11/30 「昔の事ばかり」 「同じ事ばかり」 親世代の方々に言っていた事が、ブーメランの如く自分の身に返って来る。「38豪雪」・「東京オリンピック」 など、それは、私が戦争時の話を聞かされたのと同じかもしれない。

 同じ事を何回言っても良いのは、「同窓会」 と 「趣味の会」 だけ。それには、「他人を貶さず、自慢も程々にしておれば・・」 の注釈が付く事を忘れてはいけない。

 そのような事を鑑みれば、当欄に記する事は、一種の憂さを晴らす場にもなるのかもしれない。見たくない人は見なければいいのだから・・・ 誰にも迷惑を掛けないなんて、可笑しな言い分なのであろうが、的外れでもあるまい。

 歴史に名を残す先人達は、あの時代に、あの装備でなどと、私からみれば、まるで天狗様のようである。それは、強靭な気力や体力があったのだろうが、どうして、あのような事が出来たのだろうかと不思議でならない。

 新たな機器も使えない私であるが、その神様みたいな人達を超える事が出来るとしたら、元気で山に登る事しかなかろう。山関係の人達は、あまり長生きをしていない人が多い。



11/29 現在、私(達)が山に出掛ける事に関して、家族からは何の反対もない。「したい事や行きたい所へは、どれだけでも行って下さい。」 と言われている。現実とのギャップ(孫達の送迎)はあるのですが、あちこちが痛いとかはないので、その分では特別の障害もない。

 寝たきりになったり、認知症になった事を思えば、元気に山に出掛けているというのは、家族共々有り難い事である。そういう歳になったという事であるが、イヤだが、避けて通れないのである。「転んだら終わり。」と思っているから、山に登り続けるためにも、慎重にしながら転ばない事に気を使っている。

 転んでも、大ケガとならないように、平生それなりの運動・鍛錬をやっておれば、被害が少ないのも事実である。でも、”けつまづく” 何でもない所で。本当にイヤである。だから、日頃からの鍛錬が大事となって来る。



11/28 久しぶりの「牛岳」であった。まだ200回には程遠いが153回目となった。時間の無い時、天候の悪い時、また、トレーニングの山として登っていた感がある。「雨が好きなのですか?」 と問われた事さえあるほど登った山であるから、お天気に恵まれた事は、意外と少ないのである。

高1の春休み2泊3日の山岳部合宿が牛岳に登ったのが最初である。今はない加越線庄川駅から歩くのが当たり前であった。小牧までバスで行った事もあったが、節約の観点から、井波駅から、また福野駅から歩いた事もあった。(高校時代は、週末に医王山へ行くのに、テントを担いで福光駅から歩いていたのだから、当たり前だったかもしれない。)

 そのような事を思えば、今は当たり前、そして,、簡単な山になってしまったが、どの山でも登山口は何処? 交通手段は、そして、何処で降りるのから始まった。僅かな小遣いのもとにである。 だから、いろいろな出会いがあった。車に乗せてもらったり、駅の待合での語らいなど、今の時代にないものがあった。

 100回登頂を祝ってもらった事があった。好山病やハレルヤの諸氏との想い出もある。遠い昔は、日の丸を立てた事もあった。下山後、料理店で祝杯を挙げた事もある。あの人もこの人もと、いろいろな顔を思い出してしまう。それは、私の宝でもある。



11/27 孫の送迎の他に、義姉(山ノ神の姉)の見舞いなどを考慮して牛岳行きとした。何処から雪が現れるのかと思っていたが、林道には全くなかった。その雪が現れたのは、五合目からであった。

 五合目ヒュッテは解体されたのか、ビニールシートが覆い被さっていた。何処かにナメコがないものかと、グチャクチャの登山道をゆっくり歩いた。滑らないように気を付けた事もあるが、汗を掻かないようにと思っていたからでもある。

 六合目に上がると雪量が一気に増え、登山靴が沈むようになる。虎ロープが施されている急斜面を辿り稜線歩きになると、カンジキがあると、もっと歩き易かったかもしれない。それは、ナメコを探しにルートから外れる時にである。

 牛岳権現様が祀られている山頂まで行かず、三角点のある最高点までとした。平野側が明るい時は、五箇山方面が、ガスに覆われていて、その反対に、五箇山方面のガスが切れれば、山の麓方面が真っ白になってしまった。

 軽い食事をして下山する事になったが、途中に工事関係者と思われる人達が数人長靴スタイルで登って来られた。恐らく、五合目ヒュッテの後始末のためであろう。



11/26 今日の予報は、「晴れ」 だったのに、一向に良くならず、終いには雨になってしまった。雲の掛かり方が予想と違ったようだから、県内全てが、このようではなかったのではなかろうか? 

 今は雨。(午後7時半) 明日は、予報が好転して、晴れになったが、何処まで信じていいものやら・・・。 どちらにしても、近間の低山になるだろうが、ドロドロ・グチャグチャでなければいいのに・・・



11/25 立山・室堂の積雪が3mを超えているようである。このところは、平地でも冷たい雨だけに、低山でも、かなりの積雪があるようだ。毎日 「何処へ行こうか?」 と、考えてはいるが、妙案は浮かばない。



11/24 大阪から長男がやって来た。つい4~5日前に来ていたのだから、何だか可笑しい感じである。今回は、上越の友人の結婚式に出席するのに寄ったというもの。親から見れば、「友人の結婚式ばかりに出て、自分のはどうしたのか?」 と言いたいところであるが、じっと我慢である。

 その息子は、「山ノ神」の一番上の姉 (山ノ神は、5人姉妹である。) を病院へ見舞いに行ってきたようである。「行っても分からないかもしれないよ!」 と言っていたが、「可愛がってもらったから・・」 などという優しさがある。 高岡に帰って来なくても良いから、良き伴侶を見付けて欲しい。



11/23 標高1,000mくらいで積雪が30~40cmと聞く。こうなると、歩くに一番厄介な頃となる。ちょっとだと、ぬかるむし、30~40cmだと、衣服がビシャビシャになる。それより多くなると、小枝が雪の重みで倒れ、登山道に覆い被さる。

 ナメコも隠れてしまう。何処でも歩ける雪量でないし、行く山も限られて来る。しかし、限られた時間内であっても、歩かなくてはズルズル楽な方に心が傾いていってしまうような気がする。



11/22 このところの不規則な生活(ライフスタイルの変化)は、山行ナシに食べ過ぎも有り、ずっと維持していた体重が2キロも増えた。まあ~、また歩けば、そして、ちょっと食べ方を工夫すれば(少なくすれば)、すぐに戻るだろうから、心配する事はなかろう。

 でも、次の山行は、時間制限内だし予報も悪い。そして、その次から、2週続けて忘年会が予定されている。だからと言って、山行く事を止めれば、唯の老人になってしまう。



11/21 午前2時前に戻ったが、身体が冷えてなかなか眠れなかった。そして、5時半くらいに起きたから、一日中眠たかった。18日からの4日間は、ライフスタイルから完全に逸脱しているのだから、当たり前と言えば当たり前である。

 ボーっとしていても、一日は過ぎていく。無駄な時間か意義ある時間かはわからない 。しかし、慌てても(焦っても)しょうがないのは分かっている。でも、何もかも前向きがいい。



11/20 今回のイベントの最後は、姉を埼玉まで送り届ける事である。孫を保育所に送り届けてから出発した。ウィークデーで割引が効かないので高速は朝日から乗った。妙高辺りに入ると、道路際には除雪された雪があり、山々は真っ白であった。

 小布施・松代・東部湯の丸・横川などのSAに寄り、ゆっくりとしたドライブである。呆れる程買い物する姉に閉口したが仕方がない。すっきりした事だろう。1時間程姉宅にお邪魔して、帰途に就いた。往路は、上信越道経由、帰路は、関越道経由としたが、やはり関越トンネルを抜けるとミゾレになり、北陸道に入ると強風に悩まされた。そして、無事に帰ったが、日・月の連休に山へ行かなかったのであるから、何となく変な感じである。



11/19 二日目はどうするかとなったが、白川郷に出掛けた。「テレビでは見るが、行った事がない。」 との事で、小雪の舞う中、僅かな時間であったけれど、村内を歩いた。ここでも、外国人が多く、呆れる程であったが、心配する程マナーが悪いわけでなく、日本のためになるなら、じっと我慢であろう。

 やっとかっと歩く、姉の手を引いて歩いた。寒いし段差も少なからずあるのだが、それよりも、「シャバに出た。」 「非日常」 という事なのであろうか、嬉しくて仕方がないようであった。

 昼食は、庄川町に戻って、アユ食べ放題にチャレンジした。おっかなびっくりだったようであるが、食べ始めると、「意外に・・」 らしく、ドンドン、食べるのであった。小さな孫も、そして、食事制限されている姉も、こちらが心配する程食していた。昼食としては、ちょっと贅沢だったかもしれないが、また食べに来たいと評判は良かったようであった。ちなみに私も30匹くらいは食べたように思う。そして、息子達2人は大阪へ、ムコ殿は東京へ帰って行った。



11/18 なかなか一緒に集まらない子供達を、私の古希と私達の結婚40年という事で、集わせたのであるが、何となく気恥ずかしい。それでも、午後から休業し、小牧ダムの上の長崎温泉・北原荘に向かった。

 一ヶ月以上前から、氷見の魚を考えて宿を模索したのであるが、土日となると私達では探せなかった。「私が山が好き!」 なのだから、今回の宿も良いのかと思ったりもした。料理もお湯もまあまあであったし、小雪がチラついた事も雰囲気を盛り上げていた。



11/17 午後7時半から9時頃までに、皆が高岡にやって来た。しかし、息子達は、やっぱり友人との約束があると言って出掛けて行ってしまった。その中で、長男は、大阪から東京に向かい埼玉の姉を連れて来てくれた。(それには感謝!)

 その姉であるが、半年前と比べて随分と衰えていた。そして、起こるべき事が起きたのかもしれないが、お風呂で ”あわや”が起こった。10~15分毎に声掛けをしていたのであるが、「大丈夫?」 かに、「大丈夫!」 の反応が続いていたものの、あまりにも遅いのでドアを開けたら、今にも水没しそうになっていた。

 それでも、大丈夫だというのだけれど、4人で必死になって浴槽から引き揚げた。元々体格がよい人だけに、狭いお風呂の中での作業が大変であった。それでも、やはり女、男としての対応には限度があって困った。その姉も1時間程経過したら、何とか元通りになったが、明日の宿での入浴は気を付けないといけないな。



11/16 我が家のイベント(11/18~11/19)に、大阪の長男・次男、そして、東京のムコ殿(長女の夫)が、明晩やって来る。「私も入れてくれ・・」 と、体調は芳しくないが埼玉の姉も参加してくれる予定。7年前、埼玉の義兄の葬儀で顔を会わせた事があったキリで、ここ十数年、一堂に会した事がなかった。

 親としては、バラバラに来高してもらうのも良いが、「皆が一堂に・・」 というのが嬉しい。今まで、「私の休日に帰って来るな!」 と言い続けて来た事が災いしていて、そのような機会を失っていたのかもしれない。

 今回は、70歳(古希)もあるが、結婚40年に焦点を合わせ、集ってくれる事を願った。日頃から、1年に1度しか会わなければ、あと10回、2年に1度なら、あと5回しか会う事が出来ないと言って来たが、子供達は、どのように受け取っているのかはわからない。

 息子達が来高してくれても、友人と飲みに出掛けたりして、一緒に食事も出来ないのではと嘆いていた事もあったが、先の弱みを見せたら、一日は、必ず家にいて、一緒に食事をするよう心掛けてくれるようになって来ている。

 今回も、男同士これと言って話す事もないのであるが、一時でも、そばにいてくれればいいのかもしれない。子供達にしてみれば、テープレコーダーのように、また同じ事を繰り返していると思うのであろう。でも、「老けたね!」 「少し弱って来たね!」 などとは言わせたくないのであるが・・・



11/15 K氏の通夜に行って来た。63歳あまりにも早かった。6年前 喉頭がんである事を私に教えてくれた。その後、不本意であったろうが、いろいろな所に転移している事も知らせてくれていた。特別な関係でもなかったが、(K氏はお客様) 何となくウマが合っていた感じであった。

 最後に来店してもらった時は、タブレットを介しての会話であったが、そんなに不都合でなかったし、いつも、「私は奇跡を信じたい。」 と言っていた。それほど元気だった。彼は、海が好きであった。最後の最後まで宮古島に拘っていた。私が、山が好きなように・・・

 そんなK氏から、初めて年賀状が来た。お客様だから何回となく、いや何十回となく年賀状を出していたが、返事をもらった事がなかった。こんな私でも、ちょとは頼りになるのかなと思ったりしたが、宮古島のお土産をもらったのも、昨年だったか今年だったか・・・

 今日のお参りも、彼の人気が示すように大勢の方々が訪れていた。私は、ご子息を始めご家族の方々を知らなかったが、そのような事はどうでもよく、片隅でそっと頭を下げて来た。次は、私の番かもしれない。



11/14 岩城君から、「土倉山へは、ヤブが顔に触れる事無く山頂に行けるようになっている。」 という情報をもらった。ロープも張ってあり、ヤブ漕ぎをせずとも行けるようになったようですが、また一つ、「雪の山」が消えていく感じです。その先が、刈安山に向かって、1298p近くまで刈り進んでいるというから、またまたビックリです。



11/13 久し振りに大辻山。鳥越峠午前10時発。北尾根でナメコ狙いも、ちょっぴりだけ。1000m超えから、あちこちに雪が現れる。しかし、山頂はグチャグチャ。でも、展望は良し。

 そこに、ガリ君が立っていた。ナメコの話が出て、北尾根に誘う。やはりなかったが、ガリ君の執念が奏功したのか、最後の最後に見付ける事が出来る。そうなると楽しかった事になる。また一緒に行こうとなる。



11/12 eiko女史の都合が悪くなり、高落場山行きがなくなった。ちょっと、残念だけど仕方がない。またの機会を待つ事にする。その事で、「山ノ神」にメールが来ていたようだ。楽しみが先に延びたと思えばそれでいい。



11/11 今年も、そろそろ年賀状の時期になって来た。いつも早めにと思いながら、ギリギリになってしまうのだから情けない。その材料集めなのだが、あまりこれというものがない。また平凡なものになってしまうのかもしれない。

 年賀状には、いろいろな考え方があって、どれがいいというものではない。この時代、不必要だという方もあろう。でも私は、歳時記・風物詩などの言葉がある限り続けたいと思っている。確かにたくさん書くと費用が嵩むかもしれないが、自己アピールする機会であるし、また、元気にしているなどのメッセージでにも繋がる。

 この時期、欠礼のハガキが舞い込む。既に5通。昨年は30枚を超えた。いろいろな考え方もあろうが、そのハガキをナシにして、寒中見舞いにすれば、出す楽しみも、もらう楽しみもあるのだから・・・  何年か前、親様を亡くした友人が、「俺は出さないけれど、年賀状を出してくれ。」 と言った事があった。「年賀状が来ないと寂しいではないか!」 であったが、私もその類かもしれない。



11/10 一旦、スマホを諦めたが、最近は無性にやりたくなった。それは、キャリアでなくとも、割安で結構。「とにかくやってみたい。」 が本音。「ダメなら、また、ガラケーに戻せばいいじゃないか!」 ぐらいに考えればいいのかもしれない。残された時間は、 そんなに多くはないのだから、ましてや、必要とするのは、今しかないのであるから・・・・

 家にいる仕事だから、そんなにも必要ないのかもしれないが、外出時に、時折、あったら便利なのにと思うのである。全て遊び、そして、どうしても必要とは思われなかったが、この時代にいるからには、使わないではおれない気がしている。

 違約金や事務手数料などの他に、毎月それなりの費用が掛かるかもしれないが、いろいろと考えながら、それに負けないよう頑張ればよいように思っている。やりたい事があって、費用捻出の迫られれば、他の何かを削ればいいのかもしれない。



11/9 「足が痛くて山には登れない。」 「もう里の人になってしまった。」 と弱気のコメントを寄せてくれたeiko女史。一ヶ月前程に、「私の登れる山があるのなら・・」 のメールをもらい 「11/13に休みが取れた。」 との連絡があった。

 「ブナの落葉を、ゆっくり踏み締めながら、1時間のコースを、途中、コーヒーを飲みながら、2~3時間かけて登ろう。」 と約束をした。 しかし、「歩けない。」 という事を信じがたく、サブ(追加行程)の準備も欠かせない。

 2~3日前から、お天気が続き、サラッサラッと、落葉が鳴る音が大好きな私だけに、それを共有したい思いだが、さてさて、このところのお天気は分からない。実家の両親の体調が良くなく、かなりの時間を割いているeiko女史だが、今度は、身籠っている娘さんが安静を強いられているから堪らない。

 「そんな彼女の憂さ晴らし?」 のお手伝いが出来たらハッピーだ。もっとも、「彼女は山が好き!」 もしかしたら、「私よりも山が好きかもしれない。」 人生なかなか思うようにならないものだ。なるのは、ほんの少しの時間かもしれない。それを本当に大事にしなければならない。孫の送迎で、何とか言っている私(達)は、まだまだ幸せなのかもしれない。



11/8 「頭が痛い。」 と記したためか、ご心配を掛けは向きがある。「大丈夫なの?」 との問い合わせがあり恐縮している。血圧は、下がって来ているが、やっぱり少し高いのは間違いない。

 血圧は、下げる薬はあるが、上げる薬はないと聞く。また、ご臨終の時は、途方もなく下がってしまうようである。「山の空気」は、必ずしも妙薬ではないが、精神的安定剤である事は間違いない。

 6日・7日(月・火)の休日は、素晴らしい好天に恵まれ、気分が良かった。ナメコには行き当たらなかったが、新しい友人との交流も有り、楽しく過ごす事が出来た。仕事をしている時の好天に、次の休日時の雨予報となると、本当に精神的に悪くなる。

 「雨でも行く。」 「休日は、どんな時でも行く。」 と看板を上げてしまっているせいもあるのだろうが、最近は、「雨が好きなんですか?」 に取られている向きもある。誰だって好天が良い。でも、雨の時にも、場所・行程・交流などの非日常の何かがあるものである。それは、自然がそうさせてくれるのかもしれない。



11/7 今年の7月、小佐波御前山で出会った美紀さんと、そのお友達(明子さん)とで、鋲岳・烏帽子山に行って来た。昨日のお天気に劣らない好天で、楽しい時間をす過ごす事が出来た。お二人は、最近、山を始められたと聞き及んでいたが、なかなかの健脚で、我々は、タジタジであった。

 ナメコもなく、その道草を行程に入れていたのであるが、快足故に早々に山頂に着いてしまった。薄着でもおれる陽気に、僧ヶ岳と後立山連峰を眺めながら、次から次へと出て来る食べ物に、お腹がいっぱいと言いながら、ついつい箸を出してしまっていた。



11/6 朝起きても、運転していても頭が痛かった。「山ノ神」に膏薬を首筋に貼ってもらったのが奏功したのか、それとも、「山の空気」 が、治してくれたのか分からないが、いつの間にか頭の痛いのが吹っ飛んでしまった。

 今日は、ちょっと気になっていた高頭山行きとなったが、近年、晩秋に、この高頭山に出掛ける事が多くなっている。ナメコ採りもあるが、標高1,000m辺りからのブナ林が、お気に入りとなっているからかもしれない。

 そのナメコであるが、サッパリであった。辛うじて4本の立ち枯れから、僅かに頂いたが、近所の方々に、お裾分けする程の量ではなかった。昨年は、積もる雪の中から掘り出したのだから、時期がちょっと早かったのかもしれない。



11/5 昨日から後頭が痛い。肩から首筋も痛い。何が何だか分からないが、血圧を測ってみた。「148-99」 二回目が「137-98」 やばいがこのような程度ではクタバラナイ。それでも飲んだ。飲んだら、ちょっぴりだが楽になる。血流が良くなるからかもしれない。

 明日からの連休は、孫達の迎えを放棄し、朝だけは自由にさせてもらう事にした。明後日は、約束している山行がある。どちらにしても、山に行くし、元気を取り戻さなければいけない。



11/4 S先生に、PCもプリンターの接続も直してもらった。これでイライラも無くなるのだろうが、後は、「自分のエネルギーだけ。」 という事になる。まだ充電は出来ていない。でも、前に進む事以外、それ以上の喜びなどない。

 良き想い出だけにしがみ付いて、希望を語れないなんて寂しい話だ。ちょっとでも良いから、前に進みたいものだ。後ずさりなんて考えない方がいいように思うが如何なものか? 例え突っ張れなくとも・・・・



11/1 今年も、あと二ヶ月となった。とにかく時の経つのが早い。こんな調子でいくと、あっという間にお陀仏になってしまいそうだ。まあ~、体力の衰えは、目に見えているだけに,「イヤだな!」 が先に立つ。重荷を担ぐとか、長い距離を歩くのは、まだまだなのですが、下りのバランス感覚が悪く、慎重になってしまう。「転んだら終わり。」 が頭にあるからかもしれない。

 昨年に次いで、今年もナメコの不作?と思っていたら、FBで4人の方の収穫を見た。「少しだけだった・・」 の表現が多かったが、三味線かもしれない。昨年の事を思うと、ちょっと、時期的に早いのだが、後々の予定もあって、日にちがあまりない。来週の連休は、それに充てようかな!