8/31 やっぱりカメラは買えなかった。ギリギリのお金しかないし、この先、登山靴を買わなければならないと思うと、どうしても手が引っ込んでしまった。「紅葉の時まで・・」 との先送りは、願望と現実とのギャップを埋め尽くせるものでもない。

 世には、何でも思い通りに買える人もあれば、私より困窮に陥っている人もあり、本当に様々である。長年使って見映えの悪い備品の使い勝手がどうであれ、安いビールの味がどうであれ、余計なお世話と言うしかない自分に、情けなさと嫉妬も絡んで、やり場のない気持ちを払拭するに時間が掛かる。

 「早く起きて、高速を使わないで下道を・・・」 「温泉に入らないで、すぐ帰宅。」 などは、人付き合いの支障にならない苦肉の策である。「次行く山のために・・」 と「快適」 の選択に他ならない。それも、「テーマ」 を持ってすれば、そんな卑屈にならなくても良いからおかしなものである。

 少々お金がなくても、「体力と調和」 を備えておれば、何とか人付き合いが出来るものである。自惚れず、人の気持ちになってあげれば、上手く行くのであるが、まだまだ、その域に達する事が出来ないでいる。せめて、「粋」でありたいものである。

 

8/30 北ノ俣岳から戻って、簡単な後片付けをし入浴を終えたら、10時半を回っていた。その後は、恒例の反省会となるから優に日を跨いでしまった。未明の2時半頃に起床しているから、睡眠時間などないに等しい。

 「遊んだ後は、尚更しっかりしないと・・・」 を、しつこく言ってあるのだが、「山ノ神」の体力からして、やっぱりダメなのかもしらないけれど、起きて来なかった。連れて行かないと膨れるし、一緒に行けば○○だし、全く弱ったものだ!

 寺地山までの登山道のぬかるみは承知であったが、避難小屋分岐から北ノ俣岳稜線までの登山道が、かなり傷んでいた。木道は傾き、留め金の外れている所があった。我々のように、登ってからまた降りて来る者なら、分かっているから注意のしようがあるが、下山路だけに使う人で、特に走るように降りて来る人達には、とても危険なように思えた。また木道でない登山道の崩壊が激しく、草地を歩かなければならないような所が、ドンドン増えていくような気がした。



8/29 我々の足では、休憩など入れると12時間を要する。どれだけ早く出発出来るかであったが、登山口発は午前6時になってしまった。「山ノ神」の荷を出来るだけ少なくした事もあって、私は13キロ。それでも、ぬかるみを気にしながら、寺地山には、コースタイム通り3時間で到達する事が出来た。

 でも、北ノ俣岳まで5時間で行くとなると、もうちょっと速くなければならない。今日も、4時間を経過した避難小屋辺りから、「山ノ神」の足が止まった。しかし、「山ノ神」自信が提案した山行だけに、「途中で止めた。」 などとは言わなかった。

 早朝のお天気と違い、稜線に出た頃は、ガスに覆われてしまい展望などなかったが、長時間歩いての達成感を味わうと共に、雷鳥の子供達の群れと何度も遭遇した。それでも山頂に1時間は過ごしたので、またまた日没との戦いになった事は言うまでもない。



8/28 あてにして良いのかどうか分からないが、明日の高岡は、一日中晴れの予報である。お隣の飛騨市は、夜半から明け方に掛けて雨の予報である。(日中は、晴れの予報) それを知ってか知らないでか分からないが、「山ノ神」は、寺地山から北ノ俣岳に行きたいという。

 しかし、寺地山までは、ぬかるみが酷く、何日も好天が続いた後でないと、あまり快適な歩きが出来ないような気がする。残雪期しか歩いた事のない「山ノ神」は、そのような事に耳を貸さず、とにかく、雪のない時に歩いて見たいの一点張りである。

 行って体験してこそ分かるのかもしれない。それにしても、最近は、アタックザック(小さなザック)がお気に入りで、そのようなロングランのコースを、自ら提案するに至ったのかもしれない。



8/27 日本中、ゲリラのような雨が続いている。その降り方が、他の地方に行ったのか、この先2~3日は、好転の予報である。まだ信じられない気持ちが手伝ってか、休日の予定を立てられないでいる。

 立山の3割引があるように、今はどちらかというと、中途半端な時(季節)である。低山は暑いし、虫害もある。交通費の掛かる所へは慎重になる。グチャグチャが予想される所へは、あまり気が進まない。随分と欲張りである。どちらにしても、ギリギリまで考える事になろう。



8/26 今、欲しい物は、カメラと登山靴。何度もお店に足を運ぶが、なかなか買う事が出来ない。それは、充分なお金がない事と、仮に買えたとしても、後はスッカラカンになってしまうからである。

 一眼レフのカメラが欲しいというのは私の欲からで、ピンぼけになるとはいえ、まだコンパクトカメラがある。それに比べ、靴底の減りと綻びは相当な物で、これこそ命に関わってくる。それは、林道歩きを含め無駄な歩きが多い所為かもしれない。しかし、どのような歩きにせよ、山歩きに代わりはない。

 「あれが欲しい。これが欲しい。」 となる事は、目標設定と同じで、人生に張りが出るという事かもしれない。一年二年で靴がダメになる程、まだ歩けるのだから、考えようによっては、私は幸せ者かもしれない。



8/25 お天気もあるが、「今度どうする?」 の声に、なかなか返事が出来ないでいる。結果的に何処かへ行っているのであるが、きっちりした予定が立てられない。「あいつは、必ず行く。」 と分かっていてくれる仲間は良いのであるが、「今度、何処かへ行きましょうか・・」 と、こちらからは誘いにくくなっているのは事実である。

 「人生思い通りいかない。」 のは当たり前と思えば良いのかもしれないが、人間が出来ていないから、なかなかそうは思えない。「あんた、60年間思い通りになった?」 との「山ノ神」のイヤミの問いかけには、具の根も出なかった。この先も、そう悩む事はない。どうせ思い通りにはいかないのだから・・・・



8/24 双六・鷲羽山行の際、鏡平・双六小屋前・鷲羽岳山頂直下と3度お会いした福島の直子女史からメールが届いた。同女史は、単独のテント泊で、双六から鷲羽越えをして、雲ノ平に入られたが、お天気が悪くなるとの情報を得、翌日予定を変更して、一気に新穂高まで降りられたそうである。下山してしまったらそうでもなく、余力からか、白馬岳をピストンされたそうである。

 一見、穏和で控え目な方にお見受けしたが、東北特有の粘り強い方だったようだ。私は、多く語れなかったが、「山ノ神」が、私のHPの事を、ちょっとPRしてくれたのであるが、同女史から、「拝見したことがある。」 との返事を頂いた。アドレスを紹介せずとも、HPから、今回のメールを頂いたのであるが、リンクしないアドレスに関わらず、よくぞ送って頂いたと感謝しなければいけない。

 双六のキャンプ場には遅く到着した上に、雨まで伴ってしまい、また、あれだけ多くのテントの中では、探しようがなかったが、それでも、一緒に食事が出来なかった事に、ちょっぴり悔いが残るところである。



8/23 やっぱり疲れた。お金を掛けられない分を、体力でと思っているが、だんだんと、そうはならないようになっていく事が分かって来る。悔しいが仕方がない。でも、山もそうであるが、行きたい場合はその方法しかない。

 しかし、人様を上回る物を何も持ち合わせていないといって、嘆いてばかりもおれまい。やっぱり何か身に付けるか、頑張るしかない。でも、そうそう体力を付ける事も出来ず、衰えるのを、少し遅くするように頑張ってみようか・・・・



8/22 夜中に、強い雨が降った事もあってか、ちょっとひんやりし、タオルケットだけでは寒く、毛布に手が伸びた。昨日の風呂掃除は、長年のカビを一層出来ず、再度挑戦を試みた。でも、そのカビを退治する事が出来ず、ピカピカと言える程にはならなかったように思ったが、姉は頗る喜んでくれた。調子に乗って、洗面所の配管の点検、照明器具の取り替え、そして、「山ノ神」は床掃除をやってくれた。顔をほころばせた姉は、「また来て欲しい。」 と何度も言った。充分とは言えないが、ずっと、同じ話を聞いてあげた。たくさんお土産をもらって、桶川を発ったのが午後4時である。

 まだ明るいので下道を走った。どのようにしたら早く高岡に着くか、どうしたら、安くあげるかが頭の使いどころなのであるが、最後まで迷った。単純に半額の恩恵を受けるには、午前0時まで、高速を降りるのを待たなければならない。また、高速を降りてから、小杉からだと15~20分、魚津からだと、40~45分掛かる。高速利用距離を少しでも短くしたいし、帰ってビールを飲むためにも、午前0時前に自宅に着きたい気持ちもあった。

 熊谷や深谷のバイバスを上手く通過してから、それでは、藤岡か高崎ICから、通勤時間帯割引を利用して100キロを走り、後は下道を走れば今日中に高岡に着くという目論見になった。ところが、ところが、何度もカーナビの指示を無視して、バイバスを走り続けて来たのに、高崎市街地に入ろうとした時、市街地入りを拒否しカーナビに従った事が仇となり、北関東自動車道・南前橋ICに入らなくてはならぬ羽目になってしまった。

 それでも、100キロで湯沢まで行く事が出来た。湯沢から十日町を経由して、以前良く通った253号線を介して上越に出るのであるが、途中何度も通行止のため、迂回路に従ったり、またまた大雨に遭遇しかなりのスピードダウンを強いられてしまった。しかし、山ノ神の運転もあり、目的通り、午後11時台に高岡入りをする事が出来た。



8/21 埼玉に行くにあたって、ケチケチ作戦を練った。日曜日の今日は、高速道は半額であるが、圏央道は、すんなり半額とはいかない。ならば、関越道も蜂ヶ島JCT手前で降りる事にした。そして、最近入手したカーナビたるものを駆使し、姉が住む桶川に向かった。途中、何度も、カーナビ君が、圏央道方面にシグナルを出したが、無視し続けると後は上手くいった。

 昨年の今頃、姉と義兄を見舞に埼玉へ出かけてから、この一年で5回目となったが、その先の30年間には、4~5日回程しか出掛けていないような気がする。ずっと、私の事を気に掛けてくれていた姉に対して、「今してやれる事は数少ないが、まずは、顔を見せてやる事ではないか。」 との「山ノ神」のアドバイスには、すぐに返事は出来なかったが、「どうしても、低山を歩かなければならない事もないだろう。」 「雨の山を歩く事もないだろう。」 と自分を納得させてしまえば、後は後ろ髪を引かれる思いなどなかった。

 義兄のお墓参り以外は外に出ず、ずっと話をしておれば良いと思っていたし、食事も、美食ではなく、こぢんまりと質素にすれば良いと思っていたが、夕食は、甥(姉の長男)家族と一緒に外食となってしまった。それは、それで久し振りの親交となって良かったような気もした。

 姉は、何をして欲しいと望まなかったが、私は、身体が少し不自由な姉が出来ないお風呂を買って出た。後は、夜遅くまで、もっぱら聞き役に徹した。



8/20 山から降りたら、大阪の息子の所へ行かなければと思っていたのですが、都合が着かない事もあり、もう一つ気になっていた埼玉の姉の所へ行く事にしました。一人暮らしで、ちょっと気落ちしている姉を、激励する事と、昨年末に亡くなった義兄の墓参りを兼ねての埼玉行きになります。

 今までの私なら、行き帰りのどちらかに、過去、一度ずつしか出掛けていない、新潟の米山や上越の谷川岳などを行程に入れそうなのですが、今回は、天候が味方し?自粛の方向です。

 今日は、私の誕生日でした。10名の方々から、いろいろな形でお祝いを受けました。皆さんに大事にしてもらう為にも、常に下を向かないで、前向きに生きていこうと思った次第です。



8/19 双六から戻って、「北ちゃん」のHPを開いたら、大猫山(15日)で負傷している事が分かった。左足の捻挫で、10日間くらい固定が必要との事であったが、心配でならなかった。私より好山病の諸氏らは、先にその情報を得ていたと思われたが、念のため「北ちゃん負傷」と、次のようなメールを送った。

 「お暑うございます。既にご存じかもしれませんが、好山病・・の重鎮「北ちゃん」が、足を挫き10日間固定しなければならない状態になっています。本人は大猫山の下りで 、足を滑らせ捻ったと言っておりますが、もしかしたら、山の妖精のような美人に見取れていて、転んだのかもしれません。或いは、日頃、おっとりした奥方に、背負い投げをかまされて、挫いたのかもしれません。どちらにしても、早く治って欲しいものです。「北ちゃん」が治ったら復帰山行を企画したいと思っています。」

 ちょっと、不謹慎な連絡メールだったかもしれないが、心配して「北ちゃん」のお店に駆け付けてくれたメンバーもいたし、「何処に入院しているの?」 などとの問い合わせがあったりもして、チームワークの良さを改めて確認出来た。

 当の本人は、至って元気で仕事もしております。しかし、一寸だけ山には行けないようです。「慰めに・・」 または、「当時の状況など・・」 に興味のある方は、「北ちゃん」 のお店に行って見て下さい。



8/18 昨日の帰高は、午後5時40分くらいであった。後片付けをし、入浴後、待望の反省会に入った。その先に、日没までの1時間ぐらいは、濡れた物を、ちょっとだけでも干そうと、物干し竿に吊したのである。

 エアコンを掛けて、冷たいビールを口にすれば、最高の気分であった。しかし、しばらくして、何だかバタバタする音がしたと思ったら、スコールのような雨が強烈に降り出した。「わ~っ」 と外に飛び出し、家中に取り込んだが、何のために干したのか分からなかった。

 今日は、その濡れた物を、もう一度、乾かしにかかったが、また雨に遭ってしまった。我々の山行と同じく散々であった。「遊んだ後は、尚更のように、しっかりしないと・・」 の口癖が「山ノ神」に浸透してきたのか、今日は、通常通りに起床してきた。でも、階段の上り下りや、落とした物を拾うのが辛いようである。



8/17 夜中の星空は、やはり一時の事で、我々には味方してくれず、目が覚めた頃は、ガスが立ち込めて、風も伴っていた。晴れておれば、「もう一度、双六岳の山頂に立ってみたい。それがダメなら、反対側の樅沢岳山頂まで・・」 と思っていたが、その望みも砕かれてしまった。

 「ゆっくり降りよう。」 「何度休んでもいい。」 「楽しみながら歩こう。」 と言って、歩き始めたのが午前7時半であった。しかし、歩き始めてしまうと、天候の悪さも手伝って、そうそう、のんびりもしておれないものである。

 歩行が順調に推移した事もあり、鏡平で大休憩を目論んでいた。豊富な?食材の中から、パスタを茹で始めてから、大粒の雨が降り出した。周りの人達が一斉に山荘に逃げ込んだが、我々だけが、じっと、そこで耐え忍ぶ形となった。しかも傘一本である。山荘前の人達の視線を気にしながら、意地だけになったような気がするが・・・・

 そこには、我々が追い抜いてきた大学生パーティーがいたもので、ついついお裾分けをしてしまった。二枚の皿に2人分として渡したつもりであったが、10人くらいの学生達が群がり、それを分けて、美味しい美味しいと食べてくれた。そのような事で、自分達のお腹を満たすには至らなかったが、何だか気分が良かった。

 尚も雨が続いたが、黙々歩く事にした。「山ノ神」が、突然、「あっ、山崎さん」 と登って来る人に声を掛けた。「岩崎です。」 の答えが返ってきたが、「山ノ神」は、「ごめん! 写真を・・」 と、通常の尻込みが、何処へ行ったのかと思うほどの度胸で、岩崎元郎氏と写真に収まった。

 シシウドヶ原・イタドリヶ原・秩父沢をやり過ごして、奥丸山との分岐に着けば、後は林道歩きだけである。その林道歩きが結構長い。ひたすら歩くしかない。でも、午後3時には新穂高に着いた。無料駐車場までの10分間を我慢し、車の前でコーヒーを沸かした。これで、明るい内に高岡へ帰れるとホッとした。



8/16 「山のお天気は分からない。降るかもしれないし、晴れるかもしれない。」 充分とは言えないかもしれないが、5時間は、たっぷりと眠れたような気がした。テン場が満杯状態だけに、午前3時頃からザワザワしだした。水晶岳に行くならば、もう起きなければいけないのであるが、始めから「山ノ神」に拒否されていた。しかし、鷲羽岳でも準備しなければ、後から時間が足らなくなってしまうのである。

 昨日の疲れからであろうか、「どうでもよい。」という感じで、「山ノ神」は、シュラフから出ようとしなかった。「もう来られないかもしれないよ。」 「それとも、ずっと此処にいる?」 との言葉に、渋々起き出してくれたが、簡単な食事やトイレなどを済まして、ようやく出発出来たのが午前6時であった。

 野口五郎岳に行くという東京のヨダ氏と一緒する事になったが、展望が全くダメで、「槍は何処?」 という感じであった。その山頂手前で、「元さん・・」 と声を掛けてくれた方があった。神岡新道から黒部五郎岳を経由して、新穂高に降りるという喜多ちゃんであった。しかも、娘さんを連れて一泊の行程である。相変わらずの超人的脚力には敬服する。お互い先の行程があるだけに、たった一言で、別れなくてはいけなかったのが、ちょっと寂しかった。

 三俣蓮華岳もガスの中であった。ヨダ氏とお別れし、三俣山荘に向かった。15年前、雲ノ平から、水晶岳・鷲羽岳・三俣蓮華岳を経由して黒部五郎岳に向かった事があるが、それ以来の事であるから、その何もかもが初めてのようであった。でも、何故か鷲羽岳の山容と、その降った事だけは、はっきり覚えているような気がした。

 その頃から、鷲羽岳付近に青空が広がり始めた。暑い日差しを受けながら、「山ノ神」にしてみれば、久し振りの新たな百名山登頂であった。しかし、山頂からの展望は全くという程ダメであった。長居することなく、食事は三俣山荘に降ってからにした。途中、ワリモ岳と水晶岳の頭が望めちょっとニッコリ。黒部五郎岳は、何となくカールが見えるが、山頂は隠れたままであった。しかし、三俣蓮華岳が頗る高く見えた。そして、表銀座の大天井岳だけが、ピラミットのように尖って、はっきり見えたのでした。

 三俣山荘から、どのコースで双六小屋に行くかとなった。往路は、双六岳山頂経由にした事と、視界が悪く雨が降る雰囲気だったので、3コース中の巻道を選択した。たまたま、大阪の4人パーティーの内の2人が、我々と同行したいとの申し出があり、一緒する事になった。彼女等は、小屋泊とはいえ、薬師沢から一気に双六に行くのだと言うから凄い。同行しなかった2人は、強靱な脚力があり、迷惑を掛けるから、私達の”楽”なコースに便乗したのだという。

 でも、アップダウンがあり、”楽”とは言えなかったが、時間的には、かなり短かったようであった。巻道の概念から、多くを期待していなかったのであるが、お花畑を歩いている感じで、なかなかのコースだと思った。唯、雨に見舞われ、お花を充分に楽しむ事は出来なかった。

 大阪の稲田さんと下山さんとは、小屋(双六)で別れ、我々はテントに戻った。  いつ雨が降るか分からなかったが、晴れている間、いや、雨が止んでいる間は、外で食事がしたかっただけに、いろいろ石を集めて、テーブルとベンチを作った。やはり開放感があり、隣のテントの足立さんを誘ってしまった。フライパンで調理が始まると、彼は目を丸くしていた。

 2・5Lの清酒もなくなり、すっきりした感じであったが、食材は、まだ2~3日いても大丈夫なほどに残っている。「山ノ神」は、どのような思いで、食材を準備したのであろうか?



8/15 荷を詰め込んだら、私が24キロに、「山ノ神」が13キロになった。「美味しい物を食べて、暖かく快適に過ごしたい。」 のであるが、「なるべくスリムに行こう。」 と言っているのに、大量の荷になってしまった。おまけに、新穂高を発つ時に、杉原女史への荷(結果的にはお会い出来なかった。その荷は、下山してくる彼女への果物のプレゼント) も、持たされる羽目になったのであるから、苦戦が予想された。

 そして、足取りが重くなる「山ノ神」の荷が、少しずつであるが、私のザックの中に入り込むようになっていった。そして、鏡平への急登場面では、自分の荷を先にあげて、四苦八苦している「山ノ神」の荷を取りに降った事もあった。

 今度は、鏡平での休憩後、「山ノ神」の右足が攣って歩けなくなった。ここで怒っても仕方がないので、充分に時間を掛けた。「弓折岳分岐に出れば、稜線で、アップダウンも少なく、後は楽なものだ。」 と言い聞かせたが、一度息が上がってしまった者にしてみれば、一寸の登りであっても辛いものである。

 仕方がないから、優しい言葉を掛けるしかなかった。ガスが立ち込める中、テン場が見えた時は、正直ホッとした。新穂高を発って、テントを張り終わった頃には、12時間近くになっていた。

 日没に雨となれば、どうしても、食事はテントの中になる。私は、どちらかと言うと、テントの中で、火を使う事を好まないタイプである。でも、仕方がない。換気に気を付けて、コンロを絶対に倒さないようにしなければならない。こうなると、どうしても、食事の時間が短くなるし、開放感がなく、早々に店じまいになってしまった。もちろん、前夜の寝不足と、本日の疲労が重なり、眠気が押し寄せていた事は間違いなかった。



8/14 「え~っ、雨」 でも止んだ。3日間の予報からして、途中で降られるかもしれないが、行くしかない。無理せず歩いてきたい。ちょっと背中が痛い。いつまでも重荷を担ぐ事が出来ない事は分かっている。だから余計に楽しんで来なくては・・・・



8/13 盆休の山行を4日間にしようと計画していたら、「山ノ神」にクレームを付けられた。「のんびり」 もあるが、「もっと何処かに行ける。」の目論見を見透かされた感じである。でも、「山ノ神」からは、4日分の食材を考えるとイヤになるし、その分重くなる。そして、営業的にも良くないと言われてしまった。

 一日短くなっても、山に行ける事に感謝しなければならない。「避暑」を目的にするか、絶景を求めていくか、その日程のなかで検討しなければいけなくなった。



8/12 最近、カメラの調子が悪い。撮り方なのかもしれないが、ピンぼけが多い。設定の問題なのであろうが、今のカメラになってから、思うようにならない。無いものねだりなのかもしれないが、壊れた前のカメラが良かった。次のカメラに目が向いてしまうが、いつものことながら買う事が出来ない。

 自分の貯めた貯めたお金では一眼レフに届かない。しかし、ちょっとグレードを落とせば届くかもしれない。でも、歩きながら撮る私には、コンパクトカメラの方が良いようだ。ゆっくり時間を掛けて、そして、こっそり買わなければ・・・・



8/11 15~17日(または18日)までの盆休は、双六方面に行く事に決めた。今一番心配しているのは、「山ノ神」の歩きより、新穂高の駐車場である。深山荘横の無料駐車場に駐められれば良いのであるが、3~4日間になると有料駐車場は非常に高い。

 一日500円程度なら、仕方がないところであるが、1,500円以上(一日2,000円もある。)になると、一寸くらい歩いても良いから安い所がないかと思ってしまう。通行の妨げになるような駐め方もしたくないし、後はタイミングだけなんだろうか・・・・

 鍋平高原駐車場から直接降りられないのだろうか? 地図上では標高差150mくらいあるのだが、行ってみて通行止めなどと看板が立っていたら、それこそ、がっくりになる。そして、暗がりからの歩きになるから分かるだろうか・・・・



8/10 今年も岡山の杉原女史が北アにやって来る。 明晩、岡山を発ち、信濃大町・高瀬ダムから入山し、新穂高へ抜ける計画である。そして、西穂高岳へも行くようであるが、残念ながら、私(達)の休日と合致せず、お会い出来ないかもしれない。

 しかし、今、我々が思案している新穂高から、一気に双六小屋まで行く計画を実行すれば、ワサビ平前後で、擦れ違い様にお会い出来るかもしれない。しかし、盆休での駐車の事や、寝不足状態で「山ノ神」が、重荷を担いで、目的地まで行けるだろうかとの不安がある。

 まだ時間があるし、天候を見ながら、また、そのような体力があるかも検討しながら、計画を練ってみたいと思っている。それよりも、休日を3日間にしようか、それとも4日間にしようか、それも悩みの種である。日数が増えれば、荷も重くなるし、あまり欲張らない方が良いかもしれない。



8/9 昨日の白馬岳山頂に近付いた頃、山頂から、こちらの方を見ていた一人の女性がおられた。軽く会釈をして、通り過ぎようとした時、「元さんじゃない。」 と声を掛けて頂いた。(もしかしたら、本間さんと呼ばれたかもしれない。)

 間違ってはいけないと思い 「どちら様でしたか?」 問うてみたら、「昨秋、白山で・・・」 の言い出しで、すぐに分かった。「山ノ神」の事故の後、単独で白山へ出掛けたのですが、あるパーティーを抜いた際に、「奥さん、大丈夫!」 と声を掛けて下さった石川のM女史であった。その時、一言交わしただけで、その後、山中ではお会い出来なかったのでした。

 M女史とは、ちょうど10年前の春、袴腰山で偶然お会いし、それ以来、賀状だけの付き合いみたいなもので、殆ど交流はなかったのですが、山頂に立つ前に、同じような雰囲気と言われてしまったのですが、ずっと、同じようなものを着ているという意味だったのかもしれません。

 10年経っても、M女史はスマートで、変わらぬ美貌でした。今回も単独で大雪渓を登って来られたようで、元気さを伺えました。そして、羨ましい程優雅に白馬山荘でお泊まりのようでした。山頂を後にしても、ずっと手を振って頂いた。



8/8 「涼しい内に歩きだそう。そして、明るい内に下山、出来れば、車の運転も明るい内に、山道から離れたい。」 そうなると、「もう一寸頑張ってもらわないと・・」 になる。「こんな事は止めよう。」 と言いながら、この行程を歩き通せるかが、「元気さを伺うバロメーター」 となっている。 

 危険率が少なく、時間制限がない事もあって、平成18年から恒例となって今年が6回目となった。前泊するわけでなく、その前の運転が伴い、帰りも運転しなければならないのであるから、「やりたい。」 「行きたい。」 という気持ちがなければ何年も続かない。(蓮華温泉からの白馬岳は9回目となった。)

 「山ノ神」は、まだ、槍も穂高も、そして、剱も登った事がない。「登れないと思っているし、登らなくても良いと思っている。」 私は、「登りたいという気持ちがあれば登れるが、無理する事はない。」 と常々言っている。

 他の人達から見れば、「あんなに山行回数が多いのに何故登らないの? 登れるわよ・・」 と言ってくれるが、私は無理に誘わない。「もうソロソロ、タイムリミットだよ!」 と言うが乗っては来ない。それはそれで良いと思っている。

 何も高い所へ登る事だけが登山でもないし、速く歩く事だけが目的でもないからである。お花を楽しむのも山歩きであるし、気のあった仲間と眺望を楽しむのもよいものである。

 岩や石がゴロゴロしている所を、あまり好まない「山ノ神」にしてみれば、白馬岳日帰りが、唯一誇れるものなのである。もっと、速く、もっとたくさんの荷を担いで歩く人達があろうが、それは別世界の事であって、自分の体力や年齢を考えれば、充分満足が出来るのであろう。

 そのような中で、褒めたり賺したりしなければならないのが、私の役目なのである。だんだん「私の山」がなくなっていくが、それはそれでいいのである。一人で行くのも寂しくなったし、想い出をいつまでも語れる仲間達と行く方が楽しい。そして、どうしても登らなくてはならぬ山もなくなってしまった。自分の力量が分かっているからでもあるし、ケガや病気をしたら、元も子もなくなってしまうからである。

 蓮華温泉から白馬岳のコースタイムは、6時間程度だと思っているが、我々のゆっくりタイムは、それに1時間ほどプラスになる。下山時も5時間ではきつい。それに昼食時間などを加味すると、13~14時間を要してしまう。

 このコースは、お花があるし、稜線歩きは気分がいい。そして、いろいろな出会やドラマがある。でも、もっと、ゆっくり歩きたくなって来ている。ビールやコーヒーを飲んで、のんびりがいい。雲の流れるのを見ているだけでもいい。お花と向き合うのも実に楽しい。そんな歳になったのかもしれない。



8/7 どんなお天気になるか分からないけれど、恒例という事で、白馬岳に行く事になった。このところ、毎年のように山頂に立つ時間が遅くなっている。「まったり」 ではなく、ドンドン歩くのが、遅くなっているのである。

 「こんな事は止めよう。」 と言っていたハズなんだけれど、翌週(盆休)の訓練を兼ねての山行となる。でも、「山ノ神」には、荷は担がせず、足だけの訓練となる。



8/6 一度高所へ行ってしまうと、暑い低山はイヤになってしまう。と言っても、一挙に乗り物で、高所まで運んでもらうのでなければ暑さは変わらない。しかし、私のような者には、毎週優雅な乗り物を充てにするわけにはいかない。

 となると、ある程度の高さから高所を目指す事になる。白馬岳・大日岳・白山を候補にすると、恒例でもある蓮華温泉からの白馬岳に軍配が上がってしまいそうだ。「次から、白馬大池でキャンプし、それから白馬岳に・・」 と言っていたのが、またホゴになりそうだ。日帰りが出来なくなってから、そのようになるのか、それとも、今年中に実現するのか、まだ分からない。



8/5 今日は、山関係のお便りが3通届いた。その内の2通が、先月の剱岳に関するものであり、剱岳に関する内の1通は、早月小屋から、しばらく一緒した安城市の柴田氏からで、写真を送って下さった。もう1通は、私のHPに載せた「山頂での写真に、後ろ姿が写っていた。」 とH女史からのものであった。ヨタヨタで登った剣岳だっただけに、全く気付かず、また、山頂で撮った写真は数少なく、私にはY女史を確認出来ないでいる。でも、同じ時間帯に、頂を同じくした事を思うだけで、何だか嬉しく楽しくなった。

 一昨年の盆休に黒部五郎岳に登った時も、後日、我が家の近くに住んでおられるT氏から、同じような事を指摘され、お互い「え~っ」 と言ったものである。本当に世の中には、偶然というのがよくある。何年も前の話であるが、南ア・仙丈ヶ岳でお会いした東京のT夫妻も、話をしてみれば、2年前鹿島槍ヶ岳で、一言交わしている方々だった。



8/4 「あんなのは初めて・・・」 だったけれど、それなりに満足行く山行であったような気がします。雨で、どれだけゆっくり出来るかが、計り知れなかったのですが、予想以上に、のんびり出来た事が頗る満足でした。

 日頃、「一日中、雨は降り続かない。」 「必ず止んだり弱くなったりする。」 とは言っているものの高所は想像も付かない事が起きるだけに、ある程度はテントの中を覚悟していたのでした。あまり強く降らなかったから、傘を差しながらのベンチワークは、天然クーラーを受けるような感じで、苦になるようなものではありませんでした。

 山歩きより避暑のような計画ではあったのですが、急がずに話せる時間は必要のようにも感じました。  2日目は、テント撤収時から地獄谷周辺までと、バス中では雨に見舞われたのですが、問題はありませんでした。

 今回の山行で、一番困ったのは、夕方からトイレが使用禁止になった事でした。大型テントが多かっただけに、多くの方々が、さぞかし困っただろうと推察されますし、周辺の衛生状態も心配されるところでした。

 管理者から、「周辺のロッジを利用して下さい。」 と通達があったのですが、5~10分程の距離がある事や、有料だっただけに、どれだけ守られたかは定かではありません。あれだけドンドン水が流れ、きれいなトイレに満足していただけに、まったり山行には似付かない事情となってしまったのです。

 復旧には、どれだけの時間を要するのかと不安でしたが、職人さんの懸命の作業が奏功し、翌日のお昼前には使用可能になって胸を撫で下ろしたところです。どのようにか分かりませんが、  何でも、ボールペンが引っ掛かっており、そこに、ドンドン流れて来るペーパーが引っ掛かって詰まってしまったようです。

 水に溶けるペーパーであっても、すぐに溶けるわけでもないのでしょう。太い配水管であっても、詰まるときには詰まるようです。我々もポケットなどから、そのような物を落とさないように気を付けなければなりません。

 序でですが、私もトイレのない所で、「どうしても・・」 という時があります。また、そのような時に、どうしたら良いのかと尋ねられる事があります。最低でも、ティシューペーパーでなく、トイレットペーパー(溶けやすい物)と言っております。

 出来ればそのペーパーを、持ち帰るようにとも述べています。(きれいに片付ければ、何ともありませんから・・・) それがイヤなら、汚物とペーパーは違った所に・・・・ そして、シャベル持参ならもっといい。



8/3 私が初めて剱岳に登ったのが昭和39年7月ある。別山尾根から山頂に立ち、長次郎谷を降ったか、長次郎谷から山頂に立ち、別山尾根を降ったかは、よく覚えていない。その頃は、別山尾根の事を一般コースと呼んでいた。何の意味もなく、先輩達が、そう呼んでいたから、自分もそう思っていただけの事である。

 特別地名を意識していたわけでもないし、三角点の事などにも差程興味がなかった。もちろん柴崎測量官の事は知っていたし、民間人で最初に剱岳を登ったのは、河合良成(小松製作所の創業者=高岡中学出身)である事も知っていた。 (正確には複数)

 いつの頃からか、その一般ルートの事を、「別山尾根」 とよく耳にする事になり、私も必然的に、その呼称を使ってきた。しかし、「別山と離れているのに、何故、剱岳の一般ルートが別山尾根なのか?」 との思いはあった。

 三角点を少しだけ意識するようになった時、多分、ヨネちゃんの三角点資料を、もらった頃からかもしれないが、剱御前の三角点名が、「別山」 である事を知って、「なるほど。」 と思ったように記憶している。

 以前は、稜線上をクロユリコルを経由して、剱岳に向かうルートがあったが、今は、その三角点より先が通行止めとされている。その三角点(標高2,776.5m)より、手前に最高点(2,792m)がある。



8/2 午前3時半頃から起き出して空を眺めるのでしたが、上部にはガスが立ち込めて、前途の見通しは良いものではありませんでした。山小屋関係者から伝えられた予報では、「回復の兆し」でしたが、本当とは思えませんでした。でも、とにかく、一つのピークに立つ事と、出来る事なら、「ねぎちゃんと一緒に、雷鳥坂ぐらいは降りたい。」 の思いから剱御前小屋に行く事にしました。

 色取り取りのテントが、まるでお花が咲いているかのように、カラフルなテントサイトを見下ろしながら、雷鳥坂を登って行くのですが、これも、ゆっくりと焦らずに徹したのでした。でも、休憩時間を多く取らずに、足さえ前に出しておれば、意外とその差はないような気がしております。

 お手伝いの「ねぎちゃん」を呼び出し、解放される時間を確認し、今日は、剱岳でも別山でもない剱御前を目指したのです。「さっきは、ちょっと、剱が顔出したのよ!」 言われるくらいに、「また、ピークや三角点を踏むだけになるかも・・・」 と何にも見えない稜線を歩き出したのです。

 私も、ずっと前(いや、大昔)に、行った事が、いや、通り抜けた(今は、三角点で通行止)事があるような、ないような記憶しかなく、意外と長い行程に思わずGPSを見詰めてしまいました。しかし、ちょっとした岩肌を通り抜ければ別天地があったのでした。そして、どうした事か、剱岳が顔を出し、雄山を始めとする立山一帯が眺める事が出来たのです。でも長く続かなかったのですが、頗る満足で、「ねぎちゃん」との約束を気に掛けながら、コーヒーぐらいは沸かそうとなってしまいました。

 良き写真が撮れたかどうかは別にして、3人ともシャッターを切り続けました。中でも、「シュンちゃん」が、「素晴らしい!」 を連発をし、「来て良かった。」 「凄く良いところ・・」 「絵になる剱」 などと惚れ込んでしまったようでした。

 約束の時間(剱御前小屋前)に、ギリギリとなったのですが、何とか、「ねぎちゃんと一緒に、雷鳥坂を降る事が出来ました。」 キャンプサイトで、「ねぎちゃん」を見送ってからは、簡単な食事をし、後は思い思いに時間を過ごしました。室堂に向かう途中も、バスに乗ってからも、雨が降ったり止んだりだったのですが、始めからそのように臨んだからでしょうか、余り苦になるような事はありませんでした。



8/1 雨の予報に、恒例の夏山キャンプを中止として、改めてキャンプ地を、剱沢から雷鳥沢に変更して募ったのですが、私と「山ノ神」の他には、「シュンちゃん」だけでした。楽しみにしてくれていた「ねぎちゃん」でさえ、剱御前小屋のお手伝いに出掛けなければならなくなってしまい、行き帰りの一部だけ一緒してくれたのですが、キャンプには不参加となってしまいました。

 雨だから、日帰り山行でも良かったのかもしれませんが、暑いのと纏わり付く虫を連想してしまうのと、どうしても、高所に考えが向いてしまったのです。でも、本当は、「続けなければならない。」 という気持ちが、そうさせてしまったような気がしないでもありません。

 室堂発が午前10時頃、雷鳥平キャンプ場で、「ねぎちゃん」と別れたのが11時50分頃でした。その「ねぎちゃん」に、形だけですが、伴走(伴歩?)したのが、「山ノ神」でした。私達二人は、設営した後は、大事なベンチを確保し離さないためにも、ずっと座り続けたのでした。その日の雷鳥平キャンプ場は、高校生などを含めた若者達が多く、100張りは優に越えていたいたものと思われます。

 雨が降っても傘を差しながら、また雨具を纏いながらでも、高所の天然クーラーのような冷気は、清々しさはあっても、悲壮の漂いなどは感じず、笑いだけがこだまし、来られなかった仲間の話題に終始していました。

 私達(私と山ノ神)が持参したアルコールは、缶ビールが6本、清酒2Lで、9時間も宴に乗じていると足りないのでは思ったのですが、隣人に振る舞っても、余るようになっていました。ちょっと雨が強くなった時に、「シュンちゃん」のテントで二次会となったのですが、どれだけ話していても、山の話や山仲間の話題になると尽きる事などありませんでした。9時過ぎに就寝となったのですが、なかなか眠れませんでした。