6/30 大袈裟過ぎる包帯は、顔を洗うにも、ボタンを留めるにも都合が悪い。固定という面からは理屈に叶うのであろうが・・・・・・。 済生会病院から近くの整形外科医を紹介される事になったが、仕事が出来ないし、通う事も出来るのだから最後まで診てくれても良いのでは思ったが、そういうシステムになっているのだろうと諦めた。

 痛さはあまりない。「いつから仕事が出来るかだけが、気になるところ・・・・・」 しかし、どの医師も、「一ヶ月、最低でも3週間の固定が必要!」 と言う。でないと、また脱臼する可能性があるとの事。私は過去に、腕・手指。手の甲など何度も骨折を経験している。3週間も固定していると、その部位は、そう簡単に動かない事を知っている。焦っても仕方がないが諦めるわけにもいかない。

 何とか秘策を考えなければ、飢え死にしてしまう。そして、この先、否応なしに山ノ神の世話になるが、仕事が出来るまで飲まないと宣言をした。でも、「山は、足が大丈夫だし・・・」 「山ノ神さえ許可してくれれば・・・」 のつもりであるが、仕事も出来ないのに、果たして許可など出るものでしょうか・・・

 心配して、橋ちゃんとマキちゃんがやって来てくれた。画像の包帯よりも随分小さくなっていたので、ちょっぴり安心してくれたようである。今回も大勢の方々にご心配を掛けてしまった。こんな事をHP上に載せなければいいのかもしれないが、何かの縁で知り合った方々故、許される範囲内で公開したい思いもあった。いや、滞る自分が許されなかったのかもしれない。



6/29 薬師岳の上部は風が強かった。体感温度だけでなく、実際気温も低かった。薬師岳山荘前に戻ってから、食事になったが、時折、コンロの火が消えたり、料理自体が吹き飛ばされたりした。それでも、薬師峠キャンプ場手前まで雨はもった。その内、良かった視界も次第に雨の中に霞んでいった。

 しっかり雨具を纏って、太郎平小屋から15分程、高度で100m位降りたところであったろうか、不覚にも木枠に足を乗せた途端、スリップし大きな事故を起こしてしまった。転倒した瞬間は痛くも何となかった。しかし、軍手をしていた左手の形が可笑しかった。薬指が波打って反り返っていた。恐ろしくて軍手を外せなかった。ようやく軍手を外したら、関節の内側が切れていた。指の中身が見えるようなおかしな色をしていると思ったら、血がポタリポタリと落ちてくるではないか・・・

 変形した指と切り口に、皆が顔を背ける程であったが、持ち合わせた小道具と、疑心暗鬼ではあるが、ありったけの知恵を出して、応急処置をしてくれた。脱臼だと思ったが、どうしようもなく、唯、登山口に向かって降りるだけであった。

 登山口の折立に着いたのが午後6時半。濡れた雨具を脱ぎ、ザックを詰め込んで宮ちゃんの車に乗り込む。亀谷ゲートで、心配してくれた皆の顔を思い浮かべながら、ほぼ片手運転で高岡に向かった。あまりにも凄い汚れだけに、簡単にシャワーだけをして急患医療センターに電話した。

 診療科目が外科・内科・小児科だっただけに、症状を告げ、診てもらえないなら、何処か紹介して欲しいの意味合いで電話したのであるが、外科の先生が診てくれるという。レントゲンを撮り、脱臼だから痛いのを我慢してくれるのなら、引っ張って見ましょうとの事、3回ほど痛いのを我慢して処置をしてもらい、もう一度レントゲンを撮ってみると、何の変化もなしで、痛かっただけ・・・

 その段階になって、「今日の整形外科の当番は済生会病院」 との事、手術になると思うし、ケガから6時間がタイムリミットなどと、自分としては、分からないまま次の病院に行く事となった。済生会病院に行くと、救急の患者にその家族。そして、また救急車が来る。

 大分待たされたが、紹介状があったからか、スムーズに診てもらえた。痛い事が全く感じないような麻酔を打たれ手術となったが、幸いにも骨・神経には問題がないようだとの主治医。当然縫合手術もついて回る。家に戻ったら午後11時半になっていた。それからの食事は、飲まないとなると食欲も衰えていた。

 手術をしたので、また、出血があるとの事で、大袈裟過ぎるほどの包帯でのグルグル巻き。そして、一ヶ月ぐらいは固定したまま状態になると告げられた。

 

6/28 どうなるか分からないお天気であるが、明日は薬師岳を目指す事になった。家の大事で急に来られなくなったメンバーもあれば、「何処へ行くの一緒していい。」 方もあり、結果的に明日は5名。「山頂への・・・」 不安材料は山ノ神だけ。荷を軽くさせ、2番手を歩かせる作戦であるが・・・ もう一つは、「飲む時間がない。」 と言われた時。



6/27 今年の2月、友人の結婚式に出席するのにやって来た長男に、「2年に1回なら、後10回しか会えないなぁ~」 と言ったのが応えたのか、今夕長女の出産祝を持ってやって来た。初めて叔父になって、ちっちゃな赤ん坊を盛んにあやしていたが、彼の春はいつ来るのであろうか・・・・・・

 娘は東京。二人の息子は大阪。一緒に暮らしたいとは思わないが、やっぱり、時々顔を見せて欲しいのが本音。富山発の「剱岳・点の記」、そして、「兼継 かねつぐ」 と話題としての材料があるのだが、なかなか自分のものに出来ないらしい。「どうだい、今度、剱岳に登らないか?」 と投げ掛けてみたが、16~17年前までの事だけに、反応は薄かった。



6/26 今春、「もう山に行く事はないと思うから・・・」 と体調を壊されたK氏の奥様から、登山靴や雨具などの女性用の山用具を譲り受けた。ブランド品だったから、ちょっと気が引けたが、K氏への愛情表現の一つなのかと思い大事に使う事を約束して頂いたのであった。

 リックカバーは使ったのであるが、登山靴に雨具、そして、スパッツは使う機会がなかなか無かった。先日の白木峰山行に使って見ようとなったのであるが、肝心な事を忘れていた。車の中に2足の靴を準備していて、山ノ神に選択させたまでは良かったのであるが、使用前に地面に打ち付けたり捻ったりする事を怠ったのである。日頃、靴の履く前にその事を煩く言っているのに、靴底の減り具合に騙されてしまったのである。

 浮島から前白木峰に向かう途中、山ノ神が意味不明の声を発した。よく見ると左の靴のソールがはぐれていたのである。ススダケ採りを始めたばかりであった。また具合の悪い事は重なる物で、いつもリックに入れていたガムテープがなく、致し方なくビニールテープでぐるぐる巻きにした。何とかなるかと思いきや、今度は右の靴が同じ事になった。これも同じようにぐるぐる巻きにしたのであるが、何とか滑らずに車まで戻れた。(ススダケの収穫もあり)

 車に戻ってそのテープを外すと時、ソールがペロッと全部はぐれてしまった。 元々、新たにその靴を履く時は、他の方々に迷惑を掛ける事も想定しなければならないから、近間で、しかも、二人で行く時と決めていたから難を逃れた感じであった。それにしても、小道具は何かに付け持ち歩かなければならないようだ。



6/25 ようやくタイヤ交換をした。(冬タイヤから夏タイヤへ) 怠け次いでに、後四ヶ月半すれば、また交換をしなければいけないから、このままにしておこうかと思ったが、何だかこれからの暑さに、タイヤが可愛そうと思わずにはおられず交換となった。

 例年は4月の第3日曜日を交換の基準としていたが、ここ2~3年GWまでずれ込んでいた。今年は、それよりも大幅に遅れた事になった。近頃の暖冬で、雪がなくなると、すぐにでもタイヤ交換をする人があるが、私は、どちらのタイヤも減るのは同じだし時期が来なければやらない。そして、晩秋から初冬かけては、後悔しないように早めの交換を心掛けている。ある程度の年数を経過すると、減り具合に関係なく新しいものと交換せねばならぬもの。タイヤは高いが、事故の事を思えばそうとも言えない。山用具と同じである。



6/24 「何が欲しい?」 「何が買いたい?」 と問われれば、テント・カメラ・パソコンである。この三つは、2~3年も続いている。「ガソリンやアルコール類、 そして、諸会費などが家計から支出されているから、山関係以外でお金を使った事が殆どない。」 のが実情! なれば何でも買えるのではと思われるかもしれないが、それだけ苦しいという事でもある。「切り詰めて山へ・・・」 なのであるから・・・・・・

 そんな折、パソコンが手に入った。グレード的には決して高くはないが、HDD500ギガ・メモリー4ギガであるから、しばらくは大丈夫であろう。周辺機器やハードウエアーの事もあるが、自分の見合った物で我慢するから、そんなに心配はいらないのではないかと思う。

 心はテントに移っている。買うのなら、一年でも一ヶ月でも早く買いたいと思いながら歳月が流れた。今度は、「後何回使えるのだろう・・・」 とか、「テントを担ぐ山行機会が、そんなにあるのだろうか?」 と思うようになって来ている。でも最近は、「一回切りでも良いではないか。その一回に掛けたい。」 の思いが強くなってきている。

 今のテントは、結婚前から使っているのであるから、30年以上経っている。まだ使えるのであるが、狭くて快適ではない。(一人ならまだ良いのであるが・・・) 荷が多くなる冬場と、張り出さないフライの関係上雨の日は辛い。

 材質はゴアが良い。3~4人用が良い。でも、フライや外張りもと考えると10万円になる。国家予算ではないが、何かを省かなくては、欲望は適えられない。削れるものは殆ど削っているので、それへの妙案はない。「困った!」 「また歳を取るだけだ。」 でも、まだ使えるテントがあるので山へ行けない事もない。一眼レフは元気な内に手に届かないかもしれない。



6/23 相変わらずミスが続いている。眠いままやっていると大体間違いが起こる。でも、いつもの事であるから、苦情?などはもう来ない。直したつもりでも更新が行われていなければ(プロバイダーへのUP)同じ事である。

 牛岳山開きに関する件は、クマ遭遇の記事より先に林道崩壊のため中止が決まっていたそうである。その事をメールで知らせてくださった御仁があったし電話もあった。また、昨日の山行の折、富山在住のメンバーからもHPに掲載されていたと聞き、ちょっとは胸を撫で下ろした。

 その林道崩壊地点は、鍋谷林道・山頂より200m下(トイレのあるところ)であるから、登山には差程問題ない所のように思うのであるが、山開きには鍋などの備品が必要であるし、また神事を執り行うのに都合が悪かったのかもしれない。

 庄川側登山口と牛岳トンネルの間でも、工事のため車両通行止めになっていたが、もしかしたら、それも影響したのであろうか・・・・・・ 三段の滝ルートを含め純粋な登山だけの事を思えば何も障害がなかったのだから、神事の都合であったのであろう。



6/22 ねぎちゃん企画の「材木坂と美女平散策。そして、文登研でクライミング」 に参加。(好山病4名) 初めて歩いた材木坂は、なかなか感じの良い所であった。美女平の散策道は、雨の中だっただけに、その良さは掴みきれなかったが、それでも、好きな事を言いながら自然の中を歩ける事に感謝であった。

 岩・クライミングには、少々抵抗があったが、仲間の生き生きする姿に、私もその障り(実際は、見学しただけ・・・) を経験させてもらったが、次第にそのわだかまりも薄らぎ、もうちょっと足の状態が良くなり、再びその機会を得たなら、少しばかり真似事に挑戦してみたい気持ちにもなった・・・ ような気がした。

 皆と別れた後、飽きもせず一人で来拝山へ。(午後4時半) 特別意味が無かったのであるが、もう一つ乗れなかった自分への罰? いや、不甲斐ない自分に喝! だったのかもしれない。でも、飛んだり跳ねたり出来ない自分は、唯、汗を垂れ流し 無になる事だけを考えて・・・・・・



6/21 予報の悪さとムコ殿の来高もあり、何処へ行こうかと悩んでいたが、午前4時半の目覚ましが鳴った頃は強い雨が降っていた。早く戻れる所として白木峰を選んだのであるが、ススダケ採りに興じ帰宅予定を1時間以上オーバーしてしまった。

 予報が悪かったのに、さすがこの時期に日曜日とあって、20~30台の車が押し寄せていた。「いつ頃見頃なんでしょうか?」 とか 「山頂はここですか?」 あるいは、浮島は何処にあるのですか?」 「自動車道が怖かった!」 などと問われた事を思えば、この白木峰に関しては、あまり知らない方々が多かったようであった。 そして、網を被っている我々を見ながら、「いいな~」 と、虫に悩まされている様子が伺えた。

 車中や登り始めを除けば雨に遭わなかっ。それどころか青空まで覗いた。「山頂を踏んだだけではちょっと寂しいのではない?」 と浮島ままで足を伸ばしたのであるが、それからまた戻って、小白木峰まではちょっと遠い気がするし、それではと前白木峰へと妥協のような感じで足を進めた。ススダケに気が向きはじめ、仕舞いには、山頂に着かない内に、リックがいっぱいになってしまった。そこでストップであった。



6/20 「今年の牛岳の山開きはなかった。」 とH.Fujii氏から伺った。そして、それが、「クマの所為だったのではなかろうか?」 とまで聞かされた。思わず 「えっ~」 と絶句! 「あの写真記事が原因だったのではなかろうか。」 という事である。「大勢で歩けば、クマの方が逃げて行くのに・・・・・・」 と思っても、安全第一の当局にとっては、中止が当たり前だったのかもしれない。その理由が違ったものであったなら、私の心がちょっとは救われるのであるが・・・・・・



6/19 知人のY氏とO氏所属の 「第21回たけの子フォートクラブ展 高岡市美術館ギャラリー 6/19~6/21」 の見学に行って来た。同美術館で開催されている 「文化勲章38人が描く 『日本の心』 大観・松園から現代まで」 の影響もあったかもしれないが実に盛況であった。

 Y氏に構図の取り方や、色合いなどの狙い目を教授願ったが、写真の奥深さだけが伝わってきて、展覧会への出品などは自分に果たして合っているのかと思うほどであった。やはり私には、記録・記念写真の延長で、好きな写真を自分の周りに飾っているのが、生にあっているのではないかと思った。



6/18  「ササユリの咲いている山」 を盛んに検索していた山ノ神であったが、週末に、またまたムコ殿の来高との知らせでトーンダウンしてしまった。「白木峰でも咲くじゃないか・・・」 と言っても、アドレスにまで 「sasayuri」 を使っている山ノ神にしてみれば、今年も見逃したと同じらしい。 「賑やかになるのは良い。」 「お花の咲く山にも行きたい。」 実に欲張りな話である。

 予報が 「曇り晴れ」 から 「曇り」 に、そして、小さな 「傘マーク」 が付きに掛かっている。それは、いつもの怨念! 「降れ降れコール」 となったのかもしれない。



6/17 W・N女史から格安ツアーだという富士山のお誘いを受けたのであるが、生憎仕事である。一度しか登った事のない富士山だけに興味があったが、まだ仕事を放り出してまで行けない。でも、声が掛かるだけでも充分満足! 朝日岳や大倉山草刈りなどからもお誘いがあり、参加出来なく残念なのであるがとても感謝している。

 私は、声が掛からなくなったらお終いだと思っている。(最も自分からも、アクションを起こす事を忘れてはいけないが・・・・・・) お誘いを受けて断っていると、その内お呼びが掛からなくなる事があるから充分注意しなければいけない。そして、曖昧な断り方 (ちょっと都合が悪い。ちょっと何々など。) が一番いけないような気がする。

 はっきり理由を付け相手を納得させなければならない。でないと 「どうせ・・・」 となり、次第に声が掛からなくなっていく。これこそ、奢らず・謙虚の精神でなければならないような気がする。ちょっと、胸に手を当ててみる価値はありそうだ。



6/16 ウドの料理法はいろいろあるが、橋ちゃん流の 「焼きウド」 は、私には珍しく興味をそそるものであった。ブツンと切ったウドを、そのまま焼き、皮をむいて食べるのであるが、熱いので水に付けてからになった。そのままも良し、お好みの調味料を付けるのも良し・・・・・・

 家に帰ってから、その焼きウドなるものをやってみた。オーブンであるから、水に付ける事もなく、そのまま皮をむいた。なかなかである。残した物を、後から食べようとしたら、随分と色が変わっている。(あまり良い色具合ではない。) でも、食べれば同じ味であった。また一つメニューの追加である。野に出れば、新たな発見があって楽しいし得るものが多い。



6/15 今回のブナクラ行きの隊長を務めてもらうはずだった吉尾氏の具合がちょっと悪くなり、結局好山病メンバー5名だけとなった。ブナクラで遊ぶは、「虫」との戦い・共存を考慮しなくてはならず、防虫スプレーや防虫ネットも用意された。

 2週続けて、「てっぺん」 を目指さないだけに、ストレスが溜まらないかと、ちょっと心配であったが、スリリングな崖(斜面)の駆け上がりなどが伴い、その緊張感が、何もかもを払拭してくれたようであった。ゴーッという清流の傍らで、珍味を頂ける幸せを感じ、また新たな調理法を学び有意義なものとなった。

 馬場島午前6時30分に集った関係上、時間を持てあますかと思っていたが、何とブナクラ取水口に戻ったのは午後5時を過ぎていた。またまた、一日を上手に山と親しんだ感じとなった。



6/14 父方のいとこが、素晴らしいプレゼントを持ってきてくれた。例のクマの写真(写真コンクール)をモチーフにしたエコバッグである。原価0円に近いから、何でも入れられる。例えば山菜を入れ、汚れればそのままゴミ箱へ。でも、今回は、この写真故、放る訳にはいかない。しばらくは、記念の品として、大事にせねばなるまい。

 今日は大倉山の山開き。草刈りの依頼を受けたのであるが、残念ながら仕事の関係上、参加出来なかった。また、多くの方々に問い合わせたのであるが、あまりにも急な依頼であったため、人集めのお手伝いも出来なかった。でも、何とか上手くいったようなので胸を撫で下ろしている。



6/13 しょっちゅう(いつも)ではないが、「何処か良い山がない?」 「1~2時間程で登れる山がない?」 「この山は私達でも登れる?」 などと尋ねられる事がある。私は、山の事を熟知しているわけではないが、ついつい嬉しくなって夢中になる。聞かれない事まで喋ってしまう。

 確かに私の周りには、山と親しむ人達が増えている。そして虜になっていくようである。その方々は、リタイアされた方よりも、現役組が多い。きっと何かを求めておられたのであろうが、山には、いろんな楽しみ方があり、それを自分のスタイルにすれば良いわけで、きっと次の休日が待ち遠しいに違いない。 

 今日は、面白いものが手に入った。山菜採りに使う片手ピッケルである。斜面を登ったり降りたりするのに都合の良いものである。通常のピッケルでも良いのであるが、ちょっともったいないだけに、それを探していたのであるが、探し方が悪かったのかDYI店では、なかなか見つからなかった。それを知った吉尾氏が、「あんた何処を見ていたのか・・・・・・」 と購入して届けて下さったのである。山菜採りのシーズンは、そろそろ終わりであるが、明後日に試してみたい。



6/12 尾根筋の雪がなくなり谷筋の雪だけになって行く。そして、夏山の到来である。「登って来た雪渓以外下りには使うな!」 と山岳部時代先輩に言われた。「グリセードや駈け降りる。」 では、何が起こるか分からない。「慎重過ぎるくらいに行動せよ!」 という事であったのであろう。

 それこそ、万が一なのであろうが、何か起これば取り返しの付かない事故に繋がる可能性が大である。これから、気温が上がれば、一日どころか半日でも、いや何時間でも雪渓の状態が変化する。落ちてからでは遅すぎる。臆病も時には命を救う。



6/11 クマの写真が記事になった時も、今回の写真コンクールの入選となった時も、その状況とカメラに付いて詳しく尋ねられた。一眼レフか、望遠を使用したか、またトリミングをしたかも問われた。それは、クマとの距離が、どのくらいのであったに最も興味を示されたかのようであった。

 コンテスト用の写真でなかったから、尚更なのであったのであろう。記事の時は、採用されるかどうか分からないから、縮小したものを送付したのであるが、今回のコンテスト用には原画(ファイルそのまま)を送付し、「専門家だからデーターを見れば分かるでしょう。」 とお願いをした。

 事前に尋ねられた時は、「クマとの距離は10mくらいと思うが、斜面だから実際は分からない。5mかもしれないし、15mかもしれない。」 と言っていた。データーからの分析だと、「7mくらいではないか。」 と言われて、今度は知らされた私がびっくりしてしまった。もうやらない。



6/10 一ヶ月前のクマの写真が、再び北日本新聞の読者写真コンクールに登場した。4~5日前、同欄にノミネートされる連絡を受け、タイトルやその状況の事を尋ねられたが、まさか 「一席」 になるとは思ってもみなかった。コンクール用に撮った写真でもないから、驚きと恥ずかしさに嬉しさが相俟って複雑な感じであった。ニュース性というのか、珍しさが受けたに違いないが、それでも私にしてみれば快挙であった。

 このところ、市展入選・クマの記事・孫の誕生・写真コンクール入選と話題に事欠かない。世はそんなに上手い事ばかりが続かない。きっと何か反動があるに違いないから、気を引き締め慎重に行動しなければいけないと思っている。でも、今日は嬉しかった。そっと手を合わせたくなった。



6/9 池ノ谷へは、噂には聞いていたが、予想以上にいい登山道(踏跡)があった。標柱やテープもあった。条件さえ整い実力のある指導者の下では意外と簡単に足を入れられるかもしれない。しかし、取り付地点や下降地点の掌握力、河原を遡行するのであるから、徒渉やスノーブリッジを渡らなければならぬ時もある。ガスでのルートの見失い、落石への注意、そして俄に降る雨への警戒など、注意しても注意し過ぎはない。

 それにしても、池ノ谷からの雪渓越しは絶景であった。「もっと、上部へ・・・・・・」 とその魅力は、山好きを引き摺り込みそうである。人それぞれにレベルというものがある。「ちょっと越してみたい。」 を限度にして自分の実力というものを認めなければならぬ。でも、伸び盛りの人達はその限りではない。それは、「凄い!凄い!」 であり、我々の許容範囲ではない。そんなネコ君を仲間に持てて何時しか誇らしくなっている。

 「私も行けたかしら・・・・・・」 山ノ神が問うた。「条件が良かったから行けたかもしれない。でも、あなたなら、何カ所も身体が竦む所があったであろう。また、仲間に付いて行くのが大変だったと思う。そして、もっと時間が掛かったであろう。」 「では、やっぱり行かなくて良かったんだね!」 (山ノ神)

 「若い頃に行った。」 「散々な目に遭った。」 などのメールも頂いた。「そうだよ!」 昔は池ノ谷は行けない所だったもの・・・・・・



6/8 池ノ谷に行って来た。いや、好山病の元気者に連れて行ってもらった。「池ノ谷」 は、冬は雪崩、夏は落石の巣の意味合いが強く、自分としても 「行けぬ谷」であった。高2の秋、白萩川を遡り、小窓尾根に取り付いた事はあるが、池ノ谷へは縁がないと思っていた。でも、行ってみると、幸運に恵まれれば、(お天気や雪の状態、そして同行者に恵まれれば・・・) もしかしたら、私でも、三の窓付近まで行けるのではないかと思うほど、見た目には雪が連なっているのであった。

 「池ノ谷・本谷にの雪上で天ぷらパーティーをした。」 途中、「お花の群落との遭遇」 「ウドなどの山菜をゲット出来た。」 など、楽しくてステキな一日となった。同行してくれた仲間に感謝したい。

 久し振りに入った白萩川の変貌に自然の脅威を感じた。昭和44年の豪雨で様変わりをしたことは知っていたが、それでも、取水口から上部の河原で、子供達と遊んだ事もあったのに・・・・・それは、何年前の事(17~18年前の事かもしれない。)

 今は怖くてやらない沢登り。高1~22歳頃まで、白萩川へよく通った。上市からバスに乗って、馬場島から歩いてである。今のように、高巻きする事がなく、そのまま池ノ谷の出合まで遡行が可能であった。歳月が流れたということなのであろうか・・・ まるで浦島太郎のようであった。元気でいたら、まだもう少し行けなかった所に行けるかも知れない。



6/7 愛知の加藤氏から、「昨日牛岳に登った。」 というメールをもらった。「えっ~」 と思わず言ってしまった。それは、「牛岳に来たのに、何故連絡してくれなかったの?」 と、「体調が悪いと聞いていたから、このような遠方に来られるほど回復されたのかな!」 と二つの意味合いがあった。

 8年前、川上岳(かおれだけ)でお会いした時も、加藤氏はご夫妻であった。私は単独行であったが、何気なしに交わしたアドレスにより、ずっと親交が続いている。それ以来お会いしていないのであるが、藤原岳・御在所岳に出向いた時は、いろいろとアドバイスを頂いた。

 世には、こんなお付き合いもある。多くを知らないが、何か通じるものがあると思っている。最近、加藤氏の体調が良くないと知らされていただけに、元気になられた事に安堵した。同じ牛岳に来られるのなら、もっと良い時期にと思わずにいられないが、きっと、私が何回も登っているから、どんな山なのだろうと思われたのであろう。有り難い事である。



6/6 ネットは、いろいろな事を教えてくれる。故にそのキーワードが大事になってくる。これは技術(テクニック)と言うのであろうか、それとも感性と言えばいいのかとても差が大きい。先月の熊の話題もその検索によって探しあてたという話を聞いた。

 私も、その手順に従ったら、あるブログに辿り着いた。全国紙・地方紙を問わず時の話題を載せていて、辛口のコメントが付いている。

 「いやおっちゃんおっちゃん、それ写真撮ってる場合とちゃう、撮ってる場合ちゃうやろJK… ま、まあ、何事もなく無事にやり過ごしたということで結果オーライということなんでしょうが、こちらの連中は何事もないどころか大いに問題となっているようです。」  と記しながら、次のカラスの話題になっていた。

 本当に何でもと言っていいくらいに、ネットには載っている。しかし、逆に油断してはいけないのかもしれない。



6/5 美術展の搬入・搬出、また、その件に関していろいろお世話になったY氏を招いて、ミニ山菜パーティーをした。パーティーといっても、Y氏の他、私と山ノ神だけである。ウド・フキノトウ・コシアブラの天ぷらに、ウドとコシアブラの醤油漬け、そして、行者ニンニクやコシアブラのお浸しに、ススダケの塩漬けなど、山ノ神は結構工夫を凝らしていた。

 Y氏は、途中でO氏を電話で呼び出した。益々写真談義になったのであるが、コンパクトデジカメで記録的に撮っているだけの私には、高度な話になってしまった。しかし、山には行かないお二人は、「あんたは、私達の行けない所へ行くのだから・・・」 と妙な持ち上げ方をして下さった。「一眼レフが欲しいな。」 でも、「尚更難しくなる。」 が交差し、財源難も伴い決断がなかなかつかない。

 私は気心の知れた友人・知人と飲む事が好きである。座る事が苦手な私は、狭い台所のテーブルで客人達をもてなす。優雅さなど微塵もないが便利でいい。それを承知の仲間は結構居心地が良いらしく、街に出掛ける事を嫌う友人には受けがよい。いわゆる普段着の付き合いが出来るからかもしれない。

 旧知の仲間は、我が家の勝手を知り尽くし、泊まる事も計算に入れている。華やかではないが、椅子とテーブルがあれば、後は好みの酒と、ちょっとしたつまみがあればそれでいい。それが長続きする秘訣である。同じ事を言っても、物忘れをしても、極度の自慢や相手の嫌がる事さえ言わなければ、大体事は上手くゆく。

 その分、山ノ神に手間を掛けるが、今のところ、まだ身体が動く事もあり、そうはイヤがらないから助かる。そして、仲間は上手い事を言って、山ノ神を持ち上げてくれる。どちらかと言うと口数の多い方ではないから、話を振ってくれると嬉しいのかもしれない。



6/4 一昨日の北日本新聞に 「二上山を再認識を」 という記事があった。

 昭和37年度高岡市伏木中学校の卒業生でつくる「亥子きずな会=荻原隆夫会長」 の「二上山系五座二滝めぐり」写真展が、JR伏木駅の鉄道ギャラリーで開かれている。(6月末まで。)
 二上山系に五つの山と二つの滝があることを地域の人達に再認識してもらおうと企画。4月29日に同会が各所を回った際の写真110点が飾られ、駅利用者らを楽しませている。


 というものである。私はその記事を見逃していたのであるが、知人である同会長に教えてもらったのである。当日の参加者は17名で7時間を要したと聞いた。特別山歩きが目的とかいうものでなかったらしいが、同級生で歩き通した事に、とても充実感があったとの事。またそれを肴に、その後の宴が何とも言えないくらいに楽しかったらしい。

 恥ずかしながら、私は二上山系五座を知らなかった。二上山274m・鉢伏山179m・城山258.9・大師ヶ岳253.6mを数えられたが、摩頂山254mは知らなかった。滝も城光寺の滝を知っているが、もう一つは知らない。この機会に地元の山の事もちょっとは勉強しなくては・・・・



6/3 福井の紙谷さんから、岡本守司写真展 「白山を歩いて」 の案内状をもらった。(加賀市大聖寺 深田久弥 山の文化館 会期6/1~6/29) 以前紙谷さんから同タイトルの写真集をプレゼントされた事がある。神谷さんは白山に200回以上登っておられる。その山友である岡本氏は、それ以上白山に通って撮り続けられているようである。まだ紙谷さんにも岡本氏にもお会いした事がない。紙谷さんは、書道家でもある。



6/2 昨日は、私ひとりで出掛けた事もあり、行き先の選択権を山ノ神に委ねた。「雨飾山」 と決定してからも、案の定時間が掛かり、出発が、またまた午前6時近くになってしまった。梶山新湯の登山口に着くと、何だか少し様子が変だったが、登り始めて1時間頃から、ヘリの動きを見て遭難事故が起きていた事が分かった。

 最近、娘の初産の事もあり、山ノ神の山行機会は随分と減っており、すぐに息が上がってしまうようであった。「慌てる事はない。ゆっくり行こう。」 と言いながら、娘達の事を考えると、早めに帰ってやらなくては思うのであった。

 中ノ池付近から残雪が現れ、山頂と小谷への分岐までの標高にして250~300m間の急斜面に、びっしりと雪が着いていたのである。「こんな所を登るの? あの虎ロープ付いている所だろ!」 と山ノ神が不安そうな顔をした。

 昨日、大猫山・鬼場倉ノ頭の山中で、今日の山行に誰かを誘うとしたら、「軽アイゼンを準備してもらわなくては・・・」、「ピッケルの一丁ぐらいは用意しなくてはいけないのでは・・・」 などと思っていたのであるが、帰りも遅く、結果的に誰も誘う事が出来なかった。そんな経緯もあり、私達だけならと、ちょっと油断があり、ピッケルやアイゼンを準備しなかったのである。

 「滑ったらどうなるの?」 「落ちたらどうなるの?」 と山ノ神は顔面蒼白で、恐ろしくて振り返る事もなく、只、足下だけをみて登っていたようである。私も、それなりのステップを切ってやらなければならず、結構疲れてしまった。

 しかし、それを乗り越え笹平に出てしまえば、カタクリ・シラネアオイ・ハクサンイチゲが、「えぇ~」 と思うほど咲き乱れていた。時期としては、少々早いかなと思っていたのに、予想外に咲いていたのである。

 ゆっくり歩き、雪面でかなりの時間を費やした事もあり、疲労に空腹が伴い、山頂を目の前にしながら、午後1時前、笹平の雪上で食事をする羽目になってしまった。「飲むのも良いが、帰りが遅くなって、雪面が堅くなったら、厄介だから、あまりゆっくりもしておれないよ!」 と釘を刺したつもりであったが、「ここで1本、山頂で1本」 などと戯けた事を言った。

 山頂の1本とは、冷やすために、ナイロン袋に雪を入れて、私に持たせると言う事である。(0%のビールの私がである。)「飲んであの斜面を降りられるのか?」 と問うと、「飲まなきゃ、降りられない。景気付けである。」 と妙な答えが返ってきた。

 予定通り、山頂からの絶景を眺めながら、冷たい物で喉を潤すのは良いが、この時期特有の小さな虫が纏わり付き長居をしておれなかった。再び笹平のお花と戯れ、のち雪斜面に挑む。その前に、山ノ神が行者ニンニクを見付けた。雪解けの隙間からフキノトウも・・・・・・

 「雪斜面は少し緩んでいるし、滑っても一番下まで落ちない。もし、滑ったら私が受け止めてやる。」 と檄を飛ばしたが、山ノ神のへっぴり腰を直すわけにはいかなかった。それでも、何とかなったのであるから、今までの経験が功を奏した事になるのかもしれない。



6/1 午前5時前に起きたが、モタモタしていたら、自宅を出たのが6時になってしまった。出掛けに何かやると、必ずと言っていいくらいに失敗をする。今朝も、せっかく印刷した地図を忘れてしまった。

 県西部は午前中に、県東部は午後から晴れるという予報であったが、車を走らせる路面は濡れていた。ブナクラの駐車場に着いた頃も、どんよりしたお天気であったが、次第にガスが切れて行く様に胸を撫で下ろして登りに着いた。

 このところ、体調が思わしくなく、ゆっくり歩く事にした。露で着衣を濡らす事を嫌って雨具のズボンを履いたが、最近整備されたと思われる登山道では、その懸念が払拭され、滴る汗が目にまで染みこみ早々に脱いでしまった。

 ゆっくり歩く口実のように、ススダケやコシアブラがないかと、左右上下に目をやり、汗を拭きながらでも、「やっぱりダヤイ!」 1500mピークに辿り着くのに2時間をかなりオーバーした形になった。しかし、今日は同行者もいないし、同じ山中には誰もいないので、自分の山に自分のペースで行く事を心掛けた。

 大猫平からは、一面雪、時刻はもう少しで正午である。「もういいや!」 の心と、何が何でもピークを踏まなくては・・・」 の心が格闘する。お腹も空いたが、アイゼンを付けてやはり山頂に足が向いた。しかし、喘ぎあえぎという言葉がピッタリの歩きで、大猫山頂に辿り着いたのは、今までには、考えられないような5時間半を費やしたのであった。

 剱岳上部はガスに覆われ、猫又・釜谷山辺りは、ガスが掛かったり切れたりで、大展望であるとはとても言えない状態であった。しかし、大明神山だけが妙に浮かび上がり、平野側が霞んでいたもののそれなりの見透しが利いていた。それよりも、何はともあれ飯であった。お腹が空いてしょうがなかった。0%ビールとカップ麺を食べて一息つけた。

 寝転んでいたい気持ちであったが、鬼場倉ノ頭に未練があった。時刻は午後1時50分であった。元気な頃は、往復1時間もあれば行って来られた記憶があるが、今日は2時間を見なければなるまい。でも、雪さえ着いておれば、何ら問題はない。ささっと降ればすぐである。

 もう一つの目的があった。過日、福井の宮ちゃんが、「鬼場倉ノ頭から猫又谷に降りられないか?」 また、「猫又谷から鬼場倉ノ頭に登られないか?」 と尋ねられた事があったから、もうちょっと先の偵察をしてみたかったのである。

 何年も前に、猫又谷から大猫山頂に直接駆け上がった事があったが、現在の私にはそのような元気はない。でも、心はそれなりに動くのである。もう一つは、「刈安山・土倉山へは、どのような感じなのであろうか?」 と見ておきたかったのであるが、眺める限りでは、「鬼の場」 というようには感じられなかった。

 東芦見尾根を西に進むに連れ、大明神山・毛勝山(南峰)・釜谷山・猫又山が屏風のようにそそり立つ。猫又谷も見応えあり、釜谷も浮かび上がる。目を右に移せば、大猫平が違った感じにとれる。お天気さえ良ければ、まだ人の入らないステキな領域である。

 再び大猫山を目指して登り返し、ヨタヨタと歩きながら、登山口に辿り着いたのが午後6時40分であった。どんなに吹っ飛ばしても、午後8時には帰宅出来ない。
 「ちょっと行って来る。」 と言って出掛けたのであるが、「遅いのでは・・・」 「心配させないで・・・」 と小言いやお叱りを受けたのは言うまでもない。