5/31 休日をフルに使う事が出来なくなった事もあるが、山菜採りをし出してから、残雪の山に出掛ける事が、めっきりと少なくなってしまった。しかし、いつまでも若くはないのであるし、仕方がない事なのかもしれない。いつだったか、山仲間に、「登山道のある山でいいのではないか?」 と言われた事がある。もっとも、これが山歩きだという定義はないし、山と親しむという事であれば良いわけである。

 それにしても、好天が続く。私達が出掛けた高清水山(5/26)以外は、全部と言っていいくらいお天気なのであるから・・・ そんな中、どんなに時間がなくても、体力が落ちていこうが、「今夏の行く山は何処?」 と胸を熱くしているのは変わらない。



5/30 HPの更新の遅れは、借金を後々返さなければならないのとか、宿題を忘れ居残りをしなければならないのと、何だか似ているような気がする。バンザイをすれば、何もかも終わりかもしれないが、やっぱり、ここで挫けてはいけないように思う。

 その点、目標というのか、テーマと言った方がいいのだろうか、はっきり目指すものがあると、支えになり活力が出て来るのかもしれない。何事もいっぺんに花咲くわけでもないし、コツコツとやる。それが、自分のためになると信じている。



5/29 あれっ、大山で、抜きつ抜かれずのあっちゃんチームのお母様からメールが届いた。さほどお話もしなかったが、元気な小3の男の子が何となく気になった。そして、余計な事としながら、お三方の写真を撮らしてもらったが、「あの男性は誰?」 と、下山時には、勝手な想像を 「山ノ神」としていた。弟・彼氏・近所の人・親戚の人・職場の人などと・・・

 どうでもいい事なのであるが、私には、少年もお母様も同行の男性も、皆さわやかな方々で、元谷を渡って、またお会いした時には、何度もお会いした方のように思ってしまったものである。(まさか、ダンナではなかったよね。だったらゴメン!)

 それほど印象が強かった方から、メールをもらったのであるから、今日はハッピーであり、大山・蒜山の旅が、また印象深いものになった。それにしても、あの少年(小3のあっちゃん) なかなか元気であった。機会があったら、「富山においでよ!」 と言ったものだが、本当にやって来るとしたら、元気でいなければならないね! 実に旅は面白い。



5/28 車検を受けたが、エンジン警告灯はよく点くし、音も大きい。自動車税も、14年目の今年から10%アップ。そんな中、一週間前は、恐る恐るではあったが、大山・上蒜山(岡山・鳥取)に足を延ばした。しかし、車の音は、ちょっと気になったが、警告灯が点る事なく、1,100キロの旅を終える事が出来た。

 そうなると、「次の車を考えなくては・・」 が、トーンダウンして、15年、20万キロまでとなる。次の車検前まで持たないかともなる。もっとも、財源的にも問題有りで、好きな車を買えるハズもないが、あれやこれやと頭に浮かぶ。4WDで寝る事が出来る条件を付けると、中古でも手が届きにくい。事故歴有りとか、相当の距離を走っているのでないとダメみたい。宝くじを買うのももったいないし、どうしたものだ!



5/27 昨日の高清水山行の事。山頂に着いたのが午前11時頃。雨・風であったが、そのスポットだけが、風の強さがそれほどでもなく、早めの昼食とする事に決めた。ところがである。コンロ・ガス・食材をザックから出したものの、コッフェルがない事に気が付いた。過去にも、何度かそのような事があったが、今回も全くのオジャンであった。

 今日は行動食(間食)がないと聞かされていたが、食べるものがないという事は、実に寂しいものである。しかし、「水だけはいっぱいある。」 のであるから、何時間か我慢すればよいだけの事である。「食事をする。」 となって、「山ノ神」が、雨具を上下とも着るとなった事もあり、私は、ちょっとだけ、山頂確認と湿原への雰囲気を探りに、先へ足を伸ばしてみた。

 いつか来た最高点らしき所を確認出来たが、沢筋の残雪状態を見るやいなや、折からの風雨も手伝って、湿原への探求は薄らぎ、「山ノ神」の待つ山頂に戻った。しかし、戻って目の当たりにした光景に私は愕然とした。雨具を着込んだ「山ノ神」は、山菜料理をつまみに、ビールを飲んでいるではないか・・・

 ヒーヒー言いながら登ってきた顔と全く違い、至福の時と言わんばかりであった。正に、これが ”点滴”というのであろうが、私は、生唾も出ず担いできた水を飲むだけであった。



5/26 お天気・近間・高速なしのキーワードから、「縄ヶ池の水芭蕉と山菜採り、そして、高清水山のピーク。」 とした。304号線から入れず、林道温泉経由となったが、ポツリポツリの雨より、風の強いのに閉口した。このような日だからか、私達が一番乗り。(後に、林道整備の方がやって来られたが・・・)

 水芭蕉は見頃が既に終わっており、もう少しで、お化けになりそうであった。高清水山の登山道(道宗道)を整備されていたおじさんにその事を話すと、高清水山を越えた所に (どれだけの距離かはっきりしなかったが・・) 湿原があり、縄ヶ池より凄いと聞かされた。

 それを頭の隅に入れながら、高清水山に向かうが、何せ吹き飛ばされそうな強い風に、時折、身を屈ませなくてはならないほどであった。高清水山の標識のある所は、確かに頂上なのであろうが、最高点かどうか疑わしく、もう少し先に行く事にした。以前「此処がピークだ!」 と言った所が、GPSでは山頂を印したが、やはり何もかもを総合して、標識のある所が頂上に相応しいと思った。

 その先の湿原に行く気持ちは、この先の天候を思うと、とてもその気にはなれなかった。もっとも、この辺りの谷筋には、豪雪地帯であるかの如く残雪があり、賭をする雰囲気ではなかった。下山路は、予定通り林道歩きとしたが、ちょっと時期が遅かったのか、程ほどのウドにはお目にかかれなかった。

 「フキノトウと、タラの芽ばかりだね!」 と言いながら歩く林道は、相変わらず強風が吹き荒れた。途中、ゼンマイ狙いの男性に、車に乗らないかと優しい言葉を掛けられたが、「イヤイヤ、未だ歩き足らないので・・」 と断る始末だったが、車に戻った頃には、雨具を通して、着衣も濡れていた。歩き足らなかったが、小さなピークでも立てた事に、チョッピリ満足したのかな!



5/25 明日は、お昼頃から雨のようだ。でも、山は早めに降るかもしれない。お天気が悪く、何処へ行くかも分からないし、ましてや、山頂に立てるかどうか分からないのでは、人様をお誘いするのも気が引ける。その上、保育所に寄ってからでは、どうしても、自分から声掛けが出来ない。と言いながら、低山でもピークに立てて、山菜にも目がゆく山行が、もうしばらく続くようである。



5/24 昨年4月から、娘や孫達がやって来て、ライフスタイルが変わり嘆いているが、果たして、どれくらいなものなのかと振り返ってみた。昨年は、池田氏のご厚意に甘え、蓼科を中心に、天狗岳と御座山に出掛けたのが随一の泊まりがけであり、他に遠出としては、日帰りで白砂山に出掛けられたのみであった。

 では、それ以前はどうであったかであるが、一昨年は、唐松岳キャンプ、東北の大朝日岳、木曽福島からの木曽駒ヶ岳、粟ヶ岳と二王子岳の4回、3年前になると、東京の三頭山と大岳山、雷鳥沢キャンプ、双六岳キャンプ(二泊)、燕岳キャンプ、筑波山と八溝山と5回であった。

 そんな事を思うと、今年は、3月の大地・初雪山キャンプと、今回の大山・上蒜山で、実に健闘している。(無理しているのかな!) そして、カレンダーを見ると、未だ何回となく行けるような気がする。歳を重ねている事や、家庭の事情を考えれば、健闘しているとかと言うより、わがままを通している方かもしれない。時間に制限がありながらでも、何処かへ必ずのように出掛けているのだから・・・



5/23 今回の大山・上蒜山で、2組の方々に声を掛けて頂いた。HPが縁という事になるが、どうして、あんな所で、私が分かるのだろうかと考えてみると、何十年も同じ格好をしているからとしか思えない。事実、40~50年の間の着衣は、多分2~3着だし、帽子だってそんなもんかもしれない。

 もっと、スマートに見えるものがあるのかもしれないが、高校時代に姉が買ってくれた上着を破れるまで身につけていた。色が変わろうが、スカスカになろうが、着られなくなるまで身につけていた。ちょうど、それがダメになった頃、娘が就職していて、誕生日のプレゼントとして贈ってくれた登山シャツを、今も着ているが、もう10年以上になる。

 山用具だけでなく、その一つ一つの物品には、少なからず想い出があり、なかなか捨てられない。(処分出来ない。) だから余計な物は買わない。買ったら、いらなくなった物を処分する事にしている。 (そうとは、必ずしも言い切れないところが苦しい。)

 しかし、最近は、「山ノ神」を見付けて、その付近にいる私が、「元さん」 となるらしい。それは、HPに載せている画像が、どうしても「山ノ神」の方が、多いからなのだろう。夫婦とも60代であるからして、なるべくアップを避けているのであるが、その雰囲気を伝えたく見苦しいところがあるかもしれない。

 でも、「元気でやっている。」 証を私の友人・知人に伝える役割もあるからに容赦願いたい。しかし、一枚の画像から、思いもよらぬ出会いがあったり、昔を懐かしむ事が出来る。いやいや、この先を語り合える場を設ける事だって出来るのであるから、人生悲観する事ばかりではない。何もかも前向きに考えよう。



5/22 大山・下山キャンプ駐車場で準備をしている時、「百名山狙いですか?」 と声を掛けられた。富山ナンバーを見て、そう言われたのかもしれないが、「そうですね。行けたら(登れたら)いいですね。でもね、遠出(遠征)出来るのは、年に1~2回程度なんですよ。」 と答えた。

 「どうしても百名山」 「何が何でも百名山」 でなければ、よいお手本、あるいは、よい目標になるのは受け合いである。逆に、「百名山なんか・・」 と貶す人がいるが、人様の事を、ああやこうやという事もないであろう。目標(指針)があると、それに向かっての活力が出て、何もかもが面白くなるような気がするが如何だろう。

 私は、到底そのような偉業?を達成する事は出来ないと思っているが、でもちょっぴりだけど、淡い気持ちがないわけでもない。出来れば、その名山に複数回登ってみたいものである。春夏秋冬なら尚更良い。そして、そのような機会を多く持ちたいと思い続けたい。ちょっとでも仕事をしながら、拘束をされながらである。



5/21 近県を除く他県の山の事は、よく分からないから、どうしても名山歩きになってしまう。今回の遠出も、ご多分に漏れず大山(百名山)と上蒜山(二百名山)となった。二百名山は深田クラブの選定であるから、その趣旨は分からないが、百名山に関しては、その書籍を読んでいるから、深田久弥の思いが少しは分かるような気がする。

 私は、高校時代から、「百の山頂に百の喜びあり。」 が好きであった。各山頂には、それぞれの歴史が有り、登る者にも、その時その時の感情があり、天候・時期・仲間・環境によっては、見方感じ方が変わるのは当然である。良し悪しも、まずは、「登ってみなければ・・・」 であろう。

 久弥が「日本百名山」を出版してから、約50年である。装備も登山口も、当時の環境から著しく変化している。山は変わらないにしても、その当時は、「何処から歩いたのであろうか?」 「どのような手段でそこまで来たのだろうか?」 と思ってしまう。「日本百名山」は、ガイドブック的には劣るが、文学的要素が大きく、好きな一冊である。その書籍は、当時奈良に住んでいた従姉妹から、立山ガイドをしたお礼に頂いたもであるが、昭和40年であるから、もう50年になろうとしている。  



5/20 やはり、今日は眠たかった。でも、頑張ったのだから、仕事も頑張らなくてはいけない。拘束されながら、自分で時間を作ってこそ、やりがいが有り面白いのであると思っている。そして、テーマを持って、出掛けるのがいい。その我々には、「ケチケチ作戦」 というのが相応しいのかもしれない。

 最も、そのようにしか出来ないから、「人様のようになれたらいいなぁ。」 と思いながらも、それほど羨ましいとは感じていない。目的は一つなのであるし、このように気ままに歩けるだけでいいのであるから。でも、いつかは、温泉に浸かって、また、美味しい物を食べながらを、夢見ているのも事実である。とても叶わないだろうけれども・・・・



5/19 上蒜山・中蒜山・下蒜山と連なる中で、最高点は上蒜山である。各所に登山口を控えながらも、三座縦走となると、帰りの時間とタクシー代が気に掛かる。ならばと、塩釜の冷泉から中蒜山へ、そして、上蒜山へピストンすれば、車の所へ戻れるし、時間的にも問題ないと思っていた。

 しかし、昨日の大山と比べると楽勝かと思ったが、「山ノ神」のピッチが上がらない。と言っても、コースタイム的にみれば、それほど極端に遅いわけでもない。しかし、中蒜山から上蒜山に至る縦走路になると、カタクリの群落地点では、それなりの歩きをしていたが、長い鎖のある所では、やはりペースが落ちてしまった。(鎖があっても、何ら問題のないところだったが・・)

 「先に行け!」 と言われて従ったが、なかなかやって来ない。仕方なく戻ってみたら、「疲れたから休んでいた。」 という有り様。それでも、三角点への藪こぎでは、 (それほどでもなかったが・・) 俄然元気に歩き始めたのにはビックリだった。

 三角点を含めた上蒜山の山頂付近からの大山は、木々の間から、かすかにそれらしき物を望めたが、満足するものではなかった。登山口からずっと、望めなかっただけに、途中お会いした登山者に、上蒜山スキー場側のルートをとれば、途中、望めるとの情報を得、引き返すことなく、上蒜山側の登山口に降りる事となった。

 ここでまた、ビックリする事が起きた。東京からのツアー登山者から、「元さん・・」 と、また言われたのである。思わず 「地元のかたですか・・」 と尋ねたら、現在神奈川県在住であるが、射水市に4年ばかりいたとの事。ご主人が海王丸の船長さんだったように伺ったが・・ (後日のメールでは、高岡HCに所属していた事があり、穴倉さんや関本さん、そして、亡くなられた上田さんらと歩いていたというKさんであった。)

 車デボ地点である塩釜の冷泉に戻ってから、「山ノ神」は、名物?である「蒜山焼そば」 を食べたいというので付き合ったが、私には甘く、イマイチであった。それから、当初の計画通り、下道(山陰道)を走ったのである。それでも、日を跨いだものの、午前0時半過ぎに自宅へ戻る事が出来た。往路600キロ、復路500キロであった。



5/18 予定より早く下山キャンプ駐車場を発つ事が出来た。夏山登山道は、延々と丸太の階段が続き、一合刻みの標柱が目安となるのであるが、一般道としては、なかなか手強い。見知らぬ者同士が、「ご苦労さん」 「頑張ろう」 の声を掛け合い汗を流しながら、上へ上へと進んで行く。

 相変わらず中高年登山者が多いが、若い人達も負けないくらいに多いように思えた。そして、お天気の日曜日と百名山なのか、大山は盛況であった。丸太の階段が八合目から木道に変わった。必ずしも、すっきりのお天気とは言えなかったが、それでも、美保湾や中海、宍道湖、そして、私が知るところの米子・境港・安来の街々が望めたのである。

 それよりも、ビックリしたのは、「元さん・・」 と声を掛けられたのである。「えぇ・・」 と、尋ねると、富山からおいでになった蜷川さんと山崎さんであった。もちろん面識はなかったが、私のHPを時々覗いて下さっているとの事であった。そのお二方は、あの有名な山凱会所属でお仲間との山行であった。(山頂で、一緒にカメラに収まって頂いた。)

 山頂は、若い人達で溢れんばかりであった。でも、何だかホンワリであった。本来の山頂の剣ヶ峰へは行けないと知っていたが、弥山の三角点へも立ち入り禁止となっていたのでそれに従った。復路は、石室コースと元谷を渡り、大神山神社と大山寺に寄って下山した。

 車で寝る事の出来ない私達は、蒜山高原の休暇村キャンプ場を目指した。ビールと食材を調達して・・・ 道の駅では、ヤマメの塩焼きがあったので購入、しかし、忍の一字で、キャンプ場まで我慢であった。広いキャンプ場では、我々の他、一張りだけでのんびり過ごした。



5/17 ケチケチと言っても、目的を達成しなければならない。往路は、未だ継続中の土日高速半額を利用。但し、ヨロヨロ運転の我々故、金沢東から敦賀までで、小浜までは下道 (未だ開通していない) を利用し、小浜からは、舞鶴若狭道・中国道・米子道で、大山登山の最寄りの溝口ICまで行くというもの。

 それには、それなりの理由がある。夜間の名神を利用するのを避けたのと、小浜・綾部間で仮眠をする目的があったからである。仮眠といっても、我々の車では、荷を詰め込めば、リクライニングも怪しいというもの。地べたで寝る目的があったからである。

 しかし、計画は始めから崩れてしまった。武生・敦賀間が工事で通行止め。素直に8号線に出ればいいものを、下手にカーナビ利用したため (恐らく入力ミス)、思わぬ道に入り込み手間取ってしまった。しかし、頑張りと根性で、大方の時間を取り戻して、舞鶴若狭道に入った。

 ところがである。当てにしていたPAが明るすぎ、隅っこと言えども、テントを張る気持ちにはなれなかった。僅か2時間程なのであるが、小心者の良さなのかもしれない。仕方がないので、マットを引き、シュラフの中に潜り込んだが、なかなか寝るに至らなかった。アラームで起きたのであるから、ちょっとでも眠ったのは確か。



5/16 今度の連休を利用しての遠出は、大山と蒜山とした。緊縮財政の折、宿泊はキャンプ、帰路は下道の予定。最近は、睡魔に勝てないし、思い通りにはいかないと思う。優れない体調もあるが、見切り発車の感あり。



5/15     辛いことも ないよりあった方がいいんだよ。それを乗り越えると 強くなれるんだから。

        悲しいことも ないよりあった方がいいんだよ。それを乗り越えると 人に優しくなれるから。

        楽しいことば たくさんたくさんあった方がいいんだよ。笑顔のきれいな人になれるから。

今日、病院を訪れた際、上記の詩が心に止まった。作者名も書いてなく、コピーなのかもしれないが、そんな事はどうでもよく、飢えた心の私には、充分すぎるくらい伝わった。



5/14 お客様から、「読んだから・・」 と、「春を背負って」 の文庫本をもらった。久しく本を読んでいないし、来月から公開される映画でもあるし、なるべく早く読んで、もらったお客様に感想を述べなくちゃ!

 そんな意味では、私は幸せ者。  妬まず羨ましがらず、真面目にいくしかない。でも、人様に、”ああや こうや” と指図する立場でもないし、それほど、人間が出来ていない。無の境地などなれるハズがない。



5/13 遠出出来るチャンスがやって来た。娘達の結婚記念日と、上の孫の誕生日に、ムコ殿が仕事を休んでやって来るらしい。本当は火曜日(二つとも5/20) なのであるが、土曜・日曜日に月曜日を絡めるようだ。しかし、遠出となると、土曜の仕事が終わってから、もしくは、夜半・未明発となる。

 そしたら、祝ってやれる事が出来ないし、家に帰ってくる頃には、ムコ殿がもう帰京している事になる。構わないといってくれるが、ちょっと考えてしまう。その行き先はまだ決まっていない。月曜日(5/19)の予報が良くないからである。

 観光や温泉などもいいのであるが、緊縮予算の我が家では、その方法はないに等しい。ガソリンと酒には糸目を付けないが、他には厳しい目が付いて回る。テントも晴れればいいが、雨となるとやはり面白くない。まだ時間があるから、もう少し考えてみたい。



5/12 一向に身体が優れない。でも、「休日は、山に行かなくては・・」 しかし、この時期・山菜採りがメーンになり、なかなか思うようにならない。しかも、昨年から、孫の保育所への送迎が加わり、尚更のように、残雪の山から遠ざかる事になっている。

 それは仕方がない事。何もかもが思い通りになるハズがなく、我慢する時はしなければならない。そのように固まってしまえば、それはそれなりに、その中で、何かを探し当て、新たな目標(趣味)に向かえば良いだけの事。でも、その枠に当て嵌まらない私は、やはり限られた範囲でも、山に向かってしまう。

 食べるためなのか、採る楽しみなのか、人様に差し上げる喜びなのか分からないが、五箇山に向かった。山頂に立てないもどかしさを忘れて没頭したかもしれないが、屈み込む姿勢の度に頭が重く異常を感じていた。例年より雪解けが早かったのか、物によっては、収穫が遅かったようにも思えた。

 午後から、牛岳に入ってみた。しかし、時折、雨がパラつき、場所によっては、何もかもが、飛ばされるような強風に見舞われた。でも、大降りはせず、山頂からは、散居村を眺められたし、新緑の候を愉しむことが出来た。ウドの収穫は少なく、ワラビとフキノトウばかりになってしまったが、そのような楽しみでも、「山の空気」を、吸えただけ良しとしなければ・・・・



5/11 この歳になっても、世の中思い通りにはいかないと改めて思ってしまう。経済的に恵まれていていようが、体力が優れていていようが、また、良き周囲の人達に恵まれていようが、それはそれで、それ以上の事を求めるからか、悩みは果てる事がないようである。”無いものねだり”に尽きるのかもしれない。

 何も持ち合わせていない私でも、いや、私だからかもしれないが、欲の塊みたいなものである。大した事でなかったにしても、振り返ってみれば、実にイヤらしく感じる事があるし、良きと思ってやった事が、余計なお節介になった事もある。物欲に対しても、身の程知らずになる事もある。

 イヤダイヤだ! 「人生もう一度やり直したい。」 「今のまま、時間が止まってくれないか?」 などと思うのは、まだ生臭い証拠である。貧しくなろうとも、身体が動かぬようになろうとも、人様を羨む事なく、美しい心で・・・ などと。そんな人に、なれるハズがないが、でも、ちょっぴりでも近付けないだろうか・・・



5/9 風薫る新緑の清々しい頃なのに、何故か体調が可笑しい。長袖でタイツを履かなければ寒くてしょうがない。山中では、あんなに薄着なのに、どうした事なのだろう。瞬発力やバランス感覚の衰えは感じても、持久力は、まだまだと思っていたが、このような事からも、外見だけでなく、中身も相当可笑しくなっている事に間違いない。

 30年も40年も生き続けられるわけもなく、いいところ、もう少しなんだから、継ぎ接ぎしてでも、チャンとしていなければならない。そんな事を思うと、「次行く山は何処・・」 と思うだけでも前向きになり、張り合いというものが出て来る。もしかしたら、これが私の妙薬なのかもしれない。



5/7 結局、GWは、金剛堂山以外、何処も行かなく、何もしなかったが、気持ちだけは慌ただしかった。それでも、昨朝は、一人で二上山を歩き、午後から、小屋根のペンキ塗りをしたっけ。

 東京(電車)→諏訪(車)→高岡(車)→諏訪(電車)→高岡(電車)→東京を、慌ただしく移動したムコ殿であったが、それでも二晩食事を共にしたし、最終日は次男も加わった事になった。最も、GWの山行は、最初から諦めていたのだから、まあまあの日々を送った事になる。

 大阪の二人は、「大丈夫・・」 だと言って、元気に帰って行ったが、「筋肉痛はなかったのだろうか?」 「仕事に影響はないのだろうか?」 と思ってしまうが、親が心配する事はないのであろう。そして、もう、こんな事はないのかもしれない。



5/6 当欄に大型連休をもらい随分楽させてもらった。あまり休むと、ボケが進むので、いい加減に戻らなくてはと書き込みをする事にした。昨日は、大阪から次男とカナちゃんがやって来た。「山に登ってみたい。」 の意向をくんで、5~6日の連休には他の用事は入れなかった。

 山は初めてのカナちゃん、次男は小学校以来の山行であるが、用意されていたのはスニーカーだけ。靴・靴下はもちろん、雨具・ザック・食料まで、全部こちらが用意したが、織り込み済みだったかもしれない。当初の予報は、お天気だったように思うが、いつの間にか傘マークが付いてしまっていた。

 1時間程度の山歩きも寂しいし、かといって、3時間となれば雪上を歩かなければならない。でも、雪は珍しいだろうし、強烈な印象を与えるのもいいかとも思った。状況如何では、途中撤退でもいいと、金剛堂山を選んだが始めから雨である。

 カナちゃんは、雪上歩きに少々手こずっていたが、次男は、私の荷を担いで、さっさと先に行ってしまう程であったが、2人は、風をまともに受ける時や、山頂直下での食事時では、とても寒がっていた。

 なんやかんやと言っても、若いもんは凄い! 雪上歩き・雨・強風・ドロドロ・小枝の跳ね返りなどの決してよくない状態であっても、それなりの対応をして、夏道と変わらない3時間で山頂に達するのであるから・・・