通の友人である池田氏・シュンちゃん・筏井氏などの事も話題にし、最後は、やはり山ノ神の事になった。「どれだけ飲めるのですか?」 である。これは、私の責任か (文責)・・・