4/30 4/27夕、8号線を走っての帰宅中、エンジン警告灯のランプが点いた。翌日、早速ディラーに持ち込み点検をしてもらったら、コンピューターの誤作動ではないかの事で胸をなで下ろした。ところが、今夕、それから始めて車に乗ろうとしてエンジンを掛けようとしたが掛からない。「こりゃ!えらいこちゃ!」 この連休中にみてもらえるのかの不安が脳裏を過ぎった。もちろん高額の修理代もである。そして、私の山行の大ピンチである。



4/29 今年も明日で1年の1/3が終わる。「早い!」 「本当に日の経つのが早い。」 幾つになっても、私は本当に有意義な日を送ったのだろうかと思う。 「これでいいのか・・・」 の連続である。その問答・繰り返しは永遠に続くのかも知れない。

 山の難度は別にして、27回(28日)も出掛けているのであるから、少々足が痛くても、私は幸せの部類であるハズ。雪中キャンプが1回しか出来なかったとか、目的とした山に行けなかったとかは、とんでもない欲というもの。「行ける。」 「行けた!」 に感謝しなければならない。慣れとは恐ろしいもの、「当たり前」 と思わないように注意しなければいけないところである。



4/28 娘の出産予定日が5/13で、「5月に入ったら山へは出掛けない。」 と言っていた山ノ神であるが、このところ、考えが変わってきたようである。5/2にムコ殿が来高の予定。(いつまで滞在か聞き及んでいないが・・・)  我々の休日は、5/4~5/5である。「ムコ殿が付いているから、一日ぐらい山に出掛けられるのではないか・・・」 と言うのである。

 しかし、「夕飯まで戻らなくてはいけないのではないか・・」 とか 「一日ぐらい一緒に何処かへ行かなくてはいけないのではないか・・」 とか結構煩い事を言う。つい先日までは、「行かない。行けない。私に対しては、泊まるな!遅くなるな!」 などと言っていたのに、今度は、「行く!行かない!」 と私を翻弄する。

 何も出来ない私を、自由にさせておれば、一番楽なのではないかと思うのであるが、なかなかそうはさせてくれない。ピッケル・アイゼンを使うような山に行けるか、それとも山菜のある山になるか、まだ時間があるだけに行く先は決まらない。



4/27 出発前の午前6時過ぎ、鍬崎山(大品山に変更)を目指すねぎちゃんと電話連絡をすると、粟巣野は雨に雪が混じっていると言う。北ちゃんの「こっちにおいでよ!」 の声が聞こえたが、「今更、雪の山に、二人ではちょっと・・・」 と、当初の予定通り松瀬から夫婦山を目指した。

 この山域で山菜を採った事がなかったが、登山道を10分も歩かない内に、山ノ神が、ネマガリダケの中に突入! いつの間にか私も追随してしまった。「まだ早いかな!」 と思っていたススダケをゲットして頗る満足。これでほぼ目的を達成したと思う山ノ神であったが、私はやはり山頂に拘る。例え低い山でも頂に立ちたい。立たなければ山に行った(登った)気がしない。

 ゴミ袋いっぱいになったススダケをデボして山頂に向かうに連れ、雲間から青空がのぞき始めた。見渡せば、700~800mから上部の山々は雪化粧となっていた。夫婦山頂にもその名残があり、向かいの戸田峰は真っ白になっていた。

 ススダケ以外はコシアブラがちょっぴり。「もうちょっと欲しい・・」 となり、早月に向かった。中山にもの思いがあったが、コゴミ・タラの芽・コシアブラ採りに時間を費やしてしまい登る時間がなくなってしまった。もっとも、娘の事もあり、「早く帰らなければ・・」 であったが、馬場島にも足を伸ばし、白萩川に架かる木製橋まで行ってしまった。 (積雪10cm)



4/26 明日も、気温が低く雨の予報。二人とも行くとなれば、「いい加減の時間に帰宅しなければ・・・」 が脳裏から離れず、あまり遠くへも行けない。幸い予報が悪いし、山菜採りの中心の山行にしようと思っている。野積川(夫婦山)と早月川(中山)が中心になるが、お天気や出発時間、また、山菜の収穫次第では、一カ所(一座)になるか二カ所(二座)流動的である。



4/25 剱岳に初めて登ったのは、柴崎測量官一行であるが、(明治40年7月) 民間人で初めて剱岳に登ったのは、河合良成であると、若い頃、何かの書物で読んだ事があった。河合良成(旧制高岡中学→四高→東京帝大 第一次吉田内閣の厚生大臣 小松製作所の創業者)

 柴崎測量官一行の翌年であると記憶していたが、調べてみると、2年後の7月で、仲間4名と長次郎を含めたガイド3名とで、同じルートを辿ったようである。昔は、信仰登山を除けば、旧制高校・大学などの学生や、時間があり豊かな生活をしている人達しか登っていなかったのでは・・・・・・

 その河合良成は、福光に生まれ、父親の仕事の関係上高岡市伏木で育ったようである。正力松太郎は同級生で、福光では、松村謙三が隣の家だったとか・・・ 私は、その頃、「民間人で初めて・・・」 に非常に興味をもったものである。



4/24 この頃、孫の事で、皆にもてあそばれている。「山も、しばらくは、お預けみたいですね!」 とか、「ちょっと、出にくいようですね。」 のメッセージを頂くが、 慰めのような、また、お見舞のような感じに受け取れる。でも、これまでの事を思えば、何があっても、ちょっとの間隙を縫って、何処かへ出掛けていた実績?がある。

 それを「山歩き」 「登山」 と認識されるかは別にして、山の空気を吸いに行っている事は間違いない。ライフスタイルとして定着しているのであるから、元気(気力)さえ失わなければ、まだまだである。でも、こんな事を何年も続けているのだから自分ながら本当に可笑しい。

 唯、このような状態では、なかなか自分が企画して誘うような事は出来ず、誘われてもキャンセルになったり、ギリギリまで返事が出来ない事になり迷惑を掛けてしまう。(でも、気の合う仲間がいると楽しい!) 次の休日(4/27)は、傘マークであるが、出掛けないわけがない。山菜がメーンになるかも・・・・ でも、どんなに低くとも、ピークの一つには達したい。



4/23 娘の出産予定日まで後20日になった。その娘のお腹を見ながら、30年前を思い返すがよく覚えていない。父となるのと祖父になるのは、雲泥の差があろうが、その期待と不安の度合は計る事など出来ない。

 「男に何が出来る・・」 と言いながら、知らず知らずの内に、ウロウロしたり余計な一言を発しているのかもしれない。最終的には、「邪魔だから、やっぱり山でも行っておられ・・・」 になるような気がする。

 どんなに歳を重ねても、知人・友人・親戚から、「元ちゃん」 と呼ばれれば、耳障りが良く心地がよい。「元さん」 は、歴史が浅くまだ5年である。それが、今度は、「元じい」 と呼ばれてしまうのであろうか・・・  以前、そのような事を言って、笑っていた事があったが、現実になろうとは、あまり考えていなかった。「じい」 と呼ばれたくない。でも愛称なのだからと割り切ればいいのかもしれない。といっても、身体が思うように動かなくなりつつあるのだから致し方ないところか・・・・・



4/22 高岡市民美術展の新聞記事や私のHPを見られたわけでもないのに、たまたま私達の作品を見つて下さった友人から聞き及んで、展覧会場に足を運んで下さった方があった。差ほどの作品でもないのに、唯、「山」 という一点で見て下さったのかもしれないが、恐縮しながら感謝の気持ちでいっぱいである。

 「元々、自分の気に入った写真を大伸ばしにしたい。」 の延長が、美術展への応募となったのであるが、やっぱり展示されてホッとしている。「眩耀」 と 「初雪山早春」 の二人の作品は、一般公募数(写真部門)95の中で、選外が16もあったのだから、やっぱり喜びとしなければならない。



4/21 「賀状を頂きながら、失礼しているうちに、冬も終わり春の到来。全休日山行とは・・・」 から始まり、チューリップ・菜の花・桜が一緒に咲き、尚かつ、バックに白い山が聳える写真付きのお便りを頂いた。

 一定の年齢に達したので「賀状は止めます。いりません。」 の連絡を頂き、ちょっと寂しい思いをしたのであるが、「お返事はいりません。私は勝手にお出しします。1年に1回の事ですから・・・」 こんな経緯のある中でのお便りだけに、小躍りしながら喜んでしまった。

 一度しかお会いした事がない上、私より幾つ年上か分からないながら、心に残る気品の高い女性であった。もうお会いする事もないであろうが、それこそ、年に一度か二度お便りを頂けたらと欲が働いてしまう。私は、こんな事で、ドキドキしてしまう世代である。



4/20 「何処かへ・・」 の気持ちがありながら、何もしないで(準備もしないで)寝てしまった。PCの前でうたた寝中、椅子から転げ落ち危ない目に遭い(コンクリートの床に頭をゴツン!) これではダメだと思い寝てしまったのである。午前3時40分のアラームに目を覚ましたのであるが、身体が、いう事を利かず、行き先を「人形山」へと決めて出発をしたのが、6時にちょっと前となった。

 登山口まで車を乗り入れる事が出来たので、この際、人形山だけでなく三ヶ辻山も登ろうと思った。。晴天とは言えないお天気であったが、雨の心配もなく、自分のペースで歩ける事に喜びを覚えた。もっとも、行き先も時間も不明確では、誘う事も出来なかったし、我が家の事情を察してか、誘いの声も掛からなかったが・・・・

 人形山と三ヶ辻山を登り終え、その分岐に戻ったのは、登山口を出発してから、4時間半であった。各々の山頂で20分程の滞在であったが、特別の食事時間を取ったわけでもなく、梯子坂を降りた所で、三ヶ辻山を眺めながら腰をおろした。その山頂を眺めながら、往路で崩落しそうな雪庇上を歩いたが、復路は、面倒であったが、ヤブ中に求めた事は正解であったと勝手に頷いていた。

その余勢を駆って、春木山にも足を伸ばした。そんなに時間を必要としない事もあったが、「自己満足の拡大」 のためとなった。登山口へ向けて、滑って転んでもルンルンであった。それよりも行程が7時間。明るい内に家に戻れる。危険な所でなければ、俺もまだまだ歩けるのではの気持ちに大満足であった。しかし、家に戻ったらカギが掛けられていた。

 

4/19 午前5時40分に、ハレルヤ高岡隊を見送った。午後5時過ぎに帰宅した山ノ神に聞けば、取り付きは、中尾根ルートで斬新だったようだ。総勢16名、山頂滞在は3時間。暖かで展望も良く、随分楽しかったらしい。そして、出て来る料理に、今日もまた、お腹がいっぱいになったようである。

 留守番役の私は、まだ娘が休んでいる間の4時間余を利用して、「山菜の下見」 と称して「砺波の山」 へ出掛けた。それが、いつの間にか987mのてっぺんに立っていた。まだ多くの残雪があり、時間短縮になった所為もあり、10時過ぎには帰宅し、娘が友人の結婚式へ出掛ける時間には、充分に間に合った。

 その間、高岡市美術館に出掛けた。掲げられている他の作品を見ながら、インパクトの小さい自分達の作品に、ついつい、うつむき加減になってしまった。「その道にその道の・・・」 があるようだ。 (習字が書道、柔術が柔道のようにである。) 落胆しながら、葉桜の下を歩いていたら、どっと疲れが出た。

 家に戻って、二人ともお腹が空いたが何を食べようかと纏まらない。そして、その行き先が、マクドナルドなったのだから、何だか可笑しかった。若い人達や家族連れに混じって、娘と二人で、今まで持てなかった時間を楽しんだ。その帰りは、スーパーまで寄った。

 二人だけで歩く事などなかったから、私はちょっと照れてしまった。「夫婦に見えないか?」 「 不倫カップルに見えないか?」 にの答えは、「見えるわけないでしょう。」 と大笑いされてしまった。娘と言えども、若い女性と一緒に歩く機会など全くないから、何だか不思議な体験をしたような一日であった。



4/18 今度は、ディスプレーがダメになった。S先生のアドバイスでEIZO(ナナオ)を買った。国産でなかなか良いメーカーらしいが、私は全く知らないメーカーであった。それにしても、よくも次から次へと故障が起こるものだ。昨夜は、山用具屋から、スノーシューが直ったとの連絡があったし、まるで私の身体が蝕まれていく様が地でいっているような感じである。

 明日のハレルヤ山行は晴れである。何人の方々が参集されるのか知らないのであるが、きっと大辻山は賑やかであろう。留守番の私は、この時とばかり、美術館に足を運ばなければなるまい。



4/17 明後日(19日)のハレルヤ山行(大辻山)へは、山ノ神だけが参加する事になった。一人では山歩きが出来ない山ノ神であるだけに、大勢の山仲間とでは、安心だろうし、楽しく過ごせるハズ。

 「私は留守を預かる。」 と断言したが、とても自信がない。粋のない顔をさらけ出すだけであろう。娘は、「私は大丈夫だから、二人で行って来たら・・・」 と進言してくれるのであるが、先の山ノ神の言葉が耳から離れない。それよりも、山ノ神の気晴らしになれば 「御の字」 である。そして、翌日に、ご褒美をくれればそれでいい。



4/16 思い付きを綴る当欄故、ややもすると、誤解を招いたり嘲笑われたりする。それを、承知で尚かつ綴るのであるから・・・・・ (私も大したもの???) でも、一番気を付けているのは、山の事で知ったかぶりをする事である。山に関しては、大先輩方が多く、あれやこれやと述べられない。山の雰囲気や山行中に感じた事以外は、それこそ謙虚な態度を続けているつもりである。だから間違いを指摘されても、まだお叱りを受けた事はない。

 だが、世とは難しい。「面白くなければ見なければいい。」 「気にくわなければ見なければいい。」 のに、そうでもないらしい。例えば、山ノ神に対する私の記述は、結構女性を侮辱しているようである。「自分の妻を褒めてどうする。」 「貶せば貶すほど・・・」 とは昔の話のようであって、我が事のように感じられる方もあるのかもしれない。実際、奥様の事を 「政所」 と称し、面白く記述している方が、その友人達に抗議を受けた事があると聞き及んでいる。怖い話である。

 私も、一度だけ、「か~っ」 と来た女性から、お叱りを受けた事がある。でも、その後、「何で、そんなになったのだろう。」 と謝りとも訂正とも思えるメールを頂いた。そして、おかしなもので、その女性と山ノ神との三人で、山行を計画するまでなった事があった。

 また、文面と違った印象を受けたと言われた事もある。それが、褒め言葉なのか、そうでないのか分からないが、喋り方一つ、あるいは、文章から伝わる印象など様々であり、返す側にも大いに影響を受けてしまう。

 言葉尻が強く当たるところもあろうが、これは「日記的」 記述をしていたためで、何様のつもりもない。今更優しい言葉を引用すると、「ちょっと」 となるのは必死であるから、そのスタイルを変える事は出来ない。



4/15 本日、高岡市美術展実行委員会から2通のハガキが届いた。18日から開催される市民美術展の審査結果の知らせである。封印されたラベルを捲るのにも、宝くじを引くような思いであった。

 有り難い事に、二人とも、写真部門で入選の栄誉?であったが、「入賞」 には届かなかった。当たり前である。高価なカメラで撮っているわけでもないし、センスがいいわけでもない。只、記録的ではあるが、他の人達と比べて、負けないくらいに、シャッターを切り続けている事は間違いない。

 もう、こんな難しい事は、私の生には合わない。家に飾る延長線が、たまたま展覧会に飾ってもらうだけの話である。でも、そんな機会を得て、目を肥やすのは、良いに決まっている。



4/14 「泊まるな!」 「長いのは (帰るのが遅くなるのは) ダメ!」 一向に収まらない私の山への憧憬に、山ノ神は痺れを切らしたようである。「娘を預けてあるのに、両親が山に・・・」 では、ムコ殿に申し訳ないという事なのであろうか? それとも、「危険がいっぱいの山であるから、娘に心配掛けるな!」 なのであろうか?

 予定日まで、まだまだ、日にちがあるし、何か兆候があれば、なんぼ私でも自重するに決まっている。週一で、しかも24時間でもない。私が家にいて何をする。正気を失ったような私の顔をみていても面白くないハズ。

 そして、「5~6時間ほど (留守にする時間) なら、一緒に出掛けていいのでは・・」 などと言うのは、どういう事なのであろう。暗に 「山菜採りに時間を費やせ!」 という事なのであろうか・・・

 本当は、狂ってしまった山ノ神のライフスタイルと、のほほんとしている私の行動を比べて、ストレス、または、山行への嫉妬が、そう言わせるのかもしれない。もう、ここまで来れば、正しい正しくないでは片付かない。

  次週は、幸い仲間からの誘いがあるし、「今度は、あんたが、行って来られ・・・」 と山ノ神に勧めている。まだ、何も起こらないと思うから、私でも大丈夫である。でも、その間隙を縫って出掛けるかもしれない私が心配なのであろうか・・・



4/13 人津谷から前大日岳・早乙女岳へ、そして、コット谷・小又川へ降りる企画に乗せてもらったが、あの元気者達に付いて行けるのだろうかの不安と共に、谷筋の雪が残っているのかも心配であった。

 藤橋付近のゲートが開けられている幸運に、クムジュンまで車で入れる事が出来、30分程の歩きが助かった。さすがに、人津谷への歩き出しは雪がなかったが、奥に入るに従って、雪量が増え、スノーシューの有り難さを感じる。

 文研前進基地の積雪は、2m50cmであるから、例年に比べ凄く少ないように思われた。雪見平への急登を凌げば、称名峡谷を挟んで、弥陀ヶ原の後方に、薬師岳や鍬崎山の雄姿を眺めながらの稜線漫歩となり、振り返れば、臼越山や七姫山・大辻山の山並みが、ちょっとだけ雪を乗せて連なっている。

 朝方、雲に覆われ、ポツリと一滴頭に落ちたが、前大日岳への稜線では、予報通り青空が広がった。この分では、早乙女岳山頂に意外と早く届くのではないかと思われた。しかし、あの元気者のねぎちゃんが、前大日岳で身体の不調を訴えた。「迷惑を掛けるから、一人で下山する。」 と言いたげであったが、「山頂までは、もう少し、コット谷を降りた方が、楽で早いよ!」 の甘く巧みな言葉に、ついつい・・・・・・

 でも、ねぎちゃんは、頑張った! メンバーも励ました。荷を分け合って担ぎ、励ましのエールを送り続けた。また、シェルターを造りに走った。2倍も3倍もの時間を掛けて山頂に辿り着いたねぎちゃんは、雪のベットに倒れ込んだ。そして、食べ物も喉を通さなかった。

 しかし、鍛え上げた身体だからであろうか、1~2時間を経過すると、見違えるように元気を取り戻した。コット谷では、快走という言葉が当てはまるような歩き、そして、小又川の徒渉では、若い衆の導きで難なくクリアしていた。車に乗ると、もうすっかり元通りになるほどの回復力は只者ないと思った。

 前日、笈ヶ岳に出向いている長勢・岩城の両君は、口では筋肉痛だと言ってはいたが、それを感じさせない脚力で、今日のコースに、大日岳や大熊山を加えても何ら問題がないようであった。また、残雪が殆どない小又川でのルート選びも難なくやってのけ、我々を導いてくれた。本当に感謝である。

 この企画をした北ちゃんは、上手く若い衆を持ち上げ、パーティーを纏めていた。もっと速く歩きたかっただろうに、これまた感謝である。久し振りに強者達の仲間に入れてもらったが、楽しく勉強になった山行であった。持久力だけの山行であれば、まだまだと言いたいところであるが、バランス感覚を必要とする危険を伴う山行は、私にはもうダメのようである。



4/12 「私の行けないところだから、行ってもいいよ!」 というくせに、「あの山に行きたい。」 とも言う山ノ神。娘の事を任せっきりだし、ちょっと、この言葉が引っ掛かる。どうしても言われれば、仕方ないと割り切ろうと思うのであるが、「あんたに任せる。」 と言われれば、ならばとなる。

 でも、来週の企画を通そうと思えば、この辺でサービスをしておかなければと、心が揺れ動いた。もっとも、明日の行程は、ロングコースであり、怖いもの知らずの若い衆に、付いて行けるかのジレンマがあったが、結果的には、山ノ神の意に反する事となるようである。



4/11 娘が初産のため帰ってから、ライフタイルが変わった。極楽トンボの私には、差ほど影響ないが、山ノ神は、そうはいかないらしい。父は、何の役にもたたないが、母は、やはり何かと充てにされるからである。

 歩いてないと、「果たして皆に付いて行けるのか・・・」 と自信がなくなり、控えめになってしまうから、どうしても、私が頼りになるらしい。選択範囲を狭められ、尚かつ、行くか行かないかも、間近でないと、分からないのでは私も苦しい。

 家庭平和のためには、山ノ神の意見を蔑ろにせず、自分の欲望を抑えなければならないだろう。だから、直近まで決断出来ず、仲間に迷惑を掛ける事になる。しかし、これも人生!



4/10 義理の従兄弟が、志水哲也氏の写真集を置いていった。題材は「黒部」である。70歳半ばを過ぎている彼は、私に何を言いたかったのかよく分からないが、素直に甘えた。

 昭和56年7月、2歳10ヶ月の長女を担いで登った薬師岳に、当日の朝一緒したいと言って来た人でもある。一見元気そうな彼も、今癌と闘っている。3~4年前、腎臓を摘出したが、最近、肺に転移し抗癌剤を投与しているという。でも、楽天的な彼は、とても病人のように見えない。それは、生きている現在に感謝し、自由奔放に生きているからかもしれない。特別の人ではないが、彼からは人間らしさが伺える。



4/9 ようやく鼻が通り咳も出なくなった。寝込まずに風邪を通過させるためには、三日間が必要で、後は、栄養・休養・薬となる。酢物を食べる時は咳き込んだが、それ以外は美味しく食べる事が出来き、休養とは山に行く事だし、薬は 「山の空気」 となる。

 二日間の好天は、日焼け止めを、少々塗ったぐらいでは通用せず、真っ黒な汚い顔をしている。シミなどの後遺症が、気になるところであるが、黒い顔には些かの悔いもない。

 来週から始まる高岡市美術展の写真部門に、夫婦揃って応募する事になった。昨年、おだてられて出品した山ノ神の勢いに、惑わされたわけでもないが、ちょっと色気を出す形になった。私達の写真は、小さなカメラで、記録的に撮る事が多く、美術的要素は少ないと見ている。しかし、多くを撮ると、中には紛れ当たりがあるのではないかの錯覚に陥る。

 ともあれ、何事にも挑戦とは、ワクワクしてたのしい。外れたら恥ずかしいから、本当は結果が出てから報告すればいいのであるが、もう 「賽は投げられた。」 のである。展示されれば(入選)いいのであるが・・・・・・



4/8 昨日も12時間歩いてしまった。「自然を堪能するには、お花見であってもいいのに・・・」 私は、またまた、山を選んでしまった。もうそろそろ、「全休日山行」 と決裂し、「行きたい時に行く。」 スタイルに変更してもいいのに、何故かそれは、自分の人生そのものを、否定してしまうように思えるからかもしれない。

 「何にもないのに・・」 「特別の事もしていないのに・・」 それは、自分の心の問題なのであろう。「山・やま・ヤマ」 と、粋がっているだけなのに・・・・・・ネ。    「歩かないと、次行く山に自信が持てない。」 と言っているが、それよりも、「自分に負けたような気がする。」 からではなかろうか・・・・・ それが、拘りとなっているのかもしれない。

 やがて、歩けなる不安も、そうさせている事は間違いない。一日、一回を大事にし、それを積み重ねて行きたい。膝も股関節も痛い。いつ、歩けなくなるかもしれない。でも、焦らず、歩ける事に感謝し、少しでも長く続けたい。今回また、スノーシューの故障に気が付いた。3回目である。自分の身体と重ね合わせてしまうほど、弱気になるのは何故であろう。



4/7 「午前5時から歩きたい。」 の思いがあったから、午前3時半に、アラームをセットしたが、身体が起きてくれなかった。それでも、5時に家を出て、スーパーで買い物をして、片貝第2発電所を出発したのが、午前6時半前であった。

 今日は単独行、そして、好天である事から、ゆっくり食事をする事もないと思い、シャベルにタープを外した。コンロとコッヘルも外した。でも、ピッケルや三脚を担ぐので(林道はスノーシューも)空荷と言うわけにいかない。

 林道は、先の谷の工事(阿部木谷と思われる)のため、例年より早く整備されていて、意外と早く登山口に着く事が出来た。何の支障もなく車が入れるのにと思われるのであるが、「通行止め」 は、当局の考えであるから致し方ない。

 もっとも、私自身、片貝山荘から僧ヶ岳登山口間で、雪崩のような落石に見舞われた。幸い被害に遭わなかったが、頭程の大きさの石・岩が、私の前後に落ち、度肝を抜かされてしまった。おかしな音と思っても、早々距離を稼ぐ程動けないものであった。

 林道歩きが1時間45分であったから、早立ち出来なかった部分を補った思いであったが、如何せん、登山口から、いつもスノーシューを装着する標高1200m付近までの間にも雪があり、その雪が、あるような、ないような中途半端の状態で、予定より倍の時間を要してしまった。

 スノーシューを装着してから、トレースのない真っ白な雪山を、スイスイと行く積もりであったが、雪質が思った以上に柔らかく、ゴボッて体力を消耗してしまった。しかし、私としては、近年にない美しい山に映った。

 亀裂のない稜線に、トレースもない。もちろん黄砂で、汚されていないのであるから、「疲れた!」 といっても、心は先へ先へと心が躍った。日が経つに連れ、雪解けが進み、浮遊物で雪肌が汚れる様を想像するに、「今日来て正解!」 と自分に納得させた。

 僧ヶ岳山頂に辿り着いたのが、午後1時を回ってしまっていたから、数枚の写真を撮り、私の山行史上、もっとも短い山頂滞在となる記録を作って下山となった。後続に福光のS氏があった。多くは語れなかったが、凄く感嘆の声を上げておられた。あの感激は、山好き同士として、共有出来るものかもしれない。今日も、2時間半の林道歩きで、いっぱいのフキノトウを採ってしまった。



4/6 佐古からの林道歩きは予定通り。大多和の取り付きから、1000m付近まで雪がなく、また、白樺林直下の斜面も雪がない。しかし、その先は、真っ白な雪上と、真っ青な空が待っていてくれた。

 鼻を詰まらせ、咳をする山ノ神の歩行は順調ではなかった。「このところ、歩いていないから・・・」 と言ったが、病からの身体の重さに、食べられない(食べない)が加わって、ちょっと行っては休むの繰り返しであった。

 密かに企んでいた 「髙幡山も一緒に」 の思惑は、時間経過と共になくなってしまい横岳山頂でゆっくりに変わっていった。しかし、家で待つ体調の悪い娘の事もあり、食事をしながら、薬師岳や北ノ俣岳、黒部五郎岳・笠ヶ岳を眺めておれば充分というもの。

 立山周辺や槍穂辺りが霞んで来た頃に、山頂を後にした。ヤブを避けようとして、往路より東側の斜面を降りたが、やっぱりヤブに代わりがなかった。帰り道の林道歩きは、フキノトウ採りに精出しその辛さはない。

 「明日は僧ヶ岳に行くのか?」 と聞かれたが、自分も鼻水を垂らし、咳が出る状態であっただけに、「起きて見てから・・・」 としか言えなかった。



4/5 明日からの連休も、我一人テン泊という雰囲気ではない。でも、明日はピーカンの予報であるから、片貝第2発電所から歩く僧ヶ岳を考えたが、山ノ神からストップが掛かった。「何処かへ連れて行け!」 である。

 「そのような体調で行けるのか!」 と問うと、「もし、具合が悪くなったら、翌日寝ていればよい。」 とまで言う。幸い、僧ヶ岳へは長い林道歩きが伴うから、無理矢理誘うのもどうかと思い、誰にも声を掛けていなかった。でも、本当は、一番お天気の良い時に、僧ヶ岳へ行きたかったのであるが、思い止まらなければいけなくなった。

 私自身、2~3月の大地と共に、4月の僧ヶ岳は何度行っても、どうかすると毎週出掛けても良いと思っている。トレースのない、また汚れていない僧ヶ岳へは、第2発電所から歩かなければ、その権利はないようである。ところで明日は、横岳を目指す事になったが、果たして山ノ神は、起きる事が出来るのであろうか・・・・・・・・



4/4 山ノ神の体調があまりよくない。ビールを飲まないのだから相当悪いのかもしれない。そして、食事の用意も娘に譲っている。風邪なのであろうが、何だか私までも、ちょっと喉が可笑しいくなりつつある。こんな時は、早く休むに限る。
 

4/3 東京マラソンに参加した友人が、CD・写真やグッズの注文をするのに、PCでないと出来ないからと、我が家にやって来た。今度は、DVDは見る事が出来るが、CDは見る事が出来ない。液晶テレビでは、SDカードが対応するので、SDカードに落としてくれないかとやって来た。

 私は、SDカードからPCに落とし、CD-RやDVDーRに落とした事があるが、そのような事は初めてなので戸惑ってしまった。よく考えると、反対の事をすればよいだけの事で差ほど難しい事ではなかった。でも、大量の画像だっただけに、その移動は上手く行かず、小分けにして移した。

 ほんのちょっとの応用、あるいは、つい先日まで出来た事が忘れて出来なくなったりする事が多い。若い方からすれば、おかしな話であろうが、本当にそうなのである。煩がられるであろうが、何度も聞き直しながら、反復する以外どうしようもない。そして、その手順を何処かに控えておかないと、元の木阿弥となる。

 嫌がられているかもしれないが、幸い山の仲間は、私より若い方々が多いから随分助かる。何度も何度も同じ事を聞いているに違いない。時々だからかもしれないが、親子や夫婦間よりも、謙虚になり、尋ねやすいし、答えも丁寧であるし、親切である。

 だから、私は山仲間との交流によって、随分得をしている事になる。「ありがとう。」 の言葉しか返せないが、「お荷物」 にならないようにしなければと思っている。私の周辺には、PCを触る事さえ出来ない方も多い。携帯さえもである。好き嫌いもあろうが、「触れる私は幸せ!」 そして、このような交流を持てているのだから、何もかもに感謝しなければならない。



4/2 今日になっても、昨日の余波が続いた。日頃、「面白くない男」が、そんな事をやるものだから、多くの方が戸惑われたのかもしれない。今夕になっても、まだ信じていた方もあったし、笑われてしまった方もあったようだ。

 やっぱり、私は、汗臭い格好をして、コツコツ歩くのが似合うようだ。笑いを取ろうとか、いい格好をしょうとかは、出来ないし、ふさわしくないようである。「融通が利かない。」 「面白くもない。」 が、私の定位置なのであろう。本当に申し訳なかった。



4/1 「おはようございます。まだテレビなどで報道されていませんが、今朝、隣の工事現場の影響からでしょうか、高岡大仏が少し傾き、その影響からか、大仏様の口から、よだれのように、水が噴き出し、坂下町電停辺りが水浸しのようです。その周辺に行かれるようでしたら気をつけてください。」

 今朝の7時30分頃から9時頃に掛けて、携帯アドレスが分かっている高岡、もしくは、その近郊に住んでいる友人知人に、上記のメールを送った。



「情報ありがとうございます。本当に、何が起きるかわかりませんね。付近へ行くときは気をつけます。」

「何と?!良くない前兆ですかねぇ? 大仏様がひっくりかえる事になるのかな?丸の内辺りは何ともないのですか?」

「えー、そんなことあるんですかー・だけどそれ、すごく見たい。でも大変な事ですね。なんで水出るがだろ・・」

「それは、高岡の10大珍ニュースだね。おそらく付近の工事の影響で地盤沈下だね・・・。まだニュースで報道していないですね・・・。情報有り難う。」

「おはよう。ちょっと驚きましたが、今日は4月1日と気がつきました残念!でも大仏の近所の人に聞いてみようかなとも思っています。」

「朝から、面白い情報ありがとう。水浸しになるほどの水量は、どこからかね!」


     などと、ちょっと引っ掛かった人が10人。



「おはようございます。そんな事が起こるなんて驚きました(?_?) 大仏様は花粉症らしくヨダレどころか相当量の鼻水で、今うちの方にも流れ混んできています。 これで店が休めればラッキーです(^_-)-☆ ははは…って事ですよね!(^^)!」

「エッ!ホンマ 開町400年で大変な事ですね。」


    などと、ちょっとお茶目な返事が来たのが4人。
    馬鹿にされたか、メールに気付かれなかったか無反応の人が1人。




 不況下の日本、欧米人並にはいかないまでも、何かジョークで、笑えないものかと考えたのだが・・・  「心を傷付けない。」「損害を与えない。」 なども考慮したつもりだが、騙された方々は、如何様に思われたか、ちょっと心配。

 「真面目さを売り」 にしているだけに、信じて下さった方、本当に申し訳ない。この時間になっても、まだ本当ではないかと思っている方には、どう謝れば良いのか困ってしまった。実際、大仏様の前まで行かれ、「もう直ったのかな!」 とまで思われたのには、ゴメンの一言。

 本当だと思い、兄弟に知らせ、逆に笑われてしまった方もあったようだ。4月1日に免じて許してもらいたい。来年は、もうちょっと、質を上げたいが・・・・
  p.m.5:00