12/31 両親が亡くなり子供達が巣立って、何年か前から二人だけの暮らしに甘んじている。かといって、今のところ特別不自由な事もなく、他人様から見れば、好きなように暮らしていると思われているかもしれない。

 そんな我が家に、3人の子供が珍しく揃った。何年ぶりか分からない程である。そして、ギリギリになってやって来てくれたムコ殿に、姫ちゃんを加えると7人になった。賑やかで実にいい。これからは、山行回数を削っても、そのような機会を設けようかなと思うのである。

 子供の成長に、だんだんとオヤジの威厳はなくなりつつあっても、それはそれで、家族の繋がりというものであろう。子供のことは、幾つになっても心配である。それは、何処にでもいる親と同じ。でも、子供に心配される親には、もう少しなりたくないのであるが、子供達からみれば、もうとっくに、その域に入っているのかもしれない。



12/30 欲を言ったら切りがないのですが、一年の山行を振り返ってみますと、「まあまあ~」、いや、「よく行けた。」 と思います。健康・時間・経済(費用)など、何もかもが揃わないと行けないのですから・・・・・ ですから、「今が最高~。」 と思っています。

 晩秋から初冬にかけて、そして、年末へと、ちょっと尻すぼみの感はあったのですが、剱岳や朝日岳に行けたし、遠出(那須岳)も出来ました。一人になってしまったのですが、猫又山でも泊まれました。雪中キャンプは、一度しか出来ませんでしたが、大地方面へは3回も行けました。

 また、多くの山仲間との再会もありましたし、新たな交流も生まれました。そして、下界での宴を3回も催せたのも、より親密になったものだと確信しています。(好山病友の会) また、諸先輩から、いといろと声を掛けて頂き、ご指導やら応援を頂いたのも嬉しかったものです。

 最近は、「あっ、山ノ神だ!」 との声が掛かり、「そのそばにおられるのが元さんですか?」 という事が多くなりました。どちらにしても、嬉しい事と喜んでいます。たぶん、今の 「山ノ神」 の体調からして、来年の出番は少なくなると思いますが、なるべく一緒に歩けるよう努めていくつもりです。多くの方々と、いつもとは言えませんが、同行の機会がある事を楽しみにしております。



12/29 今年は、今日を入れてもあと3日となった。この時期になると、「この一年間、有意義に過ごしたのだろうか?」 と心を洗うのであるが、ちっぽけな拘りからは、何も生まれなかった事にいつも反省である。

 私は、いつも 「気遣い」 をテーマにあげているが、今年は、もっと突っ込んで 「してあげる。」 「してもらう。」 に、いろいろと、そして、何度も考えさせられた年でもあったような気がする。

 「してあげる」 事は、あんなに気持ちの良いものなのに、いつも 「してもらう。」 事を期待してしまう。そして、「してもらった。」 事を、案外忘れてしまうのである。私もその一人であって、今までたくさんの事を、いろいろな人達に 「してもらっていた。」 事を、当たり前のように見過ごし、感謝の念を怠っていたような気がする。

 今も身近にいる人にも、また、現在は袂を別つ人であっても、今一度思い浮かべてみれば、情けを掛けてもらっていた事があったように思い出したりもする。過去の温情を直接返せなければ、「何処かで誰かに・・」 返しても良いのではないかと思うような年齢になった。



12/28 空調がないどころか、戸も開放したままの部屋で休んでいる私であるが、いよいよペットボトルの出番が来た。2Lのペットボトルに熱いお湯を入れるのであるが、湯たんぽ代わり以上の効力を発揮している。足下に置くと、ちょっと熱いのであるが、冷たい布団の中に入る事を思えば、ひっつけたり離したりで結構良い気分である。

 これを同欄で公表した昨年、貧乏で可愛そうと思ってくれた女官が、「湯たんぽをプレゼントしようか。」 と言って下さったが、「我が家にも、文明の機器である電気アンカくらいはあるのですよ!」 と断った経緯がある。

 「ペットボトルも、もう少し大きく女体のような形であれば・・」 と言って、「山ノ神」 に叱られた事もあったが、冷めたお湯も、明朝に再利用しているのであるから、私は安上がりに出来ているようである。我が寝室?には、テレビ・ラジオもなければPCもない。古い掛け軸が吊ってあるくらいで、照明も暗い。かと言って、耐寒訓練の場ではなく、結構私の癒しの空間でもある。

 その我が家の年末年始に、おかしな話であるが、我が子供達が全員揃うようである。たった3人なのに、全員が揃うなどは、もしかしたら、10年ぶりかもしれない。先日の義兄の葬儀で、久し振りに顔が揃ったのであるが、やっぱり、「時間がない。」 「費用が掛かる。」 などと言っておれないとつくづく思った。

 布団がなければ、シュラフもマットもある。そんな事を思えば、我が家は、富はなくとも非常時に強い家である。それぞれ、友達との付き合いもあろうが、一緒に飲んで、いろいろ語り、一緒に寝られたら最高なのであるが、きっと、そうはいかないであろう。彼等の顔を一緒に見る事が、後何回あるのかと思うと、「和やかに楽しく時を過ごせたら・・・」 なのであるが・・・・・



12/27 午前6時過ぎ、山ノ神に「二上山に行かないか?」 と声を掛けたが、「行かない。」 と返事が素っ気なかった。今日中に、やっておきたい事が山積みであったし、特別のお天気でもないし、一人で行っても、面白い写真が撮れるわけでもないと思い 「「山行なし」 の日を送る事となった。

 午前中は、姉や姪への贈り物の調達、午後は、「山ノ神」 ・娘・孫の要望に応え、買い物に付き合った。こんな事は、最近経験した事がなかっただけに、本当の自分かと疑ってしまった。そして、疲れた。

 そんな中、「山ノ神」 の機嫌はイマイチだった。足が痛いと言う。昨夜も痛くて目が覚めたとまで言った。その痛さを表現出来ないと言う。「動いていた方が気が紛れる。」 とは言うが心配している。娘は、すぐに病院に行けと言うが、医者嫌いの 「山ノ神」には、それを聞く耳を持ち合わせていない。

 私は、咄嗟に10/11の事故の事が脳裏に浮かぶ。関係なければ良いのにと思うが全く分からない。1~2日前からではないというから尚更心配だ。そして、このところ、夜中に風呂に入っているようだ。ライフスタイルが変わりつつある。



12/26 今日は重たい雪(水分が含んだ雪)の除雪に苦労した。我が家は、街中の一軒家のような感じで、前も横も後も除雪しなければならない。おまけに雪捨て場がなく、積み上げなければならないと来ているから、余計に労力がいる。それは、屁とも思わなかった時期が過ぎた事になる。

 明日は、今年最後の休日(山行日)であるが、外は、ビュービュー風と共に雪が吹き付けている。これじゃ志気が上がらず、「何が何でも・・・」 という気が起こらない。一度でも、行かぬ日があったら、腰砕けになる気がしていたが、本当に恐ろしい事である。

 雨の日も風の日も出掛けるのは、スポーツジムに行っている代わりと、人様に定義づけていたのであるが、明日行かなければ、なし崩しになるから心は揺れる。年末、娘・孫の来高、昨夏からの車一台体制など、取り巻く環境も、心を乱す要因になっている事は確か。明日、目が覚めてからになる。



12/25 何とか思っていた日までに年賀状を投函する事が出来た。これでホッとしたと思ったら除雪が待っている。あまり降らなければよいが・・・・



12/24 東京の娘と姫ちゃん(孫)がやって来た。、富山の天候次第では、引き返す事覚悟、また、小松着陸もあるとの条件付きで、羽田発ったとか。そして、富山上空で50分も待機して、ようやく着陸出来たそうである。

 1歳7ヶ月になった姫ちゃんは、雪を見て大興奮。この来客で、我が家は、2~3週間賑やかになり、そして、振り回されそうである。



12/23 年賀状を書くに付け、一人一人の顔を思い浮かべていると、なかなか捗らない。眠たい目を擦りながらでも、キーボードを打つのは、師走や年度末の情緒であり一つの歳事である。年賀状不要論がないでもないが、無くなればやっぱり寂しいであろう。

 ここ3~4日の奮闘が奏功し、明日明後日までは、投函する事が出来るであろう。しかし、今年も欠礼のハガキを25枚も頂いた。知人友人の当人もあれば、ご家族の不幸によるものであるが、やっぱり寂しい。儀礼的であろうがなかろうが、一年に一度の自己アピールの場を大事にしたいと思っている私である。



12/22 先日の同窓会的山行に「花じい」 と池田夫妻の参加あった。実のところ、参加があったと言うよりも、参加を願ったと言うのが本当かもしれない。体調不良や自信がない(謙遜)の理由で、不参加の連絡があったが、何とか思い直してもらって一緒してもらう事が出来た。好天も手伝い思いの外元気であったが、それなりのリスクを抱えておられたようだった。

 「楽しかった。」 「来て良かった。」 の言葉をもらったが、後の事が心配であった。その心配は、「来年は・・・」 の言葉をもらって、「良かった。」 とようやく心の中で呟く事が出来た。

 お二方は、同窓会的山行の原点である方々、ずっと元気でいて欲しいし、一緒に歩いて欲しいのである。この度参加してくれた若い方には、少々エネルギーが有り余ったかもしれないが、あの雪の状態では、思い通りにならず、それなりに苦戦したはずである。常連のハレルヤのメンバーも、半年ぶり、一年ぶりであって、本当に同窓会となったような気がする。

 

12/21 毎年の事であるが、「今年こそは・・・」 との意気込みも、師走の声を聞いてもエンジンがかからず、このところの慌てに繋がっている。元々睡眠時間が少ない方かもしれないが、毎日4時間を切ると、やっぱり日中は眠たくなる。でも、そんな事は言っていられない。目標の娘と孫が高岡入りするまでとはいかないまでも、当局お勧めの25日までは、何とかしなければと思っているのであるが・・・・

 PC仕様の年賀状であっても、一人一人の顔を浮かべて、コメントを載せるように努めているが、時間切れで、最後は一緒くたになった苦い経験もある。目を擦ってでも、やらなくては・・・・



12/20  HPの続きと思い早々の起床となったが、小雨が降り続いていた。連続休日登山が途切れたからではないが、しなければたくさんあり、あれやこれやとやっていたら、すぐに時間が経ってしまった。

 「てんぱん」 を見ながら、昨日の残り物であるおにぎりと、インスタントの吸い物で、朝食を済ませようとしていた頃に、「山ノ神」 が、目を擦りながらの起床であった。「雨は降らないよ。」 と言った途端に、また、雨となり気勢を削がれてしまったが、「八乙女山と高落場山とも、10回登山にもう一回ずつ足りないので・・・」 と言うか言わない内に、「年賀状も未だなんでしょう。」 嫌みというのか、自分の行きたくない所だったようで、話が途切れてしまった。

 少しの時間経過後「二上山にしようか。」 となった。 そのような所は、「山ノ神」 の大好きな所なのであるが、違ったルートから行けとの注文が出た。「林道歩きでも良いから・・」 である。幾つかのルートを調べていったものの結果的には、自然休暇村からの出発となった。

 大師ヶ岳へは、1時間も掛からないハズであったが、「山ノ神」 は、林道脇のフキノトウを採り始めた。「何をしているのか・・」 と言った私であったが、いつの間にか、私もフキノトウ採りに終始してしまったのです。

 年末のふきのとうは、確か辰口氏か吉尾氏に教えてもらったとかで、雪解け時期のような大きさはないが結構香りが強い。雪降る前、あるいは、ちょっと降り出した頃のフキノトウであれども、山菜採りが出来るなんて、これはたまげたことでした。これを今夜の天ぷらにしてくれたら、晩酌に打って付けなんですがねぇ~。

 山頂で、カップ麺の簡単な食事をして、コーヒーを飲み終えた頃には、とっくに午後2時を過ぎていた。それから国泰寺に向かって降りだしたら、雨が降り出した。いつものように雨具を出せば、止むのであるから不思議である。

 「国泰寺に来た事がない。」 という「山ノ神」 の要望に応えて境内を散策。後県道を歩き車デボ地点である自然休暇村に戻った。簡単な山歩きであったハズが、家に戻れば、牛岳辺りに行ったのと何ら変わらなかった。  (二上山ではなく、お隣の大師ヶ岳の山頂に立ちました。)



12/19 予想通り絶好の山行日よりとなった同窓会的山行・白木峰。放射冷却のため大長谷への道路は、ピカピカカチカチであったのですが、何とか7台の車を管理棟まで入れる事が出来ました。真新しい雪上を思い思いのスタイルで、しかも賑やかに、それこそ同窓会のように、弾んだ声が、山中にこだまする感じでした。

 その中には、無理な招聘に応えて下さった山友もあれば、元気がみなぎった新たな若い顔もあり、自然と輪に溶け込んでいるように感じました。共通の思いがあれば、老若男女を問わず、知恵や思いやりが、その都度発揮され、信頼・親しみの礎となり、時間が経っても懐かしさとなって残っていくような気がします。

 真っ青な空・真っ白な雪、そして、素晴らしい展望に恵まれたのでしたが、車も雪上装備もこの冬初めての始動だけに、戸惑いもあったと思われます。不安定な雪、高度を上げる度に冷たい風が襲いかかりましたし、また、日照時間の一番短い時期でもあります。指揮とる者の不甲斐なさも手伝ったのでしょう、1500m余付近で登頂断念しなければならなかったのが、ちょっと悔しかったかもしれません。

 しかし、その中で、楽しい食事時間を設けられた事、下山してから、恒例の堀シェフ特製のティラミスに有り付けた事、日没前に帰途に付けた事、そして、無事下山出来た事が何よりでした。独り善がりでありますが、皆に助けられ、一つの行事を終えた満足感に浸っています。



12/18 明日は晴れると確信出来るくらいの予報です。そんな日に、今のところ13~17名が集うようです。馬力のあるなし関係なく山が好きでたまらない方々です。協調性のある方で、団体行動が出来る方なら、知っている知らないなど関係なく、今からでも間に合います。明日は、年に一度の同窓会的山行なのです。



12/17 信じて良いのかどうか分からないのですが、予定する同窓会的山行日は晴れマークが付いています。HP上以外連絡をしなかったので、果たしてどれくらいの方々とお会い出来るのか分からなかったのですが、結果的には馴染みのメンバーになる様子です。

 今回の特徴は、「足や膝が痛い。」 「思うように歩けない。」 の事前報告が結構あります。皆、何処かが悪いのでしょうが、三味線的な言動もあるから面白いです。「行きたいけれど自信がない。」 との連絡もありました。私は、そんな方の荷を担いでも、後から押してでも一緒したい気持ちです。例え頂きに達しなくてもです。何かの縁で仲良くなった山仲間ですから、自分の調子の良い時は力を貸したいと思っています。

 雪は、どの地点からあるのか、行ってみなければわからないのですが、キラキラ光る真新しい雪の上で、親交が深まる事を願っています。



12/16 このところの画像が悪い。どうも、今のカメラになってから、相性が悪いのかピンぼけが多い。カメラだけが悪いのではなく、撮り方の問題だとは思っていても納得がいかないのである。前のカメラが良かったと言っても、壊れてしまったのではどうしようもない。

 精度や機能が良くなったのであろうが、私の思うようにならないのだからこぼしたくなる。先日の小佐波御前山記念山行などは全滅である。こんな事を言い始めて半年ほどになるのであるから、何か打開策を講じなくてはなるまい。一眼レフに届かないまでも、一番簡単な(機能があまりない。)カメラを手に入れなければいけない事態なのかもしれない。



12/15 本当に雪は降るのだろうか? お昼頃を中心に、五箇山方面で、かなり降ったようだが、思った程の積雪になっていない。高沼や梨谷では積雪が観測されているが、西赤尾では依然と0㌢である。もちろん道路情報からのものであるが、八尾でも立山でも積雪を観測されていない。

 山沿いでは、あまり降らなかったという事なのだろうか? それでは、山では降ったのであろうか・・・・ やはり、登ってみなければ分からないという事か・・・・・・・



12/14 急に膝の調子がおかしくなった。歩けるのだけれど、何だか可笑しい。どうかすると痛いのである。弱くなった事は事実なんだけれど、もう歳のせいにする事は止めた。そして、少々顔にシワが寄ろうが、背中が丸くなろうが、歳を取るのも止める事にした。(歳を口にしたらお叱り頂きたい。)

 そんな中、仲間達に相談もしないで、山の情報欄に、「同窓会的山行」 のお知らせを載せた。昨年は中止にしたが、やはり寂しかった。「久し振りの顔」 を求めた感が歪めないが、唐突だから、反応は薄いかもしれない。それはそれで良いので、心を同じにした人達と山に集いたい。出来れば、お天気も味方して欲しいのであるが、こんな時だけ神頼みとは、虫が良すぎるかもしれない。



12/13 午前8時半、記念山行ため上市に集ったが、後の雨を想定して、行き先は小佐波御前山に変更となった。ルートにはいろいろ案があったが、集う事に意義があったので、歩きながらでも話せるメーンルートとなった。

 6周年の記念の日は、ちょうど月曜日となったのであるが、年末を控えて忙しいのに、日程を合わせてくれた仲間達に感謝したい気持ちだった。もうどんな山でも良かった。歩けて話せれば良かったのである。歩きながら、前へ行ったり、後に下がったりし、皆と話せるのは、宴にはない楽しさが戻って来たようであった。

 山行はともかく、ついこの間あったのに、「一緒に歩ける。」 喜びを感じたのは私だけではなかったハズ。元気者の3人がいてくれたら、もっと良かったのであるが、それは致し方ない。そして、何年先になるか分からないが、このような山行スタイルが、メーンとなるような気がしてならなかった。

 「こんなに仲の良い会はない。」 と豪語してもよい。それは、出し抜くような者がいないなど、お互いへの気配りがあるに他ならない。プライバシーを守りながら、そっと、気遣うテクニックは、皆が持ち合わせていたとは考えにくいが、良いように伝染していったのかもしれない。

 年齢差を意識しながら、各々の特徴を生かし、思いやる気持ちを、ずっと持ち続けば、わが「好山病・・」 は、10周年も20周年も迎えられる事が出来るであろう。

 6周年のイベント最中に、時間を割いて、最近売り出し中の「浜ちゃん」 がやって来てくれた。借りてきたネコのようであったが、彼の祝福してくれる気持ちが充分に伝わって来た。



12/12 義兄の葬儀で埼玉に出掛けたが、お手伝いする事もなく、もしかしたら、足手纏いになっていたかもしれない。それどころか、不要なコメントを発していたのではないかと心配している。もしそうであっても、素直に反省し、次に生かせばよいのであろう。そして、故人との想い出は、そっと胸にしまい、新しく生きて行かねばならないのである。

 明日は、好山病の6周年に当たる日。今のところ、メンバーの8名が揃うと聞いている。せっかくなのだから、晴れないまでも降らないで欲しいものである。

 

12/11 葬儀・告別式・初七日法要と慌ただしく過ぎて行き、悲しみを紛らわしているようであった。式次第通りに事は進まず、電車の時刻を気にしなければならぬ人達には尚更であったかもしれない。姉の家に戻り時を過ごし帰途に着いたが、酒を口にせずとも、連日の寝不足と非日常の生活だっただけに運転が心配であった。

 しかし万全の姿勢に望んだからであろうか、予定より早く来高する事が出来た。野尻湖から 妙高高原辺りでは、除雪車が動いた形跡があり、いよいよ冬を感じた。冬タイヤを履いていても、ハンドルを握る手には、初めての雪だけに汗を掻いてしまった。

 そして、眠さを堪えての仕事となったのであるが、もう2日間を乗り越えれば、「また山に行ける。」 と私には、待っているものがあり、少々の辛い事も乗り越えていく力が湧いて来るのである。



12/10
  「開き直りの人生」 夫は、よくそんな言葉を口にしていました。
  貧しい農家に生を受け、海軍に入隊後、命を捧げ国を守る特攻隊員に志願し、終戦を迎えたそうです。

  戦後、苦学の末大学を出て、極東米軍地図局、北斗測量を経て、53歳で、ようやくヤマト測建を興すまでに至りました。
  自分の境遇も時代も、裸一貫から始まった夫の人生は、まさに「開き直りの人生」 だったのかもしれません。

  75歳で病を得た後も、治療とリハビリに励み、奇跡的な快復を見せてくれました。
  私の運転する車で営業に回り、杖を使わずに歩いて周囲を驚かせ、
  仕事意外にも庭の手入れや温泉巡りなど、夫婦の時間をゆっくり楽しむ事が出来ました。

  穏やかな時間をもう少し一緒に・・・・という願いは叶わず、「今までご苦労様でした。ゆっくり休んでください。」
  と労いの言葉をかけ、旅立ちを見送りたいと思います。



 これは、姉が義兄に送った最後の手紙である。(お別れの言葉)  今夏は、姉が膵臓の手術をした事もあり、別々の病院で過ごした事があった。姉は術後、傷口がままならぬ時に、義兄の事が心配でたまらず、同室の患者にカンパをお願いして、パジャマ姿のまま、タクシーで義兄の病院に出向いた事を知った。

 退院してからも、身を振り返らぬ看病は、逆に何回も病院のお世話になったとも知らされた。晩年は、とても仲の良かった夫婦だっただけに、涙がとてつもなく溢れ止まらなかった。姉は義兄より10歳も若い。現在抱えている病気は治る事はないであろうが、ずっと、元気でいて欲しいと思うのである。



12/9 流石、ヤマト測建の創業者だけに、通夜式には多くの方々のお参りがあった。改めて裸一貫から築きあげた義兄の存在を認めざるを得なかった。

 不謹慎かもしれないが、悲しい出来事では、日頃ご無沙汰している方々の交流が生まれる。夜遅くまで悲しみを忘れさせるかのような歓談が続いた。お陰で私は、連日午前2時まで飲み続け、二日連続の寝不足に陥った。

 娘も2時間掛けてやって来てくれた。長男は大阪から間に合うようにやって来てくれた。また、明日は二男もやって来てくれる。このような時しか兄弟達も揃わないものなのだろうか・・・・



12/8 何もする事などないのだけれど、何か落ち着かず、軽い食事をして車で出発した。差し入れするのに芝寿司とおはぎを買い込んで、8号線を走り魚津から高速に乗った。

 平日の日中だから、なるべく高速の走る区間を短くするという計らいもあるが、小杉から乗っても、差程時間が変わらないからである。本来なら、深夜割引や、もっと下道を走るなどして、節約に徹するのが常であるが、今回はそんな事も言ってられない。

 ゆっくり走るから(何回も休息する)、夜になると思っていたが、意外と早い時間に姉宅に着いた。圏央道の終点のICなのであるが、前回のお見舞の時は、下調べしていったのに、カーナビのない悔しさを感じてしまったが、今回は、念には念を入れての行動であったでけに、難無く辿り着いてしまった。

 姉の家に行くのがよく分からない程、出掛けていなかった事になるが、GPSまで駆使してしまった。でも、あくまでお守り的であって、頭の中に地図を叩き込んだ形になった。 意外な差し入れは、かなりのインパクトがあったのか結構受けた。もうちょっと買って来れば良かったと思った程であった。その夜は、疲れているだろうと思われる子供達に代わって「山ノ神」 と共に義兄を見守った。



12/7 今日は休業日であったが、何処へも出掛ける気になれず、自宅待機を決め込んだ。明日も午前中だけ店を開いて、それから埼玉に行こうと思っている。休日を入れて、5日間ほど仕事をしない事になるが致し方ない。義兄との最後の別れに行って来る。



12/6 義兄の通夜・告別式が、会場・お寺の都合で、また、友引とも重なって、9日・10日に延びた。急いで行っても何のお手伝いも出来ない上、邪魔になるだけではないかと、昨夜の出発を、少し先に延ばす事にした。

 山行も忘年会もキャンセルしたのであるが、しょうがない性格の私は、何もしないで家にいるよりと思い、小さな山行に参加させてもらった。ねぎちゃんちのお店の企画によるもので、大岩~城ヶ平山~ハゲ山~浅生~大岩と歩いて来た。好天に恵まれ、剱岳・大日岳や毛勝の山々が、真っ青な山に向かって聳えている様が印象的だった。

 歩きながら、故人(義兄)と姉の事が、次から次へと頭に浮かんできた。現在もそうであるが、今の今まで、ずっと甘えてばかりであった。皆、いつかは逝く。それまで、どれだけ有意義な日々を送れるかになるのであろうが、それは計る事など出来ない。周りの人の事を思いながら、正直に生きる事しかないであろう。



12/5 お昼過ぎ義兄が亡くなったと姉から電話があった。涙ぐんだ声に返す言葉がなかった。悲しい。とても悲しい。そして、病弱なのに泊まり込みをしながら、必死に看病していた姉が心配になった。



12/4 スランプです。「何かを・・」 と思っているのですが書けません。あれもこれもと思っているのですが書けません。バランスが悪いのでしょうか・・・・



12/3 昨年末は、恒例の同窓会的山行を行わなかったが、終わってみれば、やっぱり寂しかった。今年は、再開と思っていたのであるが、ちょっと事情があり企画するに至らない。でも、12/19(日)まで、まだ時間があると、自分を慰めている。「あの人は、どうしているのかな?」 と思うのは、この時期である。



12/2 このところ何かとせわしい。息子の婚姻や埼玉の姉夫婦状況、そして、従兄弟の死。忘年会や会合などの付き合いもあり、年賀状の妙案が何処かに消えて行ってしまった。人生忙しくしていた方が、身体・頭のためには良いようであるが、悲しいのはたまらない。

 「死に目を立ち会った。間に合わなかった。」 などと言われるが、生前の父は、「死に目などに会いたくない。見たくない。」 とよく言っていた。それは4人の子供を亡くし、6人の兄弟とその夫人、また親しい友人との悲しい別れを経験しているだけに、「辛くて悲しい。」 と言っていた。でも、そのような機会を避けてはいなかったが・・・・

 私は、4人の親を、とっくに亡くしているから、家族の死などないと思っている。(順番からは, 私が先だからである。) でも、親戚・友人の家族などの死と遭遇するに付け、涙が止まらない。涙もろくなっただけではなく、「死とは・・」 と考えるようになったからかもしれない。

 愛した人・世話になった人・仲良くしてくれた人との別れは辛い。「もっと、何かをしてあげたかった。」 は、誰でもが経験し思っている事。「悔いは残らない。」 などと言い切れる人は、世にどれだけの人がいるのだろうか・・・



12/1 今日から師走。残すところ、後一ヶ月となった。上手くいって山行機会は6回(6日)となった。諸事情の関係から、もう泊はない。この時期になると、「今年の山行は思い通りになったか?」 と振り返る。「あれもこれもと思ったが、周りの環境や体力などを考えると、そんなもんだ。」 となる。妬まず欲張らず、「今が最高。」 と思えば、いろんな物が違って見えるものである。

 そんな中、この一年間6回7泊なのだから、よく行ったものだと思わなければいけないだろう。しかも全てテント泊なのだから・・・・・ 今年は、1~3月のテント泊がなかっただけに、「来年こそは・・」 と思っているが、体力低下の他に、歳を取ったら取ったで、また別の用事が出て来るのがネックである。その障壁も、それなりに乗り越えてこそ、行きたい所に行けるような気がする。