9/30 「真っ盛り」 や、「もう終わりかけ・・」 などと紅葉の情報が届く。立山の雪が早かったように、紅葉も随分と早いのかもしれない。「高所の紅葉時期を外してしまった。」 と思ったが、元々、全山の紅葉など見られるハズがない。何処かで遭うのであるから、そう、しょげなくてもいいのである。

 高山ばかりが良いとは限らないし、低山でも 「素晴らしい」 と思う事が何度でもある。それも逃してしまったら、落葉して見透しの良い林を、サラッサラッと歩くのも、結構感じの良いものである。それでもと言うのであれば、雪を踏んでから、登山口辺りの紅葉に触れるのが、一日で長い時間を持てたような気がする。とにかく、行ってみなければ・・・ 自分の目で確かめてみなければ・・・



9/29 「飲み過ぎた。」 「あまり飲まなかった。」 は別にして、今日は一日中眠たかった。計画は 「早めに切り上げて、明日の仕事に備える。」 ハズであったが、ついつい、おしゃべりの輪から外れる事が出来ず最後まで(目が瞑れるまで)になってしまう。でも、それが楽しくて、やって来るようなものであるから、翌日の瞼は、試練の一日である。誰も彼もが一様に 「眠たかった。」 であるから・・・・・・

 さて、「月見の会」 と称してたイベントは? 準備段階に月様をみたのであるが、三々五々集まって来る毎に「乾杯」をやっていたら、その神事を執り行う事を忘れてしまった。ちょっとは企画していたのであるが、これも歳の所為と見逃して欲しい。来年は「らしく・・・」 の充実を図りたい。



9/28 「月見の会」 の会場が、二転三転して宇奈月の 「どやまらんど明日」 になった。「どやまらんど」 とは何となく変な名称で、 富山から離れているし、その「とやま」 をもじったものと思っていたら、後から、「宇奈月町土山」 の地名からとったものだと分かった。新川地方に住んでいる人達は別にして、あまり馴染みがなく、所用や仕事を終えてから来る人達には、暗くなった事もあり、ちょっと分かりずらかったようであった。でも、メンバー9名にゲストが3名加わり、久し振りにたくさん飲んだ。

 借りた大型バンガロー(ケビン)は25人用の大きなもの。管理人も温厚な人で、借りた者としてまずまずの感じ・・・ メンバー宅で泊まり掛け飲み会を、何度となく催してきたが、外泊?(外に出たのは・・)は初めての経験。 それなりの味を堪能?


 それより先の負釣山行。参加者は5名と少なかったが、予定通りの行程を消化した。夕方からの「月見の会」 があるだけに、近くの低山を、ゆっくり登る事になっていたのであるが、必然的にピッチが上がっていった。その煽りでもないが、南峰まで行く事になった。それでも、山頂に1時間半の滞在となり、山頂からの展望を充分に楽しんだ。曇りがちの天候であったが、それなりの展望があり、ポツンと来た雨も気になるものではなかった。

 意外であったのは、県東部の低山であるからか、我々以外、今までに1回しか登った事がないメンバーばかりであった。逆に、このような機会を介して登れた事に、喜びを感じていたように思えたのであったが・・・



9/27 明日は久し振りに「好山病・・」 の面々を会える。低山(負釣山)に登り、そのまま 「月見の会」 と洒落込む。日帰り登山では出来なくなっただけに、ゆっくり膝を交えて飲むのも楽しみである。「雨の夜鍋に、しみじみと語る。」 の別タイトルも用意されているのであるが、明日は、何とか降らないで欲しいものである。

 平日(月曜日)だけに、仕事・所用の忙しい時間を割いての参加者も多く、山行まで全員が揃わない。でも、そのような気持ちで集ってもらえるのが実に嬉しい。明日は、気持ちだけでも若返られる一日になる。



9/26 このところ、モチベーションが上がらず、HPの更新がままならなかった。度重なる所用もあったが、お酒を飲んで、PCの前で撃沈する事の方が多かった。コップ1~2杯のお酒で睡魔にやられてしまうのであるから、我が体力も落ちたものだ。

 少しぐらい酔ってもいいが、どちらかというと、飲んでも何かをしたい方。「飲んで寝てしまうのはもったいない。」 というタイプ。でも、毒を飲むのだから、やっぱり身体に良くない。それに負けるようになったのだから、実に情けない。

 そんな身体を認めつつ、仲良く付き合っていかなければならないのに、時折、オーバーヒートしてしまうのだから弱ったもの。山歩きも程々に。 HPも、お酒も・・・



9/25 富山のNa女史から、「PCへのメールが跳ね返される。違っているかもしれないからアドレスを教えて欲しい。」 とのメールを携帯に頂いた。Na女史は介護・看護で大変苦労されている方でもあり、一時、山へは行けない状態になられたのではないかと思っている。そんな中、お互いのアドレスが変更されていたのであるから、届くはずがない。たまたま携帯アドレスを知っていたから良かったものの「山の友」 を失い掛けたところであった。そんなNa女史とお会いした事がないが、ずっと「山の友」 なのである。

 2年ほど前にアドレスを変えた時、HPからメールにリンクする事を止めてしまった。ほぼ全ページに渡っていたため削除する作業が大変であったが、それ以来、一日100通くらい届いていた迷惑メールが全く来なくなっている。(寂しいくらいです。) でも、プロフィールには、それとなくアドレスを記載しているのですが・・・



9/24 私達が新潟の山へ行っていた頃、新潟のひとみちゃん母娘は、19日から22日の間、広河原~北岳~間ノ岳~農鳥岳~奈良田のコースに挑んでおられたようだ。4日間というものの、実質山中1泊2日で、前後は車中泊というものらしい。小学年生のひとみちゃんは、岩場がお好みのようで、ウサギのようにピョンピョン跳ねて行くようである。今度はいつお会い出来るか分からないが、成長した姿を見るのが楽しみである。

 登山と言えば、中高年を連想されるが、若い人達の姿も結構拝見する。我々の世代でもそうであるが、若い人達でも、女性グループが目に付く。その理由の一つに、当世のトイレ事情に関係があると聞いた事がある。子供達も含め、山小屋、あるいは、公衆トイレが、昔と比べものにならない程綺麗になっている事にもあるらしい。

 それもそうである。旧式のトイレを知らない世代が、多くなって来ているのは間違いない。これに、シャワーや風呂まで、付いて来ているのであるから、汚い・辛いのイメージが一変に払拭されているようである。



9/23 2~3年前から、百・二百・三百名山の半分は登りたいと思っていた。出来れば全部登れる事に越した事はないが、現在の私の力量からして、とても手の届くものではない。その半分という数字は、「何が何でも・・」 でなければ、「全く興味がない。」 というものでもなく、とりあえず半分程登っておれば、話題的にもいいし、視野的にもいいのではないかと単純なものである。

 「登ってみなけりゃ、 分かるハズもないし・・・」 も動機の一つ。遠くの山は何度も登れない。その良さを知るのは賭けのようなものである。でも、皆の心を引き付けるのであるから、やはり名山である。多くを登っていない私でも、「なるほど・・・」 「さすが○○名山」 と思う事が多い。

 「近くの山を何度も登る。」 「自分の登れる山を何度も登る。」 そして、時々、行った事のない新しい山に登れたらいい。それが私の理想である。「険しい山」 「難しい山」 それは、もうどうでもいい。



9/22 今度の遠征で登った山は、浅草岳が三百名山、荒沢岳が二百名山であった。山ノ神の遠くへの思いと、どうせなら名山への思いを抱き合わせての計画であった。百名山は深田久弥が選んだものだが、それに、深田クラブが選んだ百座をプラスしたものが二百名山。その二百名山に、尚かつ、百座をプラスしたものが日本山岳会編日本三百名山である。

 しかし、その三百名山を選ぶにあたって、二百名山の中から、荒沢岳を除き、山上ヶ岳を加えたものとなっている。 (301座という事になるのであろう。) だから、何故かその「荒沢岳」 がとても気になり、計画に入れたのであった。登ってみれば、長いステキなブナ林があり、岩場あり、稜線に出ると展望も利く、そして、山頂から多くの名山を眺める事が出来る。それなのに、日本山岳会は、何故二百名山から外したのであろうか・・・



9/21 「鎖や梯子がたくさんある山らしいが、時間が掛かっても登り切ろうぜ!」 と満天の星空を見上げながら、夕食時の会話。テントを撤収し朝靄の中、登山口に着いたのが午前6時15分。最初は思いの外急登であったが、前山の三角点を過ぎると、快適なブナ林が長く続いた。その頃から、右に越後駒ヶ岳、左に奥只見湖が見えだし、以前登った事のある守門岳、そして、昨日登った浅草岳は何処だろうと思ったが、地図と照らし合わせなくては分からなかった。

 「これより岩場注意」の標識があってから、鎖・梯子の連続であった。「その内終わるよ・・」 と高を括っていたが、なかなかどうして・・・ 尚も続いた。腕力のない臆病な山ノ神は、「足が掛からない。」 「手掛かりがない。」 と叫び続けた。やっとの事で、標高1400m辺りの一息入れられるピークに着いた途端、先を行くパーティーが岩場で四苦八苦している様子を見て、「もうダメ。」 と固まってしまった。それどころか、「どうして降りようか・・」 ともまで言い出してしまった。

 「ゆっくりでも行こうよ!」 と言っても山ノ神は、首を縦に振らなかった。そして、いつものように「あんただけ、行って来られ・・・」 になってしまった。「どんなに速く歩いて行って来ても、4時間は、ここにいなければならないぜ?」 「あんたなら、もっと速いちゃ。」 と言ってくれたが、今では降りに時間を稼げない。ならばと、ザックを山ノ神の物と取り替え中身も入れ替えた。コンロやツエルト・三脚などがなくなるのだから、それは楽である。

 でも、高度にして100m超の岩場を含む山頂まで550m超の標高差に、やっぱり私の実力では1時間半を大幅に超してしまった。しかし、山頂では、西に、越後駒ヶ岳と中ノ岳、その後に、チョッピリ八海山の越後三山(魚沼三山)を、南に平ヶ岳、その左(東)に燧ヶ岳、また東の遠くに、会津駒ヶ岳を眺める事が出来た。北側眼下には奥只見湖、そして、その遠く先に、守門岳や浅草岳を確認できた。しかし、その素晴らしい展望の山頂には、何故か羽アリが群がっており、とても食事をする雰囲気ではなかった。でもちょっと位置を変えれば、そうでもなく、暫しの展望を楽しみ山ノ神の待つピークに急いだ。

 山ノ神を、危険地帯から降ろすのに、何とか一人助っ人を探さなくてはと思っていたが、山ノ神の待っているピークへの最後の鎖を乗り越えた所で、埼玉から来たという単独行の男性を抜いた。68歳と言っておられた男性であるが「降りがねぇ~」 との言葉に、一緒に降る事となった。その男性は、簡易ベルト(ハーネスの代わり)を持っておられ、「これを使うといい。」 と山ノ神の腰に巻き付けて下さった。その方が先行し、いちいち足場を指示して頂いたお陰で、山ノ神は難なく危ない2ヶ所を通過してしまった。「頂上まで行けたかもしれない。」 「でも、また真っ暗になっていたハズ。」 の会話となったが、その埼玉の男性は、「この山は凄い。剱よりも、穂高の大キレットよりも、どうかしたら、西穂~奥穂よりも凄い。」 などと言われたが、それは、少々歳を召されて、「若い時に登ったよりも酷い。」 という事だろうと割り引いて聞いていた。



9/20 心配した渋滞もなく、小杉から小出間の250キロを、2時間半で乗り切り、午前8時半には小出ICに着く事が出来た。浅草岳登山口まで行くのに、ちょっと道を間違えたりしたが、午前10時前には到着し確実に2座が射程内となった。予想を遙かに超える駐車場が整備されていたが、桜ゾネ登山口へは、遮断機が降りていて、35分くらい歩かなければならない。それではと、10分ほど歩いた所にあるネズモチ平登山口から取り付き周遊する事にした。

 少しぬかるんでいた登山道であったが、高度を上げる毎にそれが払拭され、急登といっても、富山で鍛えられた者にしては差程でもなかった。それよりも、ガスの中で、「曇りのち晴れ」 の予報が、何処へ行ったのかと思うほどに雨が落ちてきた。しかし、それは、我慢出来るものであったから、我々は最後まで雨具を着る事はなかった。でも、すれ違う登山者は、一応に雨具姿であったから、きっと寒かったのであろう。

 桜ゾネ登山口からと合流する前岳でも、ガスは晴れず、雨具を着込んでいるグループを脇に見て、山頂へと急いだ。木道が現れたと思うと草原となり、時々「パーッ」 と視界を広げた。ネズモチ平登山口からのコースが視界が利かないところだったのか分からないが、一変に別天地に来たような気がしてならなかった。サーと流れて見る草原は草紅葉が始まっていた。

 一等三角点のある山頂からは、田子倉湖を眼下にする事は出来なかったが、ガスの切れ間に広がる歩いて来た草原を見るに付け、一足早い紅葉を味わえた事に満足感が漂った。下山路は、展望の良い稜線歩きで、選択したコースが当たった感があった。桜ゾネ登山口上にある「浅草の鐘」 を突き、林道歩きをして駐車場に戻った。

 まだ、充分な時間があり、明日の「荒沢岳」 登山口にあたる銀山平にシルバーラインを走った。登山口の何処かで適当にキャンプと思っていたが、それが見当たらず、設備の整った銀山平キャンプ場でお世話になった。そこは、オートキャンプ場と区別されていて、料金も高くなく、安心して泊まる事が出来た。



9/19 明日未明から、1000円高速で遠出の予定であったが、外せぬ所用が出来、早朝発の「ちょっと遠出」 に変更となる。「渋滞にはものともせず」 の覚悟の山ノ神に押し切られた感じで、明日は新潟県の山。この時期、そして、渋滞予想の中の遅い出発であるから、2座は難しいかもしれない。

 今朝、「折立~薬師沢~高天原~三俣蓮華(双六)~新穂高」 へ行くという千葉の川久保氏から電話をもらった。電話が通じなくなるかもしれないからと有峰付近からであった。富山に来られたから、ご機嫌伺いだったのであろうが、「連休は何処へ行くの?」 と尋ねられた。

 「ちょっとそこまで・・・」 と言葉を濁してしまったが、あちらから北アに来られるのに、「私は・・・」 となる。山は二の次の山ノ神と、長く付き合っていかなくてはならないのであるから、これから何度も、この類の思いをしなければならないようだ。しかし、それもこれも、元気であっての事。



9/18 「世話」 とは難しいものである。自分が世話をしてみて始めてわかるのかもしれない。一つの山行、ちょっとした会合であろうが、当事者は、かなりのエネルギーを使う。今までしてもらった事に、本当に感謝である。これから恩返しをしなければならないのではと思ってみたのであるが、やっぱり若い人に任せた方が良いような気がする。何もかもスピーディーだし、判断も良い。でも、任せてばかりいたら、こっちがボケちゃか・・・・・・



9/17 今年は、まだ新たな名山(百・二百・三百とも)に縁がない。お天気や所用などが噛み合わず何度となく計画が流れた。その名山に、特別拘る事はないのであるが、名所旧跡を回るように、一つ一つ塗りつぶして行くのも楽しいものである。でも、考えは、人それぞれであって、何が何でもとならなくてもよいのは当たり前・・・

 そんな事が思うようにならなくなって来ると、同じ山に何回もとなる。これも結構励みになるし、話題としても楽しいものである。行った事のない所に、気はそそるのであるが、行けない時は仕方がない。後は、自分の山歩きに徹する事であろう。



9/16 次の連休(9/20~21)は、高速1000円を利用して、ちょっと遠くへと思っていたら、出掛けの早朝(9/20)に所用が入った。それをこなしてから出掛けるとなると、ラッシュを避けられないのではないかと、いっぺんにトーンダウンとなる。それではと、県内の高所(北ア)でのキャンプを提案をしたら、山ノ神が、しょぼんとしてしまった。

 「ブナクラの山は・・」 と言おうものなら、口を利いてくれなくなるのが必死である。まだ日がある。何とか妙案を考えなければいけない。



9/15 「ゆっくり山を楽しむ。」 の中にも、いろいろな手法や考え方がある。行き先の遠い近いや泊まる泊まらない。また同じ所違った所など、対比すれば切りがないような気がする。しかし、体力・環境・経済力などが整わなければ、行きたい所へも行けないのである。

 現在、不満不平を言いながらも、出掛けられているという事は、完全とは言えないながらも、その条件をクリアしている事にならないだろうか・・・・・・ 「後は、どれだけ好きか・・」 であり、気力との勝負のような気がする。何かがあって、何かが足らなければ、自分の出来る範囲で補うしかない。



9/14 山ノ神の要望を聞き入れ焼岳行きとなった。私なりに代案を立てたのであるが、そうそう思い通りにもしておれまい。元々、「どれだけ遠くても良い。遠ければ遠いほど良い。そして歩くのが短い。楽な程良い。」 が、山ノ神の考える山行であるから、「お天気なのに、もったいない。」 と思うが妥協するしかない。お天気を求めるのは、山ノ神とて同じなのであるから・・・・・・

 また、「速く歩けと急かせない。」 「私の嫌がる言葉を発しない事。」 とまで念を押されて歩き、そして、山ノ神の飲み物まで担がされるのであるから、何だか可笑しい。しかし、「ゆっくり山を楽しみながら・・・」 を言い出している私の主張には合致するのかもしれない。

 山頂でも2時間、で~んと構える槍穂高岳や笠岳・霞沢岳を見ながら、また、上高地を覗き込みながら、コーヒーを沸かし、甘い菓子を食べて、どのグループよりも、ゆっくりしていたが、それはそれで、充実した一時を過ごしたような気もする。



9/13 「高岡開町400年祭までいたい。」 「・・・もう少し、おりたかった。」 と言っていた娘と違い、私はそんなにも気を止めていなかったのであるが、何だか雰囲気が違っていた。お昼頃まで降っていた雨が止むと、我が家の前も、街に向かう人が俄然増えてきたのである。

 「人混みが嫌い。街行くのがあまり・・・」 の私であったが、「50年に一度のお祭り、もう今度はない。」 などと思うと、ちょっとだけ行ってみようかとなった。行ってみると、何処も彼処も、人・人・人・・である。「高岡に、こんなに人がいるのだろうか・・・ いたのだろうか。」 と思う程。仕舞いには、動けなるどころか、流れに沿うしかなかった。

 前田利長・高岡城入城行列 (利長=勝野洋 ・ 永姫=淺野ゆう子)に、5/1の御車山、5/15の伏木喧嘩山まで加わるのであるから、市民はたまらない。これが起爆剤となり沈滞ムードの高岡に、「喝!」 となって、浮上の機会を与えてもらえればよいのであるが・・・



9/12 あまりよく覚えていないが、今は亡き母の介護時代に、時間を惜しんで山へ出掛けていた事があった。時間の余裕がない時だけに、近くの低山中心の山歩きになっていたと思うが、その頃の当欄に、時間や母との格闘を何らかの形で載せていたようである。「それはそれで、山への執着が伝わって来るからいい。」 と言ってくれた方があり、励ましにも取れた。

 この頃は、いつの間にか、孫の話題を伝えたりして、生活臭をあまり出したくなかった自分との乖離を感じるようになった。でも、先日 「目障りでもないし、人間性を感じるから、それはそれで・・・ そして、ファンしか見ていないのだから・・・」 と言って下さった方があり、何故かホッと胸を撫で下ろした。大それた自慢をしたり、人様を詰らなければ、自分の事を綴っているのであるから、少々ぶれようが何の問題もないかもしれない。

 一言多い。余計な事を・・・ を省けば普通の人になれるのかな・・・  本当は無口。そして、シャイなのだが・・・



9/11 山から戻って3日経つが背中が痛い。背骨から肩甲骨の辺りであろうか気分が優れない。靴擦れはしなかったが、左足薬指のあたりが悪く、充血して真っ黒である。直前に靴の綻びを見付け、急遽昨秋に購入した靴を履く事になったが、1~2回低山を歩いただけのものであった。その靴は、2割引に心を引かれ、ちょっと大きめのサイズを承知で求めたもの。冬季なら、また短い距離なら問題ないと踏んでいたが、長い距離には不安が付きまとった。

 やはり問題は降り。そして、疲れてきた時。でも、大きなトラブルもなく、タイムも想定内であった事からしても、満足のいくものであった。唯、達成感は広がらず、単独行だけの味を噛みしめている。



9/10 週一の休日だと、中6日(働く日)なのだが、変則ながら連休があると、中5日となり、すぐに休日がやって来る。山ノ神の言葉を借りれば、「疲れが取れない内にまた休日がやって来る。」 のである。「今度は何処・・・」 と言われても、なかなか次行く候補が思い浮かばない。ない事はないが、適期かどうか、また仲間とはどうかになるからかもしれない。

 そんな事を思うと、週休2日の方々は大変だと思う。「何? 一年中の休日を、全て山に行くなんて事はない・・・」 「あっ~、そうか!」  「休日は全て山へ・・・」 の自分の方が可笑しいのか・・・ このライフスタイルもいつまで続くか分からない。今は、所用を休日以外に片付ける。特別でない限り、山行に支障が出る催しは断る。など徹底しているつもりであるが、どうしようもない事もある。でも、私は続ける。それが、牛岳や中山のような山にしか行けなくなっても・・・

 私は3人の子供達に言い続けている。「何もしてあげられない上、いつかは、あなた達の世話にならなければならないのであろうが、その期間がなるべく短いものであって欲しいと思っている。そのためにも、ずっと、元気に歩き続けたい。山は、妙薬のようなものなのであるから・・・」



9/9 山ノ神は、歩き始めて4時間経過後から、ガクンとペースが落ちる。その山ノ神と歩いていると、何ともないが、単独となると、7時間経過頃から足が重くなってしまう事が、今夏の経験から感じるようになった。決して速く歩いているわけでもないが、その辺りが私の限界なのかもしれない。

 今は、標準コースタイムに休憩時間を入れる事を目標としているが、その内コースタイムに休憩時間をプラスするようになるであろう。ゆっくり楽しみながらをモットーにしているが、「どうしても行きたいが時間がない。」 などの時は、速く歩くしかない。速く歩こうが、日程を詰めようが、余裕がないと面白く楽しくもない。

 その余裕というのが難しい。野球のグローブさばきでも、目一杯で掴んだ後は、暴投があるようなもの・・・  しかし、その余裕たるもの各自違うのが本当のところ・・・



9/8 室堂最終バスが午後5時。少なくとも、4時半過ぎには着かなくてはいけない。コースタイム通りではやや危ない。早く出発するか、それとも速く歩くしかない。昨夜のラジオから流れた予報は、「曇り 所によっては雨。」 であったが、起きて見れば満天の星。小屋で作ってもらえる朝食では間に合わないので、外に出て、湯を沸かし簡単な食事をした。

 まだ夜が明けぬ薄暗い中にも山並みのシュルエットがはっきり見え、越中沢岳が際立って高く見えた。スゴ乗越小屋で泊まったが、実際の乗越は30分ほど降った所にある。降った分また登り返すのであるが、そのルートがピークに達せず巻いた感じになっている。地図もGPSも見ないで、「越中沢岳のピークを踏まずして、ここに来た甲斐がない。」 と、ピークを求める。ルートに戻ってから地図を広げてみると、私の踏んだのは、スゴの頭であった。

 また、120mほど降って、270~80m程登った所が越中沢岳であった。いつも下界から見ている立山~薬師岳間のピークの位置関係がイマイチであったが、これで忘れる事もなかろう。越中沢岳から鳶山までが、これまた長い。250m程降って、また同じくらい登らなければいけない。

 でも、鳶山の頂に立つと、すぐそこに五色ヶ原がある。「ここまで来られればしめたもの。」 とまたまたコーヒーを沸かした。五色ヶ原山荘で水の補給をお願いしたのだが、「あんた早いね。何時に出て来たの・・・」 と言われ、ちょっと嬉しくなった。でも、ザラ峠から辛かった。獅子ヶ岳まで1時間を要してしまった。

 しかし、そこでも、五色ヶ原に向かう若者グループに、スゴからやって来たというと驚いていた。「おじさん強いね!」 これまたちょっと良い気分になったが、その頃からガスが立ち込め視界が悪くなった。そして、靴底に金属が張り付いたように足が重たくなってしまった。

 それでも、このペースだと一ノ越に午後2時前に着くし、雄山まで登ろうと考えていた。しかし、浄土山の山頂に立ってから、また戻ったとしても、ガスの中では面白くもない。「早く家に帰って一杯飲みたい。風呂に入りたい。」 の気持ちが強くなり必然的に室堂に足が向いてしまった。



9/7 折立~室堂は、今までなかなか縁がなかった。この先の体力や単独行の機会も狭まる事を考えれば、今しかないと考えた。幸い山ノ神が、折立まで送ってくれるという好条件が付いたから尚更であった。

 太郞平まで10:00、薬師岳山頂12:00の目標を持ってして臨んだが、意外なほど順調に事が運び、晴天も手伝い、ついついのんびりムードが漂ってしまった。高度を上げる度にシャッターを切り、小石にカメラを預けてのセルフタイマー、またまた湯を沸かしコーヒータイムと洒落込んだ。

 今年3度目の薬師岳であるが、薬師岳~五色ヶ原間は、私にとって未知の世界で、ワクワクする心と、長時間の歩きに耐えられるかと不安が同居する歩きとなった。雲海の奥に立山・剱岳がずっと顔を出し、振り返れば、北ア一の美形と言われる薬師岳が岩峰となり荒々しい姿を醸し出していた。向側には、今夏また機会を得る事が出来なかった赤牛岳が、形・色を変えて、ずっと見守っていてくれるような気がした。

 間山からスゴ乗越小屋までは、ガスが掛かった事もあったのかもしれないが、なかなか着かなかった。登山道に手が施されているように感じてから、「もうすぐ小屋があるハズ!」 と思った途端に姿を見せ、どっと疲れが出てしまった。

 五色ヶ原山荘から来たという若夫婦と、太郞平小屋から来たという中高年の男性、そして、私の4名が宿泊者。こじんまりして小綺麗なスゴ乗越小屋で、ちょっぴり山談義となったが消灯は8時。所々に常備灯として、ランプが配置されていたが、一つは私の頭の上。よく寝たかと思って時計を見るが、全然時計が進んでいない。10時・11時・12時とイヤになるくらい。眠ったのか眠っていないのか分からない。疲れているのに、明日の早立ちが気になっていたのかもしれない。



9/6 火曜日(9/8)のお天気が、ちょっと気に掛かるが、折立(薬師岳)から室堂(立山)へ縦走をする事にした。年老いた体力の現在では、とてもキャンプをしての1泊2日は無理。中間のスゴの小屋でお世話になるつもりである。

 台風が予定通り高気圧に押し戻され、また偏西風に乗り、尚更のように、東に進路を取れば問題ないのであるが、都合の良いようにならぬ事もある。その事ばかりではないが、嗜好品・必需品なども加えれば12キロを超えてしまった。先日の山行で靴にトラブルが発生し、予備の靴(昨秋買った新しい靴)を履かなければならないのも不安材料の一つでもある。



9/5 隣の町内に住むT氏から、「あなたのHPを拝見していると、どうも同じ頃に、私も山頂にいた事になる。」 と知らされた。8/16の黒部五郎岳での事であるが、お互いその認識が無く、デジカメタイムも照らし合わせたが分からなかった。しかし、T氏が私達の服装を確認すると、自宅で私達が片隅に映っている画像を見付けられ、やっぱりとなった。

 盆休の最中での百名山であったが、数十分の間で、行き交う人が、何十人もいなかったと思うのであるが、まさかを予想していなかった事が、お互い発見出来なかった事に繋がったのかもしれない。

 そのT氏は、カメラが趣味。1日目は、折立から黒部五郎小屋まで、2日目は黒部五郎小屋から水晶岳往復、3日目は黒部五郎小屋から薬師峠、4日目は薬師岳を往復して折立までの行程だったそうだが、全てキャンプ。そして、私とのニアミスは3日目という事になる。

 仲間との山行もあるが、「花を撮りたい時は、一人に限る。そして、ゆっくりですよ!」 と言われるT氏に頷いてしまった。T氏は、私と年齢が同じだったハズ? 「団塊の世代は、まだまだ元気。」  歳だとか、足が痛いなど言っておれないような気がする。



9/4 宴席ではないが、このところ会合・例会の類が続いている。そして、飲めば眠たくなるという軟弱な毎日であり、HPの更新も思うようにならない。雑務も山ほどあり、いつ崩せるか分からない程である。山行を少し削れば、かなり捗るかもしれないが、それでは生き甲斐が細ってしまう。

 「酒に負けない。」 「忍び寄る睡魔を蹴散らしたい。」 が、最大のテーマであるが、それは、「もっと、足腰を強くしたい。」 というに匹敵するものかもしれず、適うものでないであろう。でも、「ちょっとでも・・」 の気持ちが、あるかないかで、この先が違うと信じている。



9/3 意志の弱い心は依然揺らいでいる。「行けるだろうか?」 「戻れるだろうか?」 の他に、一人で行くプラス面よりマイナス面の値が大きくなって来ている所為があるのかもしれない。「大自然の中で、自由奔放である。」 「誰に気兼ねなく行動出来る。」 の利点は、安全や寂しさを上回る。

 しかし、帰ってからが寂しい。共通の想い出とならない事にである。苦楽を共にする価値観は、それぞれ違っても、何かに付け、それを話題に出来る事の喜びである。何度も同じ事を繰り返して喋れるのは、「同窓会と趣味の会」 くらいであろう。「また同じ事を・・・」 と言われる山ノ神との会話も、その共通の話題として許されているようである。

 「日帰りなら一日付き合う。」 という山ノ神を振り切って行くには、それなりの満足に浸らなければ、後々の負と相殺出来ない。立山~薬師岳はテン泊(1泊2日)ではきつく、交通費もさることながら、この時期の私の休日の条件からして、折立まで送ってもらうか、迎えに来てもらわなければならず、今回は見合わせにする事にした。

 一番は、剱沢・剱岳である。時間的に余裕が出来、充分に山を堪能出来るような気がする。それは、必ずしも頂きに立たなくとも、大好きな剱沢にいるだけでもいいのであるから・・・

 お天気なら双六と西鎌尾根も良い。樅沢岳からの槍がいい。でも、テントを担いで槍まで行けるであろうか?(新穂高まで・・・帰らなければいけない。)それ程の元気がないから、ちょっと辛いかな・・・ どちらにしても、お天気と士気の高揚である。両方とも、保であろうか保てるであろうか・・・・・



9/2 娘とヒメ(孫)の帰京の日が近付いてきた。「あまり愛想がない。」 「興味がないのか・・・」 と、こっぴどく娘にやられていたが、これからは、それが無くなり、いっぺんに寂しくのるのであろう。人には情があり、接していれば情が湧いてくるものである。

 今日は、そんな娘の誕生日であり、ささやかな宴(ちょっとオーバーかな!)を催した。忘れず、ムコ殿からも速達のメッセージが届いていたようである。「ワーワー、キャーキャー」 言っている我が家も、もうしばらくすると、ぶすっと何も喋らず、お互い不機嫌な顔をつきあわすだけになる日々が待っている。当たり前(平常)の事であったハズが、半年近くこんな日を送っていると、そうでなくなる反動が怖い。

 こんな私にも、ちょっとだけ夢がある。当時2歳10ヶ月の娘を薬師岳に担ぎ上げたが、このヒメも同じように担ぎ上げる事が出来ないだろうかである。山では一歩も歩かなかった娘であったし、許してくれるハズもないが、形は変わっても、何かそのような事を思ってしまうのである。

 何があっても山に行く父を、娘はどのように思っているのか分からないが、この頃は、「ジーに抱っこしてもらえ・・・」 とヒメをわざわざ私の所へ持ってくる。クールな「ジーさま」であるが、そのヒメ(孫)に、「元三さん」 と呼ばせてみたい。「元三じい」 でもいいから・・・ずっと元気でいなければ、そのような事は起こらない。



9/1 凄く良い天気に、昨日と入れ違いならと思ってしまう。ちょっとの差は、人生と同じなのかもしれない。月が変わると、こんなにも違うものかと思う程、いっぺんに涼しくなった。お彼岸まで、「まだ暑いね。」 「随分涼しくなったね。」 を繰り返しながら、今年も、これから本格的な秋になっていくのであろう。

 「次行く山は?」 山ノ神は、早々に、「泊まりなら不参加を表明。」 ならばと思うが、お天気次第。「行きたいところ。行ってみたいところ。」 でも、「そんなにしてまで・・」 「楽にしておれよ!」 の心と綱引きが始まる。